第1話 最近、妹が変らしい
ヤマト地方スルガ町の朝は、潮の匂いとともに始まる。
東の海から昇った朝日が、町並みを薄い金色に染めていた。黒瓦の屋根には夜露が残り、軒先の看板が海風に揺れている。魚屋では店主が威勢よく声を張り上げ、米屋の前では荷を積んだ馬が主人の合図を待っていた。
荷車の車輪が石畳を転がる音に、桶を担いだ男たちの声が重なる。商家の二階からは洗濯物が風に揺れ、路地の奥からは炊きたての米や味噌汁の香りが漂ってきた。
町の中央にある市場は、朝の鐘が鳴る前から賑わい始めている。魚や野菜を売る露店が軒を連ね、職人たちは店先で道具を広げていた。旅支度を整えた商人たちは、港へ向かう道を足早に進んでいく。
帝都の整然とした街並みとは違い、スルガ町は少し入り組んでいた。木造の家々が肩を寄せるように建ち並び、大通りから一本入れば、細い路地が迷路のように続いている。店先には色とりどりの暖簾が掛かり、通りの角では、朝から職人が木材を削る音を響かせていた。
遠くで港の鐘が鳴った。
船が入ったのだろう。海風に乗ってカモメの声が届き、町の屋根の向こうには帆柱がいくつも見えた。
俺はこの景色を、幼い頃から見てきた。
帝国東部の島国、ヤマト地方スルガ町。ここが俺の故郷だ。
スルガ家の屋敷は、町の喧騒から少し離れた高台にある。黒い瓦を載せた門の向こうには広い庭があり、その奥に木造の屋敷が建っていた。庭の松は潮風に枝を揺らし、池の水面には朝日が映っている。
俺は庭の中央で木刀を振っていた。
素振りはすでに千回を超えている。息は乱れておらず、木刀の軌道にもぶれはなかった。
建国の英雄ハルトの再来。
俺はそう呼ばれることがある。
黒髪黒目の容姿に、剣の才。政治や軍略にも優れていると周囲は言う。帝国第一皇子ジークハルトと比べられることもあるが、俺自身はその評価に甘えるつもりはなかった。
どれだけ才能があろうと、鍛錬を怠れば意味がない。
木刀を振り下ろす。風を切る音が、静かな朝の庭に響いた。
「兄さん」
背後から声がした。
振り返ると、ミコトが庭へ入ってくるところだった。
黒髪を後ろでまとめ、いつものように落ち着いた顔をしている。背筋は伸び、歩き方にも無駄がない。妹は幼い頃から、家族の前でもあまり表情を変えなかった。
「どうした、ミコト?」
「兄さん。今日は、抜刀術ではない剣の稽古をつけていただけませんか」
俺は木刀を持ったまま、動きを止めた。
「抜刀術ではない剣の稽古?」
「はい。剣を打ち合う稽古をお願いしたいのです」
ミコトは抜刀術を基本としている。鞘から刀を抜く一瞬に全てを懸ける剣だ。対して、俺が日頃稽古しているのは、抜いた剣で相手と打ち合う型だった。
ミコトはすでに剣を習っている。その上で、今までとは違う剣を学びたいということだろう。
考えられる理由はいくつかある。
だが、そんなことはどうでもいい。
ミコトが俺を頼ってくれた。
「分かった! もちろんだ!」
俺は力強く頷いた。
「兄さんに頼めば、きっと教えていただけると思いました」
ミコトは、いつもの落ち着いた声で言った。
頼られた。この俺に。
その事実が胸に響く。俺は木刀を一本取り、彼女へ渡した。
「任せておけ。ミコトならすぐに身につけられる。あっという間に、あのアホな帝国の剣なんかより強くなれるさ!」
「兄さん、違います。ルーカス殿下とは試合しません」
「そうだったな」
ミコトはルーカスと試合をするために、俺へ稽古を頼んだわけではない。
もちろん、試合をしないからといって、ミコトが強くならなくていいわけではない。
