(14)スクランブルエッグ
「……貴様が死のうとも、ワシは一向に構わん。健康管理は自分で行え」
「はい」
蔵人老人は朝食の席で、僕に向かって素っ気ない態度でそう言ってきた。
かつて、蔵人老人の割り切った態度は気が楽だとリツが言っていたのを思い出す。確かに、一切の詮索や気遣いをしないその態度は、いまの僕にとってもありがたいものだった。
黒川家の朝食は、十人程度は同時に食事が出来そうな長テーブルに蔵人老人とリツと僕とがほぼ等間隔に座り、三人一緒に済ませるのが常だった。蔵人老人は気むずかしい人物だが決して古風なわけではなく、主人である彼と使用人である僕の、食事の場所や時間を分けるような不合理をよしとはしなかった。
「…………」
僕は何とはなしに視線を巡らせ、リツを見た。
淡々とした様子で食事を取っていた彼女が、僕の視線に気づいてこちらを見た。
目と目が合う。
……リツはすぐに視線を俯け、表情を変えることなく食事を続けた。
彼女は、蔵人老人の前では僕に対する感情を徹底して隠していた。
確かに、心を読むリツの能力を頼りにしている老人にとって、リツの拠り所となる人物が――例えば恋人などが現れるのは嬉しいことではないのだろう。
さらに言えば、リツの僕に対する好意が知られては、僕の潔白を証明したリツの言葉の信憑性も薄れ、老人の僕に対する疑いが再燃するかもしれない。
つまり、リツが老人の前で僕への態度を隠すのはお互いのためといえた。
「――ん。食事は終わりだ、仕事へ戻る」
老人は食事の量が少なく、時間をかけなかった。僕とリツがまだ半分くらいしか食べていない状態でフォークを置く。僕はすかさず老人の背後に回り込み、椅子を引いてやった。老人は脚が悪い。杖をつきながらゆっくりと立ち上がり、そのまま一歩一歩慎重に、書斎に向かって歩き始めた。
僕とリツは老人を見送った。特に老人からの呼び出しがないようならば僕らはゆっくりと食事を取っていいことになっている。
僕が自分の席に舞い戻り、食事を再開しようとすると――
「……よいしょ、っと」
リツが椅子を移動させ、僕のま隣に着けてきた。
「……リツちゃん」
「大丈夫です、おじいさまが近づいてきたら、心の声でわかりますから」
彼女の説明に一瞬、安堵を覚えたが……違う、そういう問題じゃない。
これをどう口にするか考えあぐねているうちに、リツが……その右手中指と薬指の上にスクランブルエッグを載せ、僕に向かって差し出してきた。
「白井さん、はい、あーん」
「……リツちゃん」
「あーん」
……彼女の瞳。
濡れたような輝きで僕を射貫くその視線に、逆らうことができない。
朝の日差しが窓から差し込んでいる。
木々の茂った中庭からは、舞い遊ぶ鳥たちの声が聞こえていた。清々しい、清廉な朝の空気。そんな中で、僕はリツの指を口に含み、その黄色い甘みを吸い取った。
……罪悪感と共に、言いしれぬ背徳感が、僕の底の部分を刺激する。僕はそれを懸命に無視しようとするが、リツはその力で何を読み取ったのか、
「……ふふっ」
小さく笑って、僕の舌を、口腔の内側を、その指先でかき回した。
………………山本には言えない。本当のこと。あまりに汚らわしい、僕の行い。
それを僕以上に深く見通しているはずのリツは、嬉しそうに笑う。
気がつけば、僕の瞳にはまた、涙が浮かんでいた。