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乙女ゲーの関係ないシスコン(兄)が自分探しの旅に出ようと思います  作者: 蛙の子はお玉杓子


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第3話 女誑しの辺境伯

 帝都を発つ朝、空には薄い雲がかかっていた。


 乗り合い馬車乗り場には、すでに多くの旅人が集まっている。大きな荷を背負った商人、杖を手にした魔術師風の男、腰に剣を提げた冒険者らしき一団。身なりも荷物もさまざまだが、彼らの視線は一様に、出発を待つ馬車へ向いていた。


 俺もその中に混じっている。


 従者はいない。護衛もいない。荷物は背負い袋一つと、旅の途中で使う最低限の道具だけだ。


 家の馬車を使えば、父上に行き先を知られるだろう。スルガ家の者を連れて行けば、ノルディアへ向かう前に止められる可能性もある。だから、帝都から先は乗り合い馬車を使うことにした。


 船旅に続いて、今度は陸路だ。


 故郷を出てからまだそれほど経っていないが、すでに旅の空気には慣れ始めていた。


「ノルディア方面へ向かう馬車は、こちらだぞ」


 御者が声を張り上げる。


 俺は乗車券を確認し、荷物を肩に掛け直した。


 帝都からノルディア領へは南へ向かう。帝国と王国の間にはバルト山脈が横たわっているが、街道は山脈を正面から越えるのではなく、西へ少し回り込むように続いていた。山脈の西側にはセレスティア教国との国境が近く、帝国と王国、教国の商人や旅人が行き交う道でもある。


 ノルディアは、エルグランド王国の北端に位置する辺境領だ。山脈を回り込んだ先にノルディア領があり、さらに南へ進めば王都。その先には、帝国とも交易を行う港町フェルナードがある。


 レオン・ノルディアに会うまでには、まだ時間がかかるだろう。


 その間に、できるだけ情報を集めておく。


 ルーカスから聞いた話では、レオンは十二歳で辺境伯家を継ぎ、現在は十六歳。若くして領地を治め、グラニウス・ノルディアの跡を継いでいるという。


 そして、ミコトの求婚を断った。


 そこまでは分かっている。


 ルーカスは、レオンが誰かを想っているように見えたと言っていた。ただし、それは本人から聞いた話ではなく、ルーカスの勘にすぎない。


 当てにならない勘だ。


 俺はその言葉を思い出し、軽く息を吐いた。


 レオンがどういう人物なのか。なぜミコトの求婚を断ったのか。それを確かめるために、俺はノルディアへ向かっている。


 馬車の扉が開いた。


「そろそろ出ます。乗る方はお急ぎください」


 俺は車内へ乗り込む。すでに何人かが席に座っていた。窓際には革の外套を着た年配の商人。その向かいには、武器を携えた若い冒険者が二人。奥の席には、赤みがかった髪を布で覆った女性が、籠を膝に置いている。


 俺は空いている席に腰を下ろし、背負い袋を足元へ置いた。


 馬車が動き出す。


 帝都の城壁が、窓の向こうをゆっくりと流れていった。


 帝都を離れていくにつれ、街道沿いの建物は少しずつ低くなり、店の数も減っていく。代わりに広い畑や牧草地が目立つようになった。ときおり小さな村が現れ、荷馬車や旅人が街道を行き交う。


