>差別用語
><差別用語>
表現の自由と差別用語の対立の問題は昔から言われてきましたが
最近では差別に対する抗議というよりは自団体の勢力の誇示のために行われている抗議のほうが多い気もします。
要は利権として団体を運営する人間としては
差別がなくなっては困るので
実際の差別がほとんどないときはマッチポンプをしているわけです。
そして出版社のほうも
そういった事実からは目をそらし、それをトラブル回避と考える人間が増えました。
筒井康隆氏の断筆宣言の時などのような騒ぎはもう起こらないのでしょう。
それは
それだけ信念を持って差別というものを考えなくなったということであり
出版というものや表現というものと真摯に向き合わないということで
かなり情け無い話でファシズムなどを助長する風潮のようにも思えます。
特に宗教の暴走やカルトの危険性については、歴史的事実や現実の事件を基にしていても
避けたほうがいいという風潮が目立ちます。
屠殺場が不快な用語というのは
部落差別などが全盛だった時代
生肉業者がそういった人々の生業だった事が大元だと思われます。
ただ仰るようにそれを一方的な殺戮という意味で使う事が
それを生業とするひとへの差別を意識させるかというと
食肉が一般化した平成の状況を考えれば
そんなことはないし
過去においてもそういった表現を
差別の助長を目的として使うのはプロパガンダを目的としたものだけで
小説の1シーンに対する情景描写が差別の助長をしたとは思えません。
そういう場合に
「言われたほうが差別だと思えば差別」と個人的な感情論を持ち出す人間もいます。
けれど
さも弱者をかばっているようなふりをしていますが
「俺様がそう思えばそうなんだ」という利己主義の理屈を口にする人間は差別主義者以外の何者でもないでしょう。
差別や自由という考え方は
暴力原理ではなく共存原理の中での
客観的な平等の下でなければ成り立たないものです。
何かを分別する事と差別の違い。
何かを強制する自侭と自由の違い。
権利闘争という暴力原理で「自由や平等や平和」を騙るのは
そういった「民主主義の理想」を貶めてを形骸化させる権威主義の理屈です。
差別意識の根幹は言葉ではなく
本音と建前を使い分けることで公平性を排除し
自らの血統や組織に利権をもたらすことを優劣であるとする‘ 権威主義の誤魔化し ’です。
その誤魔化しの一つに
人権問題を真摯に考えるのではなく利権として扱う人間が
被差別意識を助長するために<差別用語>を創り出すという現実があるのでしょう。
要は
差別でない事を差別としてしまう事は特権を作り出すことで
差別を排除するという目的を掲げて差別を作り出すということです
ので
言葉の使い方の問題ではない。
そういう話ですね。