「だが、強くなって損はない。ミコトならすぐに上達する。剣の腕だけではなく、何をしても優れているからな」
「兄さん。今は剣の稽古の話です」
「分かっている。剣の話だ」
「可愛いとか、美しいとかは関係ありません」
「関係ある。ミコトの素晴らしさを語るのに、関係ないことなどない」
「稽古をお願いします」
「もちろんだ!」
俺は木刀を構えた。
ミコトも木刀を構える。普段は抜刀術を使うため、鞘を意識した構えが身についている。けれど、木刀を持つ手にも、足の置き方にも無駄はなかった。
「まずは、俺の動きを見ていろ」
「はい」
俺は正面に構え、ゆっくりと一歩踏み込んだ。木刀を上段から振り下ろし、そこから横へ薙ぐ。打ち合いでは、抜刀術のように一撃で勝負を決めることは難しい。相手の動きを見ながら、次の一手を重ねていく必要がある。
「今度はミコトが打ち込んでみろ」
「分かりました」
ミコトが一歩踏み込んだ。
木刀が風を切り、俺の肩へ振り下ろされる。俺はそれを受け流した。ミコトの木刀が外へ逸れる。彼女はすぐに体勢を整え、後ろへ下がった。
「悪くない。だが、打ち込んだ後に動きが止まっている。抜刀術なら、最初の一撃で勝負を決めることもできる。けれど、打ち合いでは相手が受けた後も続けなければならない」
「次の動きへつなげるのですね」
「そうだ。相手の剣がどこへ流れたかを見て、次に何ができるか考える」
「もう一度お願いします」
ミコトは木刀を構え直した。
打ち込みを繰り返す。
ミコトは助言をよく聞き、次の動きですぐに試していた。失敗しても、同じ間違いを何度も繰り返さない。何を直せばいいのか、自分で考えている。
飲み込みが早い。
やはり、俺の妹は優秀だ。
このまま稽古を続ければ、さらに強くなるだろう。いずれは帝国の剣と並び、いや、それ以上の剣士になるかもしれない。
もちろん、試合をする必要はない。
強さとは、誰かに勝つためだけにあるものではないからだ。
ミコトの木刀が、俺の木刀にぶつかった。
乾いた音が庭に響く。
しばらく稽古を続けた後、ミコトが不意に動きを止めた。
「どうした?」
「いえ」
ミコトは木刀を持ったまま、塀の向こうへ視線を向けていた。
その先にはヤマトの町が広がっている。朝日を受けた屋根瓦が連なり、遠くには港の帆柱が見えた。海の向こうには、朝靄にかすむ島影が浮かんでいる。
ミコトは、じっと景色を見つめていた。
頬が、ほんの少し赤い。
「ミコト?」
「はい」
「何か気になるものでもあるのか?」
「何でもありません」
「頬が赤いぞ。疲れたのか?」
「稽古をしていましたから」
「そうか。無理はするな。妹の体調に何かあったら、俺は―「大丈夫です」」
ミコトは木刀を下ろした。
表情はいつもと変わらない。それでも、もう一度だけ塀の向こうへ視線を向けた。
何かあったのだろうか。
ミコトが遠くを見つめて頬を染める理由。体調不良ではなさそうだ。何か悩み事か、それとも、町の向こうに気になるものでもあるのか。
俺が考え込んでいると、屋敷の廊下から母が庭へ出てきた。
「二人とも、稽古をしていたの?」
「はい。ミコトから頼まれました」
「あら。ミコトが自分からお兄さんに稽古を頼むなんて珍しいわね」
「兄さんの剣を見て、学びたいと思っただけです」
「そうなの」
母のコトハは楽しそうに微笑んだ。
「でもミコト、さっき遠くを見つめて頬を赤くしていたわね」
「そうでしたか?」
「あらあら、またレオンさんのことを考えていたのね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが止まった。