 車内では、商人たちが荷の話をしていた。道中の宿や関所、南へ向かう街道の状態。聞くつもりがなくても、自然と耳に入ってくる。


「帝都から南へ向かうなら、バルト山脈の西側を回る道だな」


 向かいに座る年配の商人が、隣の男へ話しかけた。


「山を越えるんじゃないんですか?」


「山越えの道もなくはないが、馬車なら西へ回り込む街道が安全だ。山裾を通って、教国との国境に近い辺りを抜ける。その先がノルディア領だ」


「ノルディアは王国の北端でしたね」


「ああ。帝国から王国へ向かう者は、まずノルディアを通ることになる。王都はもっと南だ」


 商人は窓の外を指で示した。


「フェルナードへ行くなら、王都をさらに南へ進む。あそこは港町だからな。帝国との交易も盛んだ」


「帝国からも船が出ているんでしょう?」


「もちろんだ。フェルナードから帝都へ向かう船もある。こっちの街道を通って王都へ行き、そこから港町へ向かう商人も多い」


 フェルナードの名は、帝都でもよく耳にする。


 王国南部の港町で、帝国との貿易を担う重要な場所だ。船と陸路の両方で、さまざまな品が運ばれている。交易が盛んなのは知っているが、そこへ至る街道がノルディアや王都を通ることも、改めて聞けば分かりやすい。


「ノルディアは、若い領主が治めているんですよね」


 若い行商人が尋ねる。


「ああ。まだ十六歳だとか。グラニウス様の跡を継いで、領地を立て直しているらしい」


 俺は窓の外を見たまま、二人の会話に耳を傾けた。


 レオン・ノルディアの噂か。


「商人の扱いも悪くない。通行税をむやみに上げず、道の安全を保つ方に金を回していると聞いた」


「そりゃ商人にはありがたい」


「ノルディア領の者たちも、領主を悪くは言わないそうだ。父親の名声が大きいと、比べられて苦労するものだがな」


 そこで商人は、少し声を落とした。


「もっとも、若い領主が一人でできることじゃない。周りに有能な者がいるんだろう」


「それでも、決断するのは本人だろう?」


「違いない」


 二人はそれ以上、レオンの話を続けなかった。


 俺は窓の外へ目を向けたまま考える。


 領地を発展させ、領民や商人からも一定の評価を得ている。ルーカスの話とも矛盾しない。


 ミコトが惹かれたのも、そういうところなのだろうか。


 いや、まだ判断するには早い。


 俺は背負い袋から水筒を取り出し、口をつけた。


 馬車は南へ進んでいく。


     *


 帝都を発って数日後、馬車はバルト山脈の西側へ回り込む街道沿いの宿場町へ着いた。


 町には宿屋や食堂、武具屋、雑貨屋が並び、街道を行き交う人々で賑わっている。商人は荷を確認し、旅人は足りない道具を買い足していた。馬車の車輪や荷台を修理する職人の姿もある。


 山脈を越えるための峠町ではない。街道は険しい山道に入らず、山裾に沿って西へ回り込み、教国の国境に近い地域を抜けてから、再び南へ向かう。遠回りにはなるが、荷馬車が通れる道としては安全なルートだという。


