4-25 名もなき影の寄る辺にて
【この作品にあらすじはありません】
青々とした若葉から朝露を散らすかのような慌てた足音に、実季は微睡から半身を揺り起こした。いつものように遣いから文を受け取ったよもぎが渡殿を走っているのだろうか。そう思案したが、足音からしてどうも違うらしい。軽やかな小童の駆け足とは違う音色に思わず御簾の隙間から様子を伺えば、足早に歩く伊代と目が合う。
「なっ、若君!」
しまった、と思う間もなく、焦燥に満ちていた表情が鋭い乳母の顔に変化した。
「かようなところに寝転んではなりませんと、あれほど言い付けたのをもうお忘れですか!」
「いや、いや……忘れていないとも」
じとりとした視線に欠伸を噛み殺しつつ返答し、立ち上がった実季は下袴の裾を払う。縒れてしまった単を慣れた手つきでささと整えられたところで、何かを探すように伊代の眼が周囲を彷徨った。
「それで、狩衣と指貫はどこに落としてきたのですか」
「はてさて、どこだったか」
「まったく、衣の一つも着せられないとは。茜にはもう一度、話をしなければなりませんね」
溜息とともに雑仕女に矛先が向いたところで、知らぬ間にお叱りを受けることになった茜へ心の裡でそっと詫びつつ。
「ところで伊代。何か急ぎの用があったのではないか?」
「ああ、そう、そうでした! 一大事ですよ!」
問いかけを引き金に、伊代の顔に焦りが再び浮かぶ。袿の裾乱れもそのままに、すうと息を吸う音がするほど肺を膨らませたのち。
「七條殿が方違にて今宵お立ち寄り召されると、先ほど御使いが来られたのです!」
腹に響くような声量で告げられた内容に、なるほどこれは一大事だと邸の年若き主人は苦笑いを浮かべるしかなかった。
鹿山院実季――鹿山院の三の君といえば、元服を間近に控えながらもその身の上から出仕しておらず、ゆえにその存在を尋ねられたほとんどの者が一度も見たことのないと口を揃える鹿山院の秘蔵っ子であった。
そんな鹿山院にて一の姫の誕生後に降って湧いた同い年の三の君の存在。口さがない宮中の者たちはさるお方のご落胤か、はたまた隠し子かと憶測を実しやかに囁いていたものであるが、真実はそのどれでもなく。ただ、忌むべきとされる双児として生まれた二人の姫の片割れを、表向きには死んだとした後に男と偽り存在を明かしただけであった。
そんな両親の愛によって生かされた実季は、幼少期こそ体調を崩しがちであったもののすっかり健やかになり。保有する避暑地の邸にて表向きは療養、実際には邸の管理を担う名目でひそやかに生を謳歌していた。人里離れた住まいなれど、父母から季節ごとの贈り物が、兄君たちからは書物が届き、片割れたる一の姫こと稔子からは手紙を事あるごとに交わしている。日々の暮らしでは雑仕女の素振りをしては茜と共に人里に買い出しに向かい、狩衣を身に纏っては遠乗りに向かうなど、身分に縛られない生活という得難い自由を享受しているとも言えた。
茜が持ってきた朝餉の膳には、葉に載せた干し魚と梅の香を移した白粥が添えられている。いつもより緩めな白粥に、今朝の慌ただしさが厨房にも伝わったのかと実季は口元を綻ばせる。
(それにしても、方違、か)
方違とは陰陽術やら占術やらによって、目的地が方塞がりである場合に一度異なる方角の地にて泊し、目的地へと向かい直すことによって凶方を避けることをいう。いわゆる殿上人と言われる高位の貴族たちを中心に、それにならって内裏の人々の多くが行なっていると伊予が教えてくれていた。だが実のところその多くは、方違を口実とした会合だったり、寄り道やら垣間見やらだったりするものさ、とは他ならぬ方違で実季に会いにきた兄たる一の君の談である。
(こんな山中の邸にねえ)
実季は何気なく、遠く京から届いた稔子の手紙を思い出していた。
──姉君のお加減はいかがでしょう。わたくしは近日、宮仕えのために入内することとなりました。そのための装束が届きましたが、薄萌黄の表着に薄紅の重ねがとても美しく、見惚れるほどでした。次にお会いしたときには、密かに姉君にも着ていただき、その姿を一目見たく思います。
同じ日に生まれ、同じ乳を吸い、同じ草の上を裸足で走った。なのに、妹は唐衣裳をまとい宮廷を歩き、実季は狩衣に袖を鳥の囀りに囲まれた緩やかな日々を過ごしている。
幼い頃からそういうものだと受け止めてはいる。ただ、時折ふと木立の足元から空を見上げたときの木漏れ日のように、稔子の言葉がきらきらと眩しく、手の届かないものに感じられるだけだった。
