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第678話『静かなる誓い』

第678話『静かなる誓い』

 評定の間から将たちの気配が完全に消え去った後も、家康は一人、地図を睨んでいた。

 北ノ庄城から立ち上ったであろう黒煙の幻影が、卓上の地図に描かれた越前の国のあたりに、まだ燻っているかのようだ。柴田勝家の壮絶な死、そしてお市の方の悲劇。それは、羽柴秀吉という男の底知れない非情さと、彼が創り出すであろう新しい時代を、改めて家康に突きつけていた。

 彼は、歴史知識として、この結末を知っていたはずだった。だが、その一行の裏側にあった、人の心の機微や、誇りの形を、これほどまでに生々しく感じたことはなかった。


 彼の脳裏に、今は亡き友――二代目家康の、あの真っ直ぐな瞳が蘇る。

 飾り気がなく、どこまでも愚直なまでに、武士としての信義と、人の情を信じていた男。

 友が生きていれば、秀吉のこのようなやり方をどう見たであろうか。きっと、烈火のごとく怒り、たとえ勝ち目がないと分かっていても、義のために槍を取ったに違いない。

(友が守ろうとした「武士の信義」や「人の情」を、秀吉はことごとく踏みにじり、そして、天下を掴む。それが、この時代の答えだというのか……?)

 その問いは、友の生き様そのものを否定する刃のように、家康の胸に突き刺さった。友の死の上に立ち、その名を継ぐ自分にとって、それは決して許容できる答えではなかった。


 これまでの彼の戦いは、理に基づいていた。

 歴史知識という絶対的な羅針盤を手に、井伊家を、徳川家を、そして何よりも直虎を守るという目的のために、合理的な道を選び続けてきたと考えている。

 だが、今、彼の胸に燃え盛っているのは、そんな冷徹な計算ではない。

 友の想いを、そして自らが信じる人の道を踏みにじる者への、静かだが、決して消えることのない抵抗の意志だった。


 家康は、地図の上に置かれていた羽柴秀吉の駒を、指でなぞった。

 そして、誰に言うでもなく、静かに、しかし燃えるような決意を、その胸に刻んだ。

「……秀吉。貴様の創る世は、人の誇りを踏みにじる世だ。ならば、俺が創るのは、誰もが自らの誇りを胸に、笑って暮らせる世だ」


 それは、徳川家当主としての計算ではない。

 軍師としての戦略でもない。

 友の想いと、この乱世で無残に散っていった者たちの誇りを受け継いだ、一人の男としての、絶対的な誓いだった。

 その誓いを立てた瞬間、彼の心から、迷いが消えた。

 これまで彼を苛んできた、友の死への罪悪感すらも、この新しい、そしてより気高い目的の炎の中に、燃料として投じられていく。

 彼は、自らが、再び「人」としての戦場に戻ってきたことを、確信していた。

 工房の窓の外では、陽が傾き始めていた。

 その赤い光が、地図の上の秀吉の駒を、まるで血の色のように、不吉に染め上げていた。

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