レオン・ノルディア。
エルグランド王国の北部を治める辺境伯。そして、ミコトが想いを寄せる男。
ミコトから求婚され、その求婚を断った男だ。
俺はそのことを知っている。忘れたことなど一度もない。
去年、ミコトがレオンに求婚したと聞いた時、俺は驚いた。妹が自分から男に想いを伝えるなど、想像もしていなかったからだ。
相手がレオンだと聞き、彼の実績や能力を考えれば、ミコトが惹かれるのも理解できると思った。
だが、求婚を断ったと聞いた瞬間、そんな理解は跡形もなく消えた。
あの時は、ノルディアへすぐに向かおうとした。
父上に止められた。母上にも止められた。ミコトにも止められた。
家族三人は、俺の前に立ちはだかったのだ。
今思い返しても、納得できない。
ミコトは今も、レオンのことを考えている。
遠くを見つめ、頬を赤くして。
俺の妹が、あの男を想っている。
ならば、兄として動かないわけにはいかない。
「兄さん?」
ミコトが俺の顔を覗き込む。
「どうしましたか?」
「何でもない」
「何でもない顔ではありません」
「少し考えていただけだ」
「何をですか?」
「……稽古について」
「そうですか」
ミコトはそれ以上、尋ねなかった。
母上は俺とミコトを交互に見て、穏やかに笑っている。
「ヒロトは本当にミコトが好きね」
「当然です」
「ふふ。そうね」
ミコトを守ることは、兄として当然の責務だ。
ただし、レオンに"天誅"を下すことがミコトの幸せにつながるかどうかは、慎重に考える必要がある。
感情だけで動いてはならない。
まずは情報を集める。レオンが求婚を断った理由を確かめる。本人と話をする。その返答が筋の通ったものなら、こちらも相応の対応を考えよう。
もし、ミコトを軽んじた結果だったなら――。
その時は、その時だ。
俺は頭の中で計画を組み立てた。
王国北部へ向かうには、まず船でヤマトを出て帝国本土へ渡る。それから帝都を経由して西南へ進み、国境を越えた後は南下すれば、ノルディア領だ。
帝都から王国へ直接向かう船もあるが、そちらは王国南部からかなりの距離を北上しなくてはならない。 それに商人や外交関係者が多く利用する。スルガ家の嫡男が乗れば、すぐに噂が広がるだろう。まずは本土へ渡り、街道を使う方が目立たない。
同行者は最小限にする。大勢を連れていけば、スルガ家としての訪問だと受け取られる。個人としてレオンに会うなら、目立たない方がいい。
父上に相談すれば、確実に止められるだろう。
ならば、相談しなければいい。合理的な結論だった。
その夜、俺は自室で旅の準備を整えた。
替えの衣服、路銀、地図、保存食、手入れを済ませた刀。必要なものを一つずつ確かめ、荷物をまとめる。
準備を終えると、机に向かい、父上への置き手紙を書き始めた。
「置き手紙とはいえ、礼儀は大切だ。まずは……拝啓、お父様へ」
俺は丁寧な挨拶を口にしながら、筆を走らせた。
続けて、旅に出る理由を考える。
「自分の身の丈を知るため、旅に出ます。強者と戦い、己を知ろうと思います……」
筆を進める。
「まず小手調べに、王国北部で一戦やろうと思います」
書き終えた手紙を見直した。
「うむ。目的も行き先も、きちんと伝わるな」
俺は満足して、手紙を封筒へ入れた。机の上に置いておけば、朝には父上が見つけるだろう。
明朝、父上と母上が起きる前に屋敷を出る。ミコトにも挨拶はしない。顔を見れば心配を掛けるかもしれないし、出発を止められる可能性もある。
