(17)彼女との電話
その夜のこと。
黒川邸の自室に戻った僕の、携帯が鳴った。画面を見ると山本からだった。
僕は画面を操作し、電話を取った。
「山本? 今日は――」
今日はごめん、と僕が謝るより先に山本は言ってきた。
『ねえ、あの子もそこにいるの?』
「あの子? …………リツちゃんのこと? いや、いないけど」
『本当?』
「え? ……うん」
……おかしい。
なにかがおかしい。
僕はそう確信すると同時に激しい不安に襲われた。
電話越しの山本の声は、いままでに聞いたことの無いものだった。
不信と疑い――僕に対する、そんな気配が滲んでいるような気がした。
「山本? どうかしたの?」
『……どうかしてるのは、そっちじゃないの?』
「……なにを。それは、どういう」
『ねえ、本当のことを教えてよ!』
抑揚の乱れた甲高い声で山本が訊いてくる。
僕は、僕の心の拠り所だったはずの山本の豹変に、世界が、足下が、ぐらぐらと揺らぎ始めるような感覚に襲われた。
指が震えた。呼吸が乱れるのを懸命に抑えて、言葉を発する。
「ほ、本当のことって……」
『だから! いつも君が隠してることってなんなのか、教えてよ! じゃないと、あたし、どうにかなっちゃうよ!』
「……リ、リツが、何か、言ったの?」
『そうだよ! なんであたしがあの子に、あんなこと言われなきゃならないの!?』
「あ、あんなことって、いったいリツちゃんが、君に何を――」
『どうでもいいでしょ!? それより、君の方こそ本当のことを教えてよッ!!』
激高したような叫び――以前のヒステリーよりなおひどい。数時間前に別れた山本のあまりの豹変ぶりに、僕はもう、なにがなにやらわからなかった。
「や、山本、落ち着いて。話す、ぜんぶ話すから! だから、落ち着いてくれよ!」
『落ち着いてるよ! だから、早く話してよ!』
「わかったよ! わかったから……」
僕は咄嗟にそう言ったが……しかし、何を話すというのか。
リツの能力について?
明石にお金を持ち逃げされたことについて?
それとも、リツに脅迫され――彼女の指を舐めるような行為をしていることについて?
「…………」
『…………』
僕が黙ると、電話越しに沈黙が流れた。
何十通りもの言葉を口にしようとしているのに、しかし上手く発音できない。
長い長い沈黙のあとに、山本が言ってきた。
『……ねえ、一つだけ答えて』
「……うん」
何を言えばいいのかわからない。でも、訊かれればもう、なんでも答えるつもりだった。
例えそれがどんな質問であろうと。
正直に。
すべて。
隠すことなく……
そう。実のところ僕はもう、すべてを洗いざらいぶちまけて楽になりたかったのだ。
ただ誰かにそのきっかけを与えて欲しかったにすぎない。
だから僕は――決定的に最悪なことに、そこで、山本の質問を待ってしまった。
やがて山本は、淡々とした口調で訊いてきた。
『……あなた。あの子のこと、抱いたの?』
……それは、思っていたのとは異なる質問だった。
僕は一瞬言葉を失ってから、ほとんどロボットのように淡々と答えた。
「……そんなこと、するはず、ないだろ」
『……そっか。そうだよね。うん、わかった』
そう答える山本の口調は……いつも通りの、落ち着いたものに戻っていた。
電話越しに、緊張が弛緩したのを感じ取る。
僕は、ほっと息をついた。
『じゃああたし、ケン太のこと信じるよ』
「うん……ありがとう。あの、明日また会おう! 屋敷の仕事があるけど、お昼過ぎにちょっとだけ抜け出すから。悪いけど、山本にこっちまで来て貰ってさ……いいだろ? 十四時くらいにメールしてくれれば、迎えに行くから」
『そうだね。わかった。じゃあまた明日』
「うん、また明日」
僕は安堵しつつ、電話を切った。
なんとか最悪の事態は避けれたと、そう思いながら。