 この町で一泊し、翌朝にはまた南へ進むらしい。


 俺は宿の主人に一人だと伝え、部屋を取った。荷物を置いてから、一階の食堂へ下りる。


 夕食時ということもあり、食堂には旅人や商人、運送業者の姿が多い。あちこちから楽しそうな笑い声が聞こえ、酒の匂いと料理の香りが混ざり合っていた。


 空いている席へ腰を下ろすと、店員が水を運んでくる。


「おすすめを頼む」


「かしこまりました」


 店員は一礼し、厨房へ戻った。


 壁際では商人らしい男たちが荷の話をしている。別の卓では護衛たちが翌日の道順を確認していた。俺は食事を待ちながら、店内を見回した。


 こういう場所では、話を聞くのに苦労しない。


 しばらくして、焼いた肉と香草の効いたスープ、黒パン、それに温野菜が運ばれてきた。肉には香草の香りがしっかりと染み込んでいる。俺は一口食べた。


 うまい。


 スープにも数種類の香草が使われているらしく、冷えた身体が温まった。


 食事を楽しんでいると、隣の卓から聞き覚えのある名前が出てきた。


「レオン様が来られた時は、宿の者たちも驚いていたな」


 旅装の男が、仲間に話しかけている。


「ノルディアの若い領主だろう? 何に驚いたんだ?」


「いや、領主本人にじゃない。連れの女性だよ。飛び切りの美人でな」


 男は酒を一口飲み、少し身を乗り出した。


「護衛だと言っていたが、あんな美人がずっとそばにいたんだ。そりゃ、宿の者だって気になる」


 俺は手を止めた。


 レオンの名前に続いて、美人の女性。


 ルーカスの言っていた「誰かを想っているように見えた」という話が、頭の中をよぎる。


「それで、その二人はどうしたんだ?」


「同じ部屋に泊まったんだと」


「一部屋に?」


「ああ。最初は宿の主人も、教国からそう手配されていると言っていたらしい。二人で一部屋。それも、あの美人の護衛とだ」


 周囲の男たちが、そろって感心したような声を上げる。


「若い領主もやるな」


「護衛というのは、本当に護衛だったのかねえ」


「さあな。だが、見ていた者の話じゃ、二人はずいぶん親しそうだったそうだ」


 俺は何も言わずに食事を再開した。


 護衛か。


 レオンが誰かを想っているのだとしたら、この女性のことかもしれない。


 顔も知らない女性だが、宿の者たちが「飛び切りの美人」と口にするほどなら相当な美貌なのだろう。レオンと一緒に旅をし、同じ部屋に泊まるほど親しい。


 なるほど。


 ルーカスの勘が、少しだけ当たっている可能性はある。


「帰りにも、この宿へ寄ったんだろう?」


 別の男が尋ねた。


「ああ。そこがまた面白くてな」


 話していた男は声を潜めた。


「帰りは二部屋取ったそうだ」


「二部屋?」


「そうだ。一緒に旅をしてきて、行きは一部屋だったのに、帰りは別々。宿の主人も不思議に思ったらしい」


「何かあったんじゃないか?」


「そう考える者もいた。あの女性が急に体調を崩したんじゃないかとか、別の理由で二部屋にしたんじゃないかとか」


 男は、意味ありげに笑う。


「中には、もしかしたら妊娠したんじゃないか、なんて噂する者までいたそうだ」


 俺は危うくスープを噴き出しそうになった。


 妊娠?


