第689節『潮目の見極め』
第689節『潮目の見極め』
冬枯れの山が寒々しい景色を映しだす頃。
浜松城地下、情報と策謀の拠点たる一室には、家康の放った無数の糸が絡み合うように集まっていた。
――北には、雪解けを待つ柴田の残党。
――南には、牙を研ぐ雑賀・根来。
――西には、波間より機を窺う長宗我部。
それらはすべて、家康が知識と半蔵の影をもって築き上げた、対秀吉包囲の黒い石であった。
家康は、地図上に置かれた碁石を指先でなぞる。その仕草は、まるで角度を微調整する彫刻家のそれのように慎重だった。
「……整ったな」
低く呟くと、闇に控えていた半蔵が片膝をつき、静かに応じる。
「はっ。各地とも、御合図を今か今かと。秀吉は大坂城の普請と朝廷工作に意識を奪われ、背後に潜む闇へは気づいておりませぬ」
家康は視線を上げた。
秀吉は強大。されど、強大さゆえに見えぬものがある。己の覇道を支える土台が、すでに音もなく掘り崩されつつあることを――。
家康の指が、地図の中央、尾張と伊勢の境に触れる。
置かれていない最後の石。
織田信雄。
(……信雄よ。天下のためにこそ怒れる主君を演じていただく)
器量は小さい。だが、ゆえに動かしやすく、「織田家の嫡流」という名のみが持つ絶対的な価値があった。
翌日。徳川本城の評定間。
家康は、静かに扇を開き、重臣たちを見渡した。その声は平淡にして、底に熱を秘めていた。
「秀吉は天下を狙う。だが、その足元は盤石にあらず。北・南・西はすでに整った――あとは、中央だ」
本多忠勝、榊原康政らが前のめりに耳を傾ける。かつて主君の慎重さに苛立っていた猛将たちも、今は沈黙の中に燃える気配を感じ取っていた。
家康は言葉を続ける。
「我らが仕掛けるのではない。あくまでも義は我らの側に置く。動くのは、しかるべき御方にして――天下万民が納得する時でなければならぬ」
老臣・酒井忠次が深く頷いた。
「左様。私欲に見えれば諸大名は秀吉に流れましょう。肝要は……誰もが認める大義名分」
家康は扇で地図を指し示す。
「織田信雄殿が立たれれば、それは個の戦ではない。主家を乗っ取った逆臣・秀吉を討つ、『正義の戦』となる」
広間に、どよめきと共に静かな覚悟が広がった。
「信雄殿はいま孤立し、秀吉の圧を恐れている。その心に――我らこそ唯一の支えだと刻み込め」
家康の口元が僅かに持ち上がる。
「半蔵。密使を送れ」
黒衣の忍は膝をつく。
「まずは、甘く誘え。こう伝えるのだ――」
家康の瞳が細められた。
「『徳川は、信長公の御遺志を継がれる信雄様を、決して見捨てませぬ』と」
その言葉は、信雄のプライドと孤独、最も脆い部分を貫く刃。
――時は、満ちた。
巨大な歯車が、最後の一片を求めてゆっくりと動き出す。
その軋みは、春まだ浅き遠江の空に微かに響いた。




