(15)彼女との休日
「……いまの職場、辞めるわけにはいかないの?」
まったく会話の弾まないまま二人で町中を歩いていると、山本が決心した様子で僕にそう言ってきた。
町からはすっかりお正月の色合いが抜け、早めのバレンタイン商戦がその影を見せている。僕は去年のバレンタインデー、山本がチョコ作りに失敗したことを思い出した。あの頃の山本は明るくて、僕も卒論が終わって気楽なものだった。あまりに遠いその情景に、脳髄がしびれたような、ひどい倦怠感に襲われた。
「世間がなんて言うかわかんないけどさ、私はケン太と一緒にいたいから…………私が働いて、ケン太が家にいてくれたら、それでいいんだけど」
「ああ……」
僕はゆっくりと、山本が何を言おうとしているのかを飲み込んだ。
僕は社会人になったばかりの去年五月、山本にプロポーズをしていた。山本が卒業したら結婚しよう、と……そのときは、僕が山本を養うくらいのつもりだったのだけど……いま、山本は僕の精神状態を心配して、専業主夫の道を勧めてくれているらしい
僕の惨状の原因について、彼女はそれなりに正しい想像をしているのかもしれない。けれど、僕は彼女の提案に対して首を横に振らざるを得なかった。
「……いや、もうしばらくは、続けようと思ってるから」
「けど……っ」
山本はなにかを言おうとして、しかし言葉にならず何度も不自然に呼吸を刻んでいる。そんな山本に、僕は言った。
「……今日は、山本んちに泊まってもいいかな?」
「え? あ、うん、もちろん」
僕の言葉に、山本がかすかに表情を弛緩させた。
……外泊は、蔵人老人から禁止されている。でも一日くらいなら……外出先で体調不良で倒れたと言えば、最近の僕の姿を見ている老人は怒りつつも信じてくれるかもしれない。リツにはすべて見透かされるだろうけど…………それはもう、別にいい。
いまは、山本との関係を修復するのが最優先だった。彼女との関係が壊れては、僕はもう……本当の自分の気持ちさえ、わからなくなりそうだった。
山本は、いまとなっては僕の唯一の拠り所だった。……いや、いま思い返せば唯一の肉親である母が急死して天涯孤独になった二年前から――僕はずっと、そばに居てくれる山本のことを心の支えにしてきたのだ。
「山本、なにが食べたい? 今日は外食じゃなくて、僕がなんか作るよ」
「本当? じゃあ……鍋がいい。辛くなくて、でも豆乳系みたいな薄味のじゃなくて」
「なら、ごま味噌にしようか。去年、つみれ鍋にして好評だったやつ」
「あ、うん! あれ美味しかった!」
「じゃあ、早く買い物して山本んちに行こうか」
山本の表情に笑顔が戻る。僕はほっと胸をなで下ろした。
そして彼女と手を繋いで歩きつつ……考える。
――いっそこのまま、逃げてしまおうか。
蔵人老人が追っ手を差し向けてきたら――と考えると恐ろしいけれど、お金のことさえ絡まなければ、蔵人老人もそこまではしないだろう。そしてリツは、僕の秘密を告発しないかもしれない。だって、もし告げ口をしたとしたら必然的にリツが嘘をついていたということになって、そうしたら彼女だって蔵人老人の信用を失い困るはずで、なら――
「――ッ!!」
「……どうしたの?」
咄嗟に全身を強ばらせ動きを止めた僕を、山本が不審そうにのぞき込んでくる。
僕は山本に答えることなく、視界の端をよぎったそれを確かめようと慎重に振り返った。
……ああ。息が、止まる。
「――まあ、白井さん、こんなところで、奇遇ですね」
道の向こうから近づいてきたリツは、そう言うと、僕と手を繋いでいる山本に向かってほほえみかけた。
「初めまして、山本さん。お話はいつも伺っています。私は白井さんが働いている家の者で、黒川リツと申します」
……僕の表情の変化に、山本が気づいていないわけがない。
「……黒川さんも、お買い物なの?」
戸惑ったような笑顔とぎこちない口調で、山本がそう尋ねる。
リツは、それとは対照的な非の打ち所の無い笑顔で、はっきりと答えた。
「はい――よかったら、お二人とご一緒してもいいですか?」




