堪忍(かんにん)してや~堪忍(かんにん)しておくれやす~
昨夜の京都市内は市内全域がフラッシュを浴びた感じの雷光と地震と勘違いするほどの雷鳴が轟きました。
思わず「くわばら~くわばら~」と雷避けの言葉を小さく呟いてました(笑)
ごきげんよう!
今回書く「堪忍」は京都人ですけど、「京都の商人」の心意気の話です。
この堪忍が本格的に店の見える所に掲げられる様になったのは江戸の頃と言われています。
徳川さんが天下を取り、将軍さんになってから「士農工商」という身分制度が出来、何も生産せず、物を右から左に移動させるだけで儲ける商人は軽んじられておりました。
(まぁ、応仁の乱以後、商売人が阿漕だったので身分制度で一番下に追いやられたと考えるべきでしょうね。)
17世紀、江戸幕府体制も盤石になった頃に京都に石田梅岩という市井の学者が出てきます。
彼は丹波の田舎から京都に奉公に出て勤続20年の後、市井にいた隠者とよばれた小栗了雲に師事し、儒教、仏教、神道に基づいた町人にも分かりやすい道徳を説きました「町人の哲学」とも言われる。
石門心学…石田梅岩の門派の道徳学と言う意味です。
市井の学問としての石門心学が京都所司代松平信順、仁和寺宮済仁入道親王猊下、土御門晴親などの上流階級や知識層にまで広まった頃には
越後屋(三井)大丸(下村)などの超大手の呉服屋の主人にまで浸透し、そこで生まれるのが
「堪忍」の看板です。
この「堪忍」とは、おのれの商売の中で出来る限りの事はさせて頂きますが、おのれの商売をしていく上での「商いの心意気」を損なう、方向性を違える事はけっしてしませんので、そこの所を申し訳ないけれど「堪忍」して下さい。と言う事の表れなのです。
儲けるだけが商人でない、戦国時代には特定の家(商家)しか持たなかった「商売人の仁義」が江戸の半ばの京都に地方から出て来て商売と後に学問を納めた石田梅岩だからこそ作り上げられた「石門心学」…町人の哲学が商人に浸透して生まれた「堪忍」と言う考え方
これだけで満足せず「家業の定め」や「家内の定め」などを設ける事にした商人の家は今も続いております。
新しい「堪忍」の看板のあるお店は古い「堪忍」のあるお店と比べて駄目!って事はありません。若いそのお店も「堪忍」の看板を掲げる事で徐々に「京都の商売人」になっていくのですから
この「堪忍」の看板、良く見える所に掲げてあるのですがけっして目立つ所ではありません。
「堪忍」に限らず、その心意気と言うものは「見えるけれども、見えるものにあらず、そして忘れず、行うもの」なので
京都に用事で来られて「堪忍」の看板掲げてそうなお店で何処に掲げてるかで見えてくるもの、判る事、感じるものがあると思います。
石門心学は今回のお話は京都だけで書きましたが、江戸時代の京都発で大阪、兵庫、江戸にも学舎が出来、京都、大阪、兵庫、江戸の周辺の藩も石門心学の学者を呼んで講義を開くなどしております。
あるあるですが骨子はそのままに地方色も入ってたりするみたいです。




