第三十二話
「え、中止?」
昼食を食べ終えた杏咲は、話があるからと透に呼ばれていた。透の部屋に行けばそこには伊夜彦もいて、お茶を飲みながら寛いでいる。
そして開口一番に言われたのが――参観が中止になるという知らせだったのだ。
「あぁ。結局半数以上の親御さんの都合がつかないってことが分かったからな、今回は中止になったんだ」
「多分、夏頃に延期ってことになるかなぁ」
「そうなんですね。それは……吾妻くんたち、残念がるでしょうね」
吾妻たちのがっかりする姿が目に浮かび、杏咲も眉を下げてしょんぼりする。
伊夜彦はそんな杏咲の表情に目を細め、「杏咲は優しいなぁ」と微笑んでいる。
「そうなんだよね……。だからまぁ、書きたいって子たちで親御さんに手紙でも書こうかなぁ、なんて思ってるんだ。親御さんたちにも喜んでもらえるかなって」
「あ、それはいいですね」
まず一番に柚留の顔が浮かんだ杏咲は、透の提案に賛成の声を上げた。手紙として文字にした方が、直接言うよりも気持ちを伝えやすいのではないかと考えたからだ。
まだ文字を上手く書けない子は絵を描いて送ってもいいよね、なんて会話をしながらも――二人が揃っている今が伝えるチャンスだろうと思い、杏咲は話に一区切りついたタイミングで、別の話題について切り出した。
「あの、話は変わるんですが……お二人に、お伝えしたいことがあるんです」
「お? 何だ?」
背筋を伸ばし佇まいを整えた杏咲は、伊夜彦と透、二人の顔を順に見て口を開く。
「私……ずっと悩んでました。これから先、どうするか。此処で働き続けられるのかな、って。……正直、まだ不安に思うこともあるし、この世界に対して、怖いって気持ちが完全になくなったわけでもないです。だけど、それ以上に――此処での生活が、あの子たちと過ごす毎日が幸せで……愛おしくて。かけがえのないものになっていたんです」
所々詰まりながらも話す杏咲の言葉に、伊夜彦と透は静かに耳を傾けている。
「透先生、この前私に聞きましたよね? あの子たちを守れるのかって。あの子たちのそばに居続ける覚悟があるのかって。……正直、自信をもって頷くことなんてできません。守るって、そう簡単なことじゃないですから。……だけど、それでも――守りたいって、思います。あの子たちがお兄さんに成長する姿を、これからもそばで見守っていきたいなって、そう思ってます。ですから……」
杏咲は正座をしたままの体制で、ゆっくりと頭を下げた。
「これからはお試しとしてではなく、正式に……此処で働かせてもらえないでしょうか?」
――数秒、室内に沈黙が流れた。どんな言葉が返ってくるだろうと緊張に身を固くする杏咲だったが、伊夜彦にそっと肩を叩かれ、その顔をゆっくりと上げる。
「杏咲、顔を上げるんだ。いやぁ何……正直、驚いたな。杏咲がそんなに真っ直ぐな思いでアイツらのことを考えていてくれたなんてなぁ。……うん、やっぱり杏咲に声を掛けた俺の目に、狂いはなかったってことだな」
ニヤリと笑った伊夜彦は、湯呑みに残っていたお茶を一気に飲み干して「今日は祝い酒だ! 特上のもんを用意しないとなぁ」と機嫌良さそうに言った。
「全く、伊夜さんは直ぐ調子に乗るんだから。……でも、俺も驚いたよ。あの子たちのことを守りたいって……そんなに真剣に考えていてくれたなんて知らなかったから。ありがとう、杏咲先生。それと……あの時は厳しいことを言って、ごめんね」
伊夜彦に対して呆れた表情を向けながらも、国杜山でのことを気にしていたらしい透は眉を下げて謝罪の言葉を口にする。
「いえ、気にしてませんから。むしろきちんと考える機会を貰えて良かったですし……そのおかげで決心もつきました。ありがとうございます」
清々しい表情で笑う杏咲を見て、透はほんの僅かに目を眇めた後、ふわりと笑った。
「……そっか、それなら良かった。改めて――これからもよろしくね、杏咲先生」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
透が差し出した手を、杏咲はそっと握り返した。目が合った二人の顔に、同時に笑みが浮かぶ。
そして、ひと月前に挨拶を交わした時と同じように――そんな二人を見て、伊夜彦は嬉しそうに微笑んだのだった。