第702節『焦燥の果て』
第702節『焦燥の果て』
小牧山を覆う空気は、腐りかけた水のように淀んでいた。
十万の大軍を率いる羽柴秀吉の陣営は、その巨大さゆえに自壊の兆しを見せ始めていた。
日々運び込まれる兵糧は山を成すが、それを食い潰す兵の数はあまりに多い。補給線は伸び切り、美濃・尾張の村々からは徴発に怯える声が上がっていた。加えて春の長雨が陣を泥沼へと変え、湿気は鎧を錆びさせ、兵の体力と士気を蝕んでいく。
そして何より、挑発に応じぬ家康の沈黙が、彼らの神経を爪で引っかくように削り取っていた。
「……まだ動かぬか、家康め」
秀吉は金刺繍の陣羽織を乱暴に翻し、床几に腰を打ちつける。
圧倒的兵数を見せつければ、降伏するか自棄になって突撃してくる――そう踏んでいた。だが現実は、土塊の城に籠り、こちらの消耗を悠然と眺めているばかり。(このままでは示しがつかぬ。天下の軍勢が小城ひとつ抜けぬ愚を犯せば、諸将は揺らぐ……)
焦燥が、彼の判断をじわじわと締め上げていった。
その空気を断ち切ったのは、軍議の席で地図を叩きつけた池田恒興の一喝だった。
「殿下! もはや我慢なりませぬ!」
織田の古参たる猛将は唾を飛ばしながら叫ぶ。
「家康は山に張り付いた貝の如し。叩いても出ぬのなら、身をこそ引き剝がすまで! 三河です」
彼が指すのは岡崎。今や空虚に近い家康の城。
続いて森長可が血走った目で叫ぶ。
「この長可に任せていただければ! 三河の土を踏み荒らし、女子供を泣かせてやれば、あの男も黙っておるまい!」
戦を待ち焦がれた武断派から賛同の声が次々に上がる。
秀吉は唇を噛んだ。本能が警鐘を鳴らす。敵前で兵力を割けば危険。ましてや相手は、小牧山を一夜にして要塞へと変えた男。読まれていない保証などどこにもない。
「……待て。今の家康は食えぬ男となったようだぞ。安易は命取り――」
言葉を遮ったのは、甥・羽柴秀次の声だった。
「叔父上、私が行きます!」
若く功名に逸る秀次が身を乗り出す。
「中入り軍の総大将として三河を攻め、天下取りの呼び水となりましょう!」
その純粋すぎる熱意が、場の空気を決定した。池田・森ら宿将もいる前で身内を退ければ士気に関わる。秀吉自身も、この膠着を打破する劇薬を求めていた。
(……ええい、ままよ。数で押し切れば、いかな家康も動かざるを得ぬ)
「――よかろう。秀次を総大将とし、池田、森、堀らに二万を与える。夜陰に紛れ三河を急襲せよ!」
凱声が上がる。それが、自ら虎の尾を踏みに行く咆哮とも知らずに。
その深夜。小牧山、徳川本陣。
静寂を裂いて、影のように滑り込んだ男が一人。
服部半蔵である。
「……動きました」
膝をついた彼に、家康は目を細め、書物を閉じて視線を上げた。
「池田恒興、森長可、羽柴秀次。二万。東の間道より進軍開始。狙いは――三河」
報告を聞いた瞬間、家康は静かに息を吐いた。そして口元には、薄く冷徹な笑み。
(史実通り――焦れた秀吉、悪手を打ったか)
源次が地図の上、長久手へ至る細道を扇でなぞる。
狭く、伏兵に最適な死地。
「……半蔵。直政と忠勝を呼べ」
家康が低く告げる。
「狩りじゃ。狩りの刻じゃ」
土塊の山が、静かに牙を剝いた。




