(19)その日、その時
「…………」
リツの表情が真顔に戻る。
僕は、今度は口に出してはっきりと言った。
「リツちゃん――あの日、君は山本になんて言ったんだい?」
「…………」
リツは黙っている。
僕は待った。
黙ったままで、じっと待ち続けた。
「…………」
「…………」
リツは俯いたまま喋らない。
僕も喋らない。
無言のまま、ひどく重たいペースで時間が進んでいく。
そのまま僕らは一時間以上、身動きもせずにただじっと黙り続けた。
それは、根比べだと思った。
リツは答えたくない。僕が「もういいよ」と言うのを待っている。
対して僕は、「もういいよ」なんて言うつもりはない。これだけは、どうしてもはっきりさせなければならないのだ。
皿の中のシチューはとうに冷め切っている。
大広間の時計の鳴る、何度目かの音が遠く、低く響いてきた。
風が木々を揺らしている。
冬の冷たい空気が、徐々に室内にも浸透してくるのが感じられた。肌寒い。それでも、身動き一つせず待ち続ける。
――やがて、リツが答えた。
「……私は、白井さんのことが好きだって……愛してる、って、言いました」
「山本に? ――それで?」
それだけではないはずだ。
それだけで、僕とリツとの関係を、山本があそこまで思い込むわけがない。
「……それで、私は……知ってることを話しました」
……知ってること?
心臓が早鐘を打つように鼓動を高めていく。
「……知ってることって?」
神経が引きつるような感覚の中で問いかける。
気がつけばこの寒さの中で、僕の全身には汗が浮かんでいた。
リツは眉間に皺を寄せ、苦痛を堪えるような表情で答えた。
「――白井さんが、山本さんとどんな……セックスをしてるのか……とか」
「……は?」
「セックスのとき、何を思ってるのか、とか……足の指を舐めるのが好きだとか、彼女の太ももの筋肉がこわ張る瞬間を指でなぞって確かめると支配感を感じるとか、乳房を横から押しつぶした状態で舌を押し当てるように舐めるのが癖だとか、コンドームを着けるタイミングに迷ってしばらく手に持ったままでいることがあるとか、キスをするときはよく前歯の裏側を横滑りに舐めるとか、一番好きな体位は――」
……リツは更に、僕の性的なこと全て、あるいは僕自身でさえ意識していなかった性癖についてまでも詳細に語り続けたが――
僕はもう、頭がまっしろになっていた。
これらの情報を、リツがどうやって知ったのか――もちろん僕は、彼女にこんなことを話した覚えは無い。だが、リツは度々、僕に性的な質問を投げかけてきた。あのとき、僕の脳裏にはその質問に対する答えが浮かんでしまっていたのだろう。更に、リツの発言内容から推測するに――僕も気づいていなかった癖、恐らく山本しか知らなかったであろうことについても、リツは知っているようだった。
つまり彼女は僕以上に、僕のセックスについて詳しかった。
そして彼女は、山本にそれを伝えたのだという。
それなら山本がどんな勘違いを、どんな思い込みをしたとしても不思議ではなかった。
「……どうして、そんなことを」
いまだ僕の性癖を並べ続けていた彼女は、僕の質問に、言葉を止めた。
「……だって」
――だって。俯いてそれだけ言うと、彼女は黙り込んでしまった。
垂れた前髪の隙間に、彼女の唇の膨らみが見えた。
僕は――ああ。僕は、ああ、僕はもう――限界だった。
なにもかもが、あらゆることのすべてが限界だった。
頭の中は焼けただれたようで、視界のすべては歪みきっていた。
身体は濁ったガスの集まりのようで実体感が無く、その右手をリツに向かって伸ばしているのも、まるで他人事のように感じられた。
リツの首を掴んで壁に押さえつけると、僕は、きっと赤く血の色に濁っているであろう眼球で彼女を至近距離から睨み付け、自分のものとは思われない野太い声で言い放った。
「どうしてそんなことッ!! お前のせいで――彼女は死んだのにッ!!」
「ッ……!」
豹変した僕の様子に、リツが怯え、目を見開いた。
怯え。
ああ……リツが僕に怯えを見せるのは、たぶん、初めてのことだった。
彼女は瞳に涙をため、視線を下向きに逸らしながら、か細く震える声で答えた。
「……だ、だって、悔しかったから……」
「…………」
僕が黙っていると、彼女は自分から言葉を続けた。
「……あの人が白井さんの恋人で、私がそうじゃないのが、悔しかったから……だから、あなたの知ってることなんて私も知ってる、あなたの知らないことだって知ってるんだって、そう言ってやりたくて。それだけで……こんなことになるなんて、思わなくて……」
「……山本は、なんて言ってた」
「『なんでそんなこと、知ってるの?』って……私は、『さあ』ってとぼけました……それだけです。本当に……それだけ……」
リツは僕と壁に挟まれた状態で、ついに、肩をふるわせて泣き始めた。
でも…………それだけ? それだけ、だって?