 いや、待て。まだ噂だ。根拠も何もない。


「まあ、宿の者たちが勝手に言っているだけだろう。実際には何もなかったかもしれない」


「そりゃそうだ。俺たちは見たわけじゃないからな」


 男たちは笑い、別の話題に移っていった。


 俺はしばらく、手元の皿を見つめていた。


 美人の護衛と一部屋で泊まり、帰りは二部屋。さらに、妊娠したのではないかという噂まである。


 これは、どう受け止めればいいのだろう。


 レオンがミコトの求婚を断った理由は、すでに想い人がいるからなのかもしれない。ルーカスが言っていた相手は、この女性ではないか。


 だが、もしそうだとしても、なぜ帰りには部屋を分けたのか。宿の主人たちが噂するような事情が本当にあったのか。


 本人に会って聞くまでは分からない。


 分からないが、気になる。


 食事を終えた後、俺は宿の主人に声をかけた。


「少し聞きたいことがある」


「はい。何でしょうか?」


「以前、レオン・ノルディアがこの宿に泊まったと聞いた。連れの女性も一緒だったそうだな」


 主人の目が少し見開かれた。


「お客様は、レオン様をご存じなのですか?」


「いや、直接会ったことはない。少し話を聞きたくてな」


「そうでしたか」


 主人は、周囲に客がいないことを確かめてから、声を落とした。


「レオン様が最初にお泊まりになった時は、教国の聖騎士様とお二人でした。大変お美しい方でしたよ」


「同じ部屋に泊まったというのは本当か?」


「ええ。教国からそのように手配されていたと聞いております。お二人とも、特に気にされていないようでした」


 主人の話では、帰りに再び立ち寄った時には別々の部屋を取ったという。宿の者たちはその変化を不思議に思い、妊娠したのではないかと噂したらしい。


「もちろん、私どもには、お二人がどういう関係なのかまでは分かりません。ただ、仲が良さそうには見えました」


「そうか。話してくれてありがとう」


 主人に礼を言い、俺は二階へ戻った。


 ルーカスが言っていた相手は、その聖騎士なのだろうか。


 エミルという名だったはずだ。教国の聖騎士で、レオンと一緒に帝都を訪れた女性。


 レオンが彼女を娶るのかと聞かれ、「今はそういうことは考えていない」と答えた。だが、その時には誰かのことを考えているように見えた。ルーカスはそう言っていた。


 ならば、エミルが想い人である可能性はある。


 ただし、今聞いた話だけでは断定できない。


 俺は窓の外を眺めながら、聞いた話を頭の中で整理した。


     *


 翌朝、馬車は西へ向かう街道を進んだ。


 バルト山脈の西側を回り込む道は、山に近づくにつれて緩やかに曲がっていた。険しい峠道へ入ることはないが、山裾に沿って進むため、同じ景色が長く続く。片側には森や丘陵が広がり、反対側には遠く山並みが見えた。


 街道沿いには、石を積んで補強した箇所や、排水溝を設けた場所がある。大雨の後でも道がぬかるみにくいよう、工夫されているらしい。ところどころに休憩所があり、旅人たちはそこで水を飲み、馬を休ませていた。


 道が西へ折れるにつれて、国境を意識させるものも増えていく。街道の脇には石標が並び、巡回する兵士たちの姿も見えた。帝国とセレスティア教国、そしてエルグランド王国の境界が近い地域だ。