「若君? またぼんやりなさって。もしや食が進みませんか」
響いた声に、実季は御簾向こうを見遣る。いつのまにやら廊下に立っていた茜が、心配そうに庇の内側と駆け寄ってくる。
「醤をもう少しお持ちしましょうか? 必要であれば酒もまだ……」
「いや、ただ風の音を聞いていただけさ。四種器は十分だよ」
「そう仰るなら。必要であればよもぎをお呼びくださいね」
「うん。ありがとう、茜」
実季が再度箸を動かし始めると、安心したように茜は廊下へと下がっていく。その途中で、そういえば、と振り返ると。
「伊予さまが言うには、七條殿は日盛り過ぎにはお見えとか。若さまはどのようなお方か、ご存知ですか?」
「いや、七條殿自身についてはとんと。だけれど確か、七條家の活躍は目覚ましく、従三位に程近いのでは言われていると兄さまが言っていたような」
「まあ! それはそれは、伊予さまも張り切っている訳ですね」
「──茜! 茜!! どちらにいますか!!」
遠くから伊予が声を張り上げているのが響き、どちらともなく二人は苦笑する。
「ああ、行かなくては。楽しみですね、若さま」
「……さてどうだろう。手が必要であれば声をかけておくれ」
「そのためにも、まずはお食事を済ませてくださいませね」
すすすと足音静かに、しかし素早く伊予の声がした方へと駆けていく茜を笑みで見送る。匙に持ち替えて白粥を口に含み、するりと飲むように嚥下する。
いつもより慌ただしい邸の様子に、良きせぬ来客。長い日を予感させる朝の喧騒に、心がさざなみ立つのをどこか他人事のように実季は感じていた。
そして、あっという間に時は過ぎ。彼の方が訪れたのは日も西へ傾きかけた頃だった。
門のあたりで蹄の音が止まったかと思うと、足音が慌ただしく廊下に響き始める。母屋の御簾の間からそっとよもぎが顔を出した。
「わかさま、おみえですよ」
「よもぎ、ありがとう。見つからない内に下がるといい」
「はい! よもぎ、しつれいします!」
脳裏に駆け巡るのは、昼頃から口を酸っぱくするように伊予に言われた言葉たちだった。
──いいですか、若君。女人であることを推察されるような振る舞いは謹んでくださいませ。
──狩衣も指貫もしっかりと纏うことはもちろん、衣替えは塗籠の中でだけ行うように。
──くれぐれも雑仕女の真似事や、手伝いの申し出などはしないことです、いいですね!
(さて、うっかり、口を滑らせないように気をつけねばな)
庇に用意されていた文机の側に座すと、見計らったかのように御簾向こうで止まる足音。
「……お邪魔いたします」
空気に染み入るような声に、実季は几帳の向こうで、そっと息を呑んだ。声は澄んで、柔らかく、それでいてどこか安らぎを感じさせるような音色があった。几帳の端に僅かに見えるのは、赤味を帯びた直衣の布。
「そちらに座すのは、鹿山院の……三の君でいらっしゃいますか?」
「いかにも。失礼、すぐに」
そう問いかけられて、実季は立ち上がると几帳の向こうから出る。するとそこに居たのは、兄たちと同じ程の齢だろう青年であった。
「お初にお目にかかります。わたくし、七條光蔭と申します」
視線が交わったそのとき、実季はどくりと心の臓が掴まれた心地がした。
「方違の縁にて、しばしこちらに逗留させていただくこととなりました」
涼やかな切れ長の眼差しには知性が宿り、笑みを浮かべた面差しは親愛の情を浮かべている。しかし一方で、その表情はどこか硬く、目の温度はどこか低い。
(──歪だ)
実季にとってそれは、父君の作り笑いを思いださせるような、造られたものであった。そうわかっているのに、どうしてか目を離せずにいた。
「急なお願いに応えていただき、大変感謝申し上げます。短い間となりますが、何卒……あの、実季殿?」
つい、と光蔭の目の温度が変化する様に、実季は忘れていた呼吸を取り戻す。
「名乗りが遅れて申し訳ない。鹿山院実季と申します。療養中の身ゆえ、こうして客人を迎えるのは久方ぶりでぼうっとしてしまいました」
「……なんと。ご挨拶をと押しかけてしまい、ご迷惑でしたでしょう」
「まさかそのような! お会いできて光栄です。できる限りのおもてなしをさせていただきますので、何かあればお申し付けください」
実季は微笑みながら、静かに礼をとる。
「方違のための数日間、お世話になります」
そう返答しつつ、光蔭も軽く礼をとる。
これが女人であることを隠した実季と七條光蔭の出会いであった。