なにが『それだけ』なんだ。彼女を殺したのに……殺したくせに、なのに、なのに……!!
僕の内心の怒りを読み取ったのだろう、彼女は――涙に濡れた顔を上げ、子供のように泣きじゃくりながら、叫ぶような大声で訴えてきた。
「し、白井さんが居なくなったら、私だって自殺します! 私だって負けてないのに……なのになんであの人は愛されて、私は駄目なんですか!? だって私には、し、白井さんしか、いないのに……ッ!!」
涙はますます溢れ、声はますます震え、激しくしゃくりあげながらリツは続けた。
「じ、実の親だって、私を気味悪がって……誰とも、仲良くなれなくて……心が読めるから、私、もう……駄目で……ッ! し、白井さん……だけなんです……私には、白井さんしかいないんですッ! ほ、他のことはぜんぶ諦めるから、ただ一人だけ……世界で一人だけ、そばに居て欲しいって思うのは、そんなに悪いことなんですか⁉︎ 私はそのためなら、悪いことだってなんだってするのに! だって、それすら叶わないなら、私……私は、なんのために生きてるんですかッ!?」
「…………」
「…………ッ、ひっく、うぅ……っ、ぅぅぅぅ……っ……」
言い終えたリツは……後はもう、泣き続けるだけだった。
遮る物のない水が流れ落ちるように、ただただ素直に泣き続けていた。
そんな彼女の態度に、僕は……僕は……僕の……
…………僕の皮が、ずるりと。
分厚い僕の皮が、ずるりと、一枚。
色々な、僕にくっついていた大小の部品とともに、ずるりと…………
ずるりと大きく、肉ごとこそげ落ちるように、ずるりとめくれて――はがれ落ちる。
……その瞬間、僕は激しい感情を持ったまま、とても爽やかな気分に包まれていた。
僕はやはり、リツのことがたまらなく憎かった。
だが同時に、彼女のことが愛おしくも感じていた。
リツの首を絞める右手に力がこもる。
「……ッ、白井……さん……?」
リツが上目遣いに僕を見上げてきた。
不安と弱さを露呈したその表情。
ああ……僕はなぜこの子に対して、あんなにも怯えていたのだろうか。
最初から、彼女と一緒に堕ちていけばよかったのに。
そうすれば、心を読まれることなど恐ろしくもなんともなかったのに。
そう、僕は皮を脱ぎ捨て、よりシンプルな生き物に――一匹の獣になっていた。
心配事はひとつもない。
頭はすっきりと冴えている。
僕は、彼女を台無しにしてやることにした。
それが彼女の望みであり、彼女の為であると確信していた。
心が読めなくても分かる。そう、決まっている。
「白井、さ――ッ」
リツを壁に押さえつけたまま、一方的に唇を奪う。
彼女は驚いたように目を見開いてから――やがてゆっくりと瞼を閉じ、キスを受け入れた。
僕は彼女が好きだった。だから彼女を愛したいと思った。
そして彼女が憎くもあった。だから彼女を罰したいと思った。
その二つの思いはおかしなことに、一つの同じ行動へと結びついていた。
僕はその夜、リツを犯した。
第二幕終了です。
第三幕に続きます。
よろしくお願いします。