 国境の近くでは、商人たちが通行証を用意し、積み荷の確認を受けていた。


 俺はその様子を眺めながら、周囲の会話に耳を傾ける。


「この辺りは、教国へ向かう道とも近いからな。旅人も商人も多い」


 向かいに座っていた毛皮商人が言った。


「帝都から王国へ向かう者も、教国へ向かう者も、この道を使うんですか?」


 若い行商人が尋ねる。


「そうだ。バルト山脈を越えるのではなく、西側を回って山を避ける。国境に近いから警備もあるし、道も整備されている。遠回りに見えるが、馬車ならこの方が確実だ」


「山を越える道は危ないんですか?」


「道が険しい場所もある。荷を積んだ馬車で通るには向かないところが多い。こっちの道なら、時間はかかっても大きな荷を運べる」


 毛皮商人は、窓の外に見える山並みを指した。


「山脈の向こう側へ出れば、ノルディア領だ。王国の北端にある。そこから南へ向かえば王都、さらに南へ進めばフェルナードの港町だ」


 俺は頷いた。


 帝国からノルディアへ入り、王国を南へ進む。王都はさらに南。フェルナードはその先にある港町だ。


 道の位置関係は、頭の中で整理できている。


「フェルナードは帝国との交易も盛んだ。港から帝都へ荷を運ぶ船もあるし、陸路を使う商人もいる」


「フェルナードから帝都へは、海路と陸路の両方があるんですね」


「ああ。荷物や季節によって使い分ける。船なら大量に運べるが、天候に左右される。陸路なら時間はかかるが、途中の町で商売もできる」


 フェルナードは帝国にもよく知られた交易地だ。俺も何度かその名を聞いている。港町としての役割だけでなく、王国南部の商業を支える場所でもある。


 その町の聖女がフローラだ。


 フローラがレオンと親しいという話は、帝国との交易を通じて耳にしたことがあった。だが、抱きつくほど親しいとは知らなかった。


 まして、見送りのキスまでしたという。


 俺は窓の外を見たまま、眉をひそめた。ルーカスの言っていた「誰かを想っているように見えた」というのは、フローラのことだったのかもしれない。


「フェルナードの聖女様は、レオン様に抱きついたんだろう?」


 別の乗客が、毛皮商人に尋ねた。


「ああ。俺の知り合いがフェルナードから来たんだが、領都で二人が一緒にいるのを見たそうだ。聖女様がレオン様に抱きついて、周りも驚いていたらしい」


「人前でか?」


「人前でだ。しかも、レオン様も嫌がっている様子はなかったとか」


 俺は耳を澄ませた。


「見送りの時には、聖女様がレオン様にキスをしたという話も聞いたぞ」


「頬にか?」


「そこまでは分からん。見た者によって話が違うんだ。頬だったという者もいれば、口だったという者もいる」


 男たちは、面白がるように笑った。


 フローラがレオンに抱きついた。


 見送りにキスをした。


 その話をする者は、帝都からここまでで何人もいた。噂が事実に近いのか、同じ話に尾ひれがついて広まったのか。俺には分からない。


 だが、フローラとレオンの親交は知っていた。だからこそ、今回の話には驚いた。


 聖女という立場の女性が、領主に人前で抱きつき、キスまで交わす。それが事実なら、相当親しい関係なのだろう。


 エミルという聖騎士の話もある。


 美人の護衛と一部屋で泊まり、帰りには別々の部屋を取った。宿の者たちは、妊娠したのではないかと噂していた。


 エミルとフローラ。


 どちらが想い人なのか。


 それとも、俺が知らないだけで、他にもいるのか。


 考えれば考えるほど、分からなくなる。


 馬車は西へ回り込み、やがて南へ進路を変えた。


 道の向こうには、ノルディア領の町や畑が見え始めている。山脈の影が遠ざかり、街道の両側には牧草地や集落が広がっていた。


 乗客たちは、少しずつ口数を増やしていく。


「山を回り込む道は長いが、ここから先は走りやすい」


 毛皮商人が言った。


「ノルディアの街道は手入れされているからな。領主様が力を入れているらしい」


「領主様は、そんなに領民に好かれているんですか?」


「少なくとも商人たちには評判がいい。道が整えば商売がしやすい。領地も潤う。若いのに、先のことを考えているんだろう」


 また、レオンへの評価だった。


 俺はその話を聞き、複雑な気持ちになった。


 領主としては優れている。


 それは、もう疑いようがないように思える。


 だが、女性関係の噂は妙に派手だ。


 領民に慕われているからといって、ミコトにふさわしいとは限らない。


 俺はそう自分に言い聞かせた。


     *


 山脈の西側を回り、ノルディア領に入ってから数日後、馬車は領内の宿場町へ到着した。


 町の規模は、それまで立ち寄った宿場町より小さい。だが、王国の北端にある街道の要所らしく、宿屋や食堂には人が集まっていた。荷馬車が道の両側に並び、商人たちは商品を確かめながら翌日の移動について話している。


