041
紙面の数字から目を離せないまま、リオルは蝋燭の灯りの中で朝を迎えた。窓の外はまだ暗く、規則性の正体はまだわからない。土地に魔力を取り戻すための転写――今はまだ三割ほどしか働いていないその仕組みを、少しでも実用に近づけること。だが答えが出ないなら、まずは手を動かすしかない。
削り作業には、数日かかった。アデリナの工房には、金属を削る細かな音と、砥石が焦げるような匂いが絶えず漂っていた。専用の道具を握るのはアデリナで、0.2ミリという余地を少しずつ削っては、リオルが《鑑定》で寸法を確かめ、また削ってもらう。
作業が進んだある日の夕方、ノエルが記していた寸法表の数字に、リオルはふと目を止めた。
ノエル「……この列、前の測定値と少し違う気がします」
リオル「え」
慌てて確かめると、削りすぎた形跡がわずかに残っていた。あと少し気づくのが遅ければ、余地の限界を超えていたところだった。
アデリナ「今日はここで止めておこう。焦って続ければ、取り返しがつかなくなる」
リオル「……はい。ノエルが気づいてくれなかったら、危なかった」
ノエルは帳面を胸に抱え、少しだけ得意げに口元を緩めた。
その後の作業は、以前よりずっと落ち着いて進んだ。測定の大半をノエルが引き受けている分、こめかみの熱は日に日に穏やかになっていった。
リオル「ありがとう。……正直、だいぶ楽になってる」
ノエル「無理をされるより、ずっと安心です」
アデリナは削り終えた受け皿を光にかざし、縁の仕上がりを見極めながら頷いた。
アデリナ「悪くない出来だ。数字だけでなく、手触りにも余分な角がない」
リオル「本当によかった……正直、何度も削り直す羽目になるかと思ってました」
アデリナ「焦らず、少しずつ進めた甲斐があったな。以前の君なら、数字だけを見て、すぐにでも次に進もうとしていた気がするがね」
ガンザック商会に立ち寄ると、バルムから届いた魔石は、以前より粒が揃い、《鑑定》で確かめた純度も安定して高かった。小瓶の中で、淡い光を放つ粒が整然と並んでいる。
バルム「二段階目の方だ。値は張ったが、質は保証する」
リオル「ありがとうございます。……これで、ようやく揃いました」
バルム「揃ったら、あとは試すだけだ。結果が出たら、また聞かせてくれ」
リオル「はい、結果が出たら必ずお伝えします」
削り終えた受け皿と、新しい魔石。二つを鞄に収め、リオルとノエルは再び管理区域へ向かった。街道の土はすっかり乾き、踏みしめるたびに小さな砂埃が舞い上がる。二度目となる今日は、足取りに迷いがなかった。
通路の奥、あの部屋の空気は、何度訪れても変わらず乾いていた。中央の台に据えられた装置は、片方の受け皿を欠いたまま、静かに二人を待っていた。リオルは削り終えた受け皿を、慎重に台座へ合わせた。寸法はぴったりと収まり、以前のような隙間はない。
ノエル「触った感じが、前とはもうずいぶん違いますね」
リオル「うん。……ここまで揃うと、逆に緊張する」
リオル「……いくよ」
魔石を触れさせた瞬間、管の中を光が走った。前回よりも太く、揺らぎが少ない。リオルは光が収まるまでの間、《鑑定》をかけ続けた。数字が積み重なるたび、こめかみの奥にじわりと熱がこもる。だが、以前ほど重くはなかった。
《鑑定応答》
・対象:転写装置(再現部・削り加工後)・接続試験
・観測結果:両方の器で同期した反応を確認。効率は推定で本来の七割程度
・注意喚起:現状でも実用の下限に近いが、長期の安定稼働にはさらなる調整が望ましい
リオル「……七割。届いた」
声が震えた。三割から始まった数字が、七割まで伸びている。
ノエル「本当に……七割、なのですね」
リオル「うん。数字を見間違えてないか、もう一度確かめたけど」
リオルは紙に書き付けた数字を、ノエルにも見えるように差し出した。並んだ数字を目で追ったノエルの表情が、じわりと緩んでいく。
ノエル「これだけ戻せるなら……緑豆の畑どころか、いずれ領地全体の土も、変わっていくかもしれませんね」
リオル「うん。まだ先は長いけど、無駄に消えていく分より、ちゃんと土地に届く分の方が、もう多いってことだから」
リオルは紙を広げ、昨夜の規則性を指でなぞった。頭の奥で、ロウディア領内の灌漑を調べて回った時に見た、とある水路の光景がふと浮かんだ。堰が壊れたままの水路に、いくら上流から綺麗な水を流しても、壊れた堰のところで澱み、下流までは届かない。堰を直して初めて、水の質そのものが意味を持つ。
リオル「たぶん、段差が残ってる間は、魔石の純度をいくら上げても、その分の一部はそこで漏れてた。段差を減らして、初めて純度の良さがそのまま効いてくる……そんな感じがする」
ノエル「つまり、片方だけでは、もう片方の効果まで目減りしていた、ということですね」
ノエル「これで、目標には届きましたね」
