第5話:本物の感情
「私の業務は完了しました。これにてプロジェクトを解散し、契約書通り離婚の手続きへと移行しますわ」
アスラン公爵邸の執務室。私はいつものように完璧なビジネススマイルを浮かべ、クロード公爵にそう告げた。
手元には、1年前に二人の間で交わされた『有期業務委託契約書』がある。
アラン王太子というリスクの排除、公爵家のブランド価値向上、そして魔獣ブランの独占ライセンス使用権の提供──すべての要件定義は完璧に満たされている。
(これでいい。これが合理的なコンサルタントとしての『最適解』のはずだわ。……それなのに、なぜ私の視界はこんなに滲んでいるの?)
胸の奥のバグは、限界を超えて暴走しかけていた。
そんな私の前に、クロード公爵がゆっくりと歩み寄る。その氷色の瞳には、かつてないほどの激しい熱情と、今にも泣き出しそうなほどの切なさが宿っていた。
「……アイラ。君は本当に、この1年間がただの『業務』だったと思っているのか」
彼の手が伸び、私の手から契約書を奪い取った。そして──ビリビリ、と容赦のない音を立てて、それを真っ二つに引き裂いた。
「あっ、閣下!? 何をして……それは重要な証憑書類ですわ!」
「アイラ!頼むから、私をただの『提携先』として見るのはやめてくれ!!」
クロード公爵が、絞り出すような声で叫んだ。国中を震撼させる『氷の死神』が、私の前で、その大きな身体を小さく震わせている。
「最初から……最初から演技など、一度だってしていなかった。毎朝君に贈った宝石も、君を見つめていた視線も、触れた手の温もりも……すべて私の、本物の感情だ。ブランが目当てで契約を結んだのではない。夜会で凛と立ち回る君に、私は最初から、心の底から惚れていたんだ!」
「え……あ、愛の、過剰投資では……」
「違う! いかなる経済学の理論でも、この胸の痛みは説明できない! 私は君を愛している。契約書の文言ではなく、君という存在そのものを、生涯をかけて全肯定したいんだ……っ!」
完璧に論理的だった私の脳内が、彼の情熱的な告白によって一瞬でシャットダウンされた。
その時、部屋の隅で寝そべっていた白銀の巨大魔獣ブランが、のそりと音もなく立ち上がった。そして、混乱してフリーズしている私の背中を、その大きな鼻先で「いい加減に素直になりなよ」とばかりに、グイッと前へ押し出したのだ。
「えっ……あ、ブラン!?」
予期せぬ物理的な「押し」によって、私の身体がよろめき、クロードの広い胸の中へとダイレクトに飛び込んでしまう。
彼は驚きながらも、降ってきた最高の幸運を逃すまいと、即座にその逞しい腕で私をしっかりと抱きすくめた。彼の心臓が、私の耳元で早鐘のように激しく鳴り響いている。
(……彼が私を? ビジネスではなく、本気の『ガチ恋』だったの……?)
前世で誰からも必要とされず、ただの便利な道具として死んだ私。今世でも悪役令嬢として損切りされる運命だった私。そんな私を、彼は契約の利得など関係なく、一人の人間として無条件に愛してくれていた。
ブランが私を彼の腕に押し込んだのも、二人の心がとっくに繋がっていることを見抜いていたからだ。
「……想定外ですわ、閣下。こんな非論理的な真実、私のデータシートにはありません」
私は彼の胸に顔を埋めたまま、涙を拭って微笑んだ。
「ですが、とある優秀な経済学者も言っていましたわ。──『人間の本質は、非合理的な情熱によって動くものだ』と」
「アイラ……それは、つまり……」
私は意を決して話を続ける。
「……私もどうやら、その非合理的な真実に降伏せざるを得ませんね。契約書は破棄されました。ですから……これからは有期契約ではなく、無期限の『本物の夫婦』として、私を末長く愛してくださるかしら、クロード」
初めて名前で呼んだ瞬間、クロードの顔が爆発したように真っ赤に染まった。
彼は愛おしさが堪えきれないというように私をさらに強く抱きしめ、息が止まるほど甘く、熱いキスを交わした。
二人がついに結ばれたのを見届けると、ブランは満足げに「クゥン」と鼻を鳴らした。そして、隙だらけになったクロードの背中に、ここぞとばかりに白銀のふさふさな尾を力強く巻き付け、その巨大な頭をクロードの肩にぐりぐりと押し付けた。
アイラへの『ガチ恋』とブランへの『モフモフ渇望』を両方同時に満たされ、クロードは至福の表情で涙目を震わせている。
完璧なロジックから始まった二人の関係は、賢い魔獣の粋なアシストによって、いかなる理論でも測れない「絶対的な愛」と「至高のモフモフ」という最大の報酬へと形を変えたのだった。
(完)