 乗り合い馬車を降りた俺は、近くの宿を探した。


 この町で一泊し、明日の朝にまた南へ向かう。宿の主人へ一人だと伝えると、空いている部屋へ案内された。荷物を置いて食堂へ降りる。


 食堂には、近隣の村から来た者や、ノルディア領内を巡る商人らしき者たちが集まっていた。町の住人もいて、店の奥では何人かが酒を飲みながら談笑している。


 俺は食事を注文し、周囲の話に耳を傾けた。


 しばらくすると、隣の卓から女性の話題が聞こえてくる。


「この前、領都でフェルナードの聖女様を見かけたんだ」


「聖女様って、あのフローラ様か?」


「ああ。美人だったな。レオン様と一緒にいた」


 俺は手を止めた。


「一緒にいたというより、聖女様の方から抱きついていたぞ。周りに人がいるのも気にせず、レオン様にぎゅっとな」


「本当か?」


「見た者が何人もいる。レオン様も嫌がっている様子はなかったらしい」


 別の男が、からかうように笑った。


「領主様も隅に置けないな」


「領民の前で堂々とやるんだから、隠す気もないのかもしれないぞ」


 俺は食事を口に運びながら、会話を聞き続けた。


「領都から出る時には、見送りに来ていたそうだ」


「それだけ仲がいいってことか」


「見送りの時にキスをした、なんて話もあるぞ」


「おいおい、そりゃ本当か?」


「俺が見たわけじゃない。だが、街道沿いで見送った者が言っていた。聖女様がレオン様の頬に口づけたとか」


 話していた男は、真偽を確かめる様子もなく肩をすくめた。


「まあ、あれだけ親しそうなら、そういうこともあるのかもしれんな」


 俺は食事の手を止めていた。


 フローラがレオンに抱きつき、見送りにキスをした。


 帝国からノルディアへ向かう道中で聞いた話と同じだ。噂は少なくとも、領都近くまで広まっているらしい。


 俺は、フローラの顔を思い浮かべた。


 彼女はフェルナードの聖女だ。帝国との交易にも関わり、帝都でも名を知られている。レオンとの親交についても聞いていた。


 それでも、抱きつき、キスをするほどの仲だとは知らなかった。


「他にも、レオン様の屋敷に出入りしている娘がいるんだろ?」


「クロエさんのことか?」


「そうそう。専属商人のクロエさん。小柄で可愛らしい娘さんだって聞いた」


 俺の手がまた止まった。


「そのクロエさん、屋敷で一緒に暮らしているという話もあるぞ」


「一緒に暮らす?」


「仕事の都合で泊まることがあるんじゃないか。専属商人なら、領主様と話す機会も多いだろう」


「フェルナードの聖女様に、教国の聖騎士様。それにクロエさんか。レオン様も大変だな」


 男たちは冗談めかして笑っていた。


 俺は、食事を口へ運ぶ。


 専属商人の娘ではない。クロエという名の専属商人本人だ。


 小柄で可愛らしく、レオンの屋敷に出入りし、時には泊まることもあるという。


 これで、エミル、フローラ、クロエの三人。


 いや、クロエについては仕事の都合かもしれない。宿の主人も、噂だけで決めつけるなと言っていた。


 それでも、レオンの周囲に女性が多いことは間違いない。


 食事を終え、俺は宿の主人に声をかけた。


「レオン・ノルディアについて、少し聞かせてほしい」


「領主様のことでしょうか?」


「ああ。フェルナードの聖女や、教国の聖騎士、専属商人のクロエという娘の噂を聞いた」


 主人は、少し驚いた様子で俺を見た。


「その話をどこで?」


「食堂で聞いた」


「そうでしたか」


 主人は慎重に言葉を選ぶように続けた。


「レオン様が多くの方と親しくされているのは確かです。ですが、私どもが知っているのは、あくまで見かけた範囲のことです。聖女様はフェルナードから来られるたび、レオン様とお会いになる。聖騎士様は長く領内に滞在されていた。クロエさんは専属商人ですから、商談で屋敷に出入りしている」


「それぞれ、事情はあるということか」


「はい。クロエさんが屋敷に泊まったという話も、仕事の都合かもしれません。聖女様との口づけも、見た人によって話が違います。噂だけで決めつけるのは、よくないでしょう」


 主人はそう言って、穏やかに笑った。


「ただ、レオン様がどなたにも親切なのは本当です。人の話を聞き、礼を欠かさない。だから、親しくしている相手が多いのでしょう」


「親切だから、か」


「ええ。若い領主様ですから、女性たちが惹かれるのも無理はないのかもしれません」


 主人は悪気なくそう付け加えた。


 俺は礼を言って、食堂を離れた。


 親切だから、女性に好かれている。


 その可能性はある。


 だが、ミコトもまた、レオンに惹かれた一人だ。


 もしレオンが誰にでも優しくしているのなら、ミコトはその優しさを自分だけのものだと感じてしまったのかもしれない。


 彼女は自分から求婚した。レオンを信じていたからこそ、勇気を出したのだろう。


 その気持ちを断られた。


 ミコトは平然としていたが、本当は傷ついていたのではないか。


 俺はその可能性を考え、胸の奥が熱くなるのを感じた。


     *


 翌朝、馬車は再び南へ向かった。


 終点のノルディア領都までは、あと半日ほどだという。


 街道沿いには家や店が増えていく。荷馬車の往来もさらに多くなり、ノルディア領へ商品を運ぶ商人たちの姿が目立ち始めた。


 車内では、同乗者たちが領都での用事について話していた。


「俺は領都で荷を届けたら、フェルナードへ向かう」


「港町まで行くのか?」


「ああ。帝国向けの荷もある。フェルナードから帝都へ海路で運ぶ品も増えているんだ」


「ノルディアの街道が整ってから、陸路で運ぶ商人も増えたらしいな」


「領主様が道を整えたおかげだな」


 フェルナードと帝都を結ぶ交易の話も出た。フェルナードは王国南部にある港町で、帝国との貿易も盛んだ。海路を使う商人もいれば、ノルディアや王都を通る陸路を使う商人もいる。