リオル「うん。……正直、心底ほっとしてる」
ノエル「三割の時とは、ずいぶん顔つきが違いますね。あの時は、こう、崖の縁に立っているような感じでしたけど……今は、ちゃんと足場の上に立っている、という感じがします」
ノエル「この調子なら、次はいよいよ本番――今も土地の魔力を吸い続けている、あの後付けの機構にも、繋げられそうですね」
リオル「いや」
リオルは首を振った。
リオル「まだ、そこまでは急がないでおこう。この対は、ダーヴェル家が本来使ってた本物の装置だけど……まだ、土地の循環そのものには繋がってない。だから今は、失敗してもこの部屋の中で収まる。でも本番――土地に繋がってるあっちの機構は、下手に触ったら土地そのものに影響が出る。同じ勢いで進めていい話じゃないと思う」
ノエル「以前のリオくんなら、この勢いのまま次に進んでいた気がします」
リオル「……だから、今日は止まる。それだけ」
ノエル「正直に言うと、もし今日、本番へ行くと仰っていたら、止めるつもりでした。それくらいの覚悟で、ついてきていますから」
リオル「うん。もう少し、ここで安定させてから。急ぐ理由は、もうない」
リオル「今日のところは、ここまでにしよう」
それから数日、安定稼働の検証が続いた。その効率は、繰り返し試しても崩れなかった。削った受け皿にも、目立った劣化は見られない。だが確かめるたびに、何かが少しずつ引っかかっていた。
リオル「……変だな」
ノエル「どうかしましたか?」
リオル「熱は、前と同じくらいなんだけど……何て言うか、感触が違う。今までは、鑑定をかけるたびに、頭の中に数字がそのまま流れ込んでくる感じだった。今日のは、少し……間に何か挟まってから届く、みたいな」
ノエル「無理をしている感覚とは、違うのですね」
リオル「うん。しんどいのとは、たぶん別の話。もっと、静かな感じ」
その日の夕方、学士棟でこの話をすると、アデリナは手元の羽根ペンを止めた。
アデリナ「間に何か挟まる、か。それはまた、初めて聞く表現だね。これまでの負担の仮説は、計算量が多いか、受け取る側が重いか、情報が毎回違うか、という三つだった。だが今の話は、そのどれとも少し違うようだ」
リオル「僕もそう思います。今までの延長線上にある感じがしないんです」
アデリナ「新しい変数が加わった、と考える方が自然かもしれないね。今の段階では、まだ何とも言えない。だが、観察を続ける価値はありそうだ」
それから数日、検証は続いた。ある朝、いつものように接続試験を行っていたとき、光の揺らぎが一瞬だけ大きくなった。
ノエル「今の、いつもと違いませんでしたか?」
リオル「……うん、一瞬だけ」
リオルはすぐに魔石を離し、装置から手を引いた。心臓が強く跳ねるのを感じながら、しばらく様子を見る。装置はゆっくりと元の色へ戻っていった。壊れた気配はない。
リオル「……一時的な揺れだったみたいだ。器の方には、異常なし」
ノエル「よかった……本当に、肝が冷えました」
リオルは受け皿の縁をそっと確かめ、小さく息をついた。危ういところだったが、器は持ちこたえた。もし今の揺らぎで割れていたら、積み上げてきたものが振り出しに戻っていたかもしれない。そう思うと、今さらのように手のひらににじむ汗に気づいた。
リオル「これで、条件は揃ったと思う。安定して七割を維持できること。器が長く保つこと。それと、想定外のことが起きても、致命的にはならないこと。……全部、見極められた」
ノエル「一つ一つ、地道に積み上げてきましたものね」
借りている一室の窓辺で、リオルは紙に並んだ数字を、指でゆっくりとなぞった。積み重ねてきた歩みそのものが、そこに並んでいた。
リオル「ダーヴェル家がやろうとして、途中で終わってしまったこと。ようやく、次の段階に進めそうな気がする」
ノエル「本番の吸い上げ機構に、ということですね」
リオル「うん。……正直、待ちきれない気持ちの方が大きい。でも、ここで止まり続ける理由は、もうないと思う。本番の方の機構を、もう一度きちんと調べ直す必要がある。それに、失敗した時の対処も、あらかじめしっかり決めておかないと」
ノエル「わかりました。私も、できる限りのことをします」
リオル「うん、ありがとう」
数えきれないほど積み重ねてきたやり取りの一つ一つが、ここに繋がっている。アデリナの計算、バルムの魔石、ノエルの記録、そして自分自身の《鑑定》。そう思うと、不思議な重みが胸の奥に落ち着いた。
リオル「次は、本番だ」
声に出した言葉は、思ったよりも静かに、けれどはっきりと部屋の中に響いた。窓の外の光は、いつしか茜色から藍色へと移り変わろうとしていた。乾いたロウディアの土地も、今はこの同じ藍色の空の下にあった。
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