ミコトに「行かないでください」と言われたら、俺はどうするだろう。
絶対……行けなくなる。
だから会わない。それが最善の策だった。
翌朝、まだ空が白み始めたばかりの頃、俺は屋敷を出た。
門番には、港まで見送りに行く知人がいると伝えてある。旅装は外套の下に隠し、荷物は必要最小限にまとめていた。
高台から町へ下りる坂道は、朝の湿気で少し滑りやすくなっていた。道の脇には石垣が続き、ところどころに小さな祠がある。朝の市場へ向かう人々が坂を上ってくる。魚を入れた籠を背負う者、店の品を荷車に積む者、店先を掃くための箒を持つ者。町は少しずつ目を覚ましていた。
大通りを抜けると、魚屋が今日の獲物を並べていた。包丁の音と客を呼ぶ声が響く。茶屋の軒先では湯気が立ち、焼きたての団子を並べる店に、早くも人が集まっていた。
町の賑わいを横目に、俺は港へ急いだ。
桟橋には、帝国本土へ向かう船が停泊していた。船員たちが荷を積み込み、商人や旅人が乗船を始めている。帆はすでに張られ、船体は波に揺れていた。
俺は乗船券を差し出し、船へ乗り込んだ。
誰にも見つかっていない。
計画は順調だ。
船が港を離れていく。
甲板から振り返ると、ヤマトの町並みが少しずつ遠ざかっていた。朝日を受けた瓦屋根が連なり、その向こうにはスルガ家の屋敷がある高台が見える。港では人々が小さくなり、店の暖簾も、家々の間を行き交う人影も、次第に見分けられなくなっていった。
潮風が頬を撫でる。
ミコトは、まだ眠っているだろうか。
昨日の稽古の途中、彼女はレオンを思い出していた。頬を赤く染め、遠くを見つめていた。
俺の妹が、あの男を想っている。
ならば、兄として動くべきだ。
俺は遠ざかる故郷を見つめた。
待っていろ、レオン・ノルディア。必ず会いに行く。
こうして俺は、ヤマトを後にした。
◇
翌朝、クニヒロは息子の部屋で一通の置き手紙を見つけた。
ヒロトの姿が見当たらないと報告を受け、書斎や稽古場を確認した後だった。部屋には整えられた寝台と、使われた形跡のない朝の茶が残っている。
机の上には、封をされた手紙が一通置かれていた。
クニヒロは嫌な予感を覚えながら、封を切った。
書き出しに目を通したところで、眉間に深い皺が寄る。
「……天誅?」
その先を読む。
◇
天誅、お父様へ
自分の身の丈を知るため、旅に出ます。
強者と戦い、己を知ろうと思います。
まず小手調べに王国北部へ行き、一戦殺ろうと思います。
心配は無用です。
必ず己を見つめ直し、立派な男になって戻ります。
ヒロト・スルガ
◇
クニヒロは、手紙を持つ手に力を込めた。
「あのバカ息子が!!」
怒声が屋敷に響いた。
少し遅れて部屋に入ってきたコトハが、クニヒロの手元を覗き込む。
「あらあら、本当にミコトのことが好きなのね」
「そういう問題ではない!」
「でも、ミコトのために旅に出たのでしょう?」
「王国北部へ行って一戦殺ろうと書いてあるんだぞ! 一歩間違えれば戦争になりかねない!」
クニヒロは廊下へ出て、近くにいた家臣を呼び止めた。
「ノルディアに急いで手紙を出せ! スルガ家の嫡男が向かっていること、それに、こちらに敵意がないことを伝えるんだ!」
「承知いたしました!」
家臣が駆けていく。
クニヒロは手紙を見下ろした。
行き先は王国北部。目的はやること。
どこへ向かったのかは、考えるまでもなかった。
「……あのバカ息子が」
コトハは困ったように微笑んだ。
「ミコトのことが大切なのよ」
「だからといって、相手の領地へ乗り込んでいい理由にはならん!」
クニヒロの声が、再び屋敷に響いた。