 話題が自然に移り、やがてレオンの名前が出た。


「そういえば、フェルナードの聖女様が、また領都に来られたらしい」


「レオン様に会いにか?」


「用事があったのかもしれないが、かなり親しそうだったと聞いた。人前で抱きついて、帰り際にはキスまでしたそうだ」


「またその話か。どこまで本当なんだ?」


「俺は見ていない。ただ、見たという商人から聞いた」


 俺は窓の外を見た。


 フローラがレオンに抱きつき、見送りのキスをした。


 それを語る者は、少なくとも二人目だ。


 噂が事実に近づいているのか、それとも同じ話が人から人へ広がっているだけなのか。


 分からない。


 だが、これだけ何度も耳にすれば、無視するのも難しい。


 俺はミコトがレオンのことを話した時の表情を思い出した。


 ほんの少し頬を赤くして、遠くを見つめていた。


 あの顔は、レオンを想っている者の顔だった。


 レオンは、ミコトの気持ちを知っていたのだろうか。


 知っていたうえで、他の女性たちにも同じように優しく接していたのか。


 もし、そうなら。


 俺の中に、疑いがはっきりと形を取り始めた。


 レオン・ノルディアは、女誑しなのではないか。


 そして、ミコトはその男に騙されているのではないか。


 俺は拳を握りしめ、すぐに力を抜いた。


 まだ本人の話を聞いていない。


 決めつけるのは早い。


 それでも、会った時に問いただすことは決まった。


 なぜミコトの求婚を断ったのか。


 エミルという聖騎士と、どういう関係なのか。


 フローラとは、なぜ抱き合い、キスをしたのか。


 クロエとは、なぜ同じ屋敷に住んでいるのか。


 まるで尋問だな。


 そう思いながらも、質問は増える一方だった。


 やがて、馬車の窓の向こうに城壁が見えた。


 ノルディア領都だ。


 馬車が町へ近づくにつれ、人の往来が増えていく。街道沿いには宿や商店が並び、店先では人々が忙しく働いていた。荷車を押す者、商品を運ぶ者、兵士と話をする商人。町は活気に満ちている。


 馬車が停留所に着いた。


「ノルディア領都です。お忘れ物のないように」


 御者の声に、乗客たちが荷物を手に取る。


 俺も背負い袋を肩に掛けて、馬車を降りた。


 この町がレオン・ノルディアの治める場所だ。


 領主としての評判はいい。領民にも慕われている。街道や橋を整え、商人の話にも耳を傾けている。


 一方で、女性たちとの噂は絶えない。


 美人の聖騎士と一部屋に泊まり、帰りには別々の部屋を取った。宿の者たちは、妊娠したのではないかと噂した。


 フェルナードの聖女フローラとは、抱きつかれ、見送りにキスをされた。


 専属商人のクロエとは、同じ屋敷で暮らしているという。


 そのすべてが本当とは限らない。


 だが、ミコトが騙されている可能性は、頭から消えなかった。


 まずは宿を探そう。それからノルディア邸へ向かい、レオン本人に会う。


 噂の真偽を確かめる。ミコトの求婚を断った理由を聞く。


 そして、もし妹が傷つけられていたのなら――。


 俺は背負い袋を肩に掛け直し、町の通りへ歩き出した。


 レオン・ノルディア。


 領民から慕われる若き領主。


 そして、女誑しの疑いがある男。


 可愛い妹が騙されていたのではないか。


 その疑いを抱えたまま、俺はレオンの屋敷を目指した。

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