第14話 嵐の来訪者
その日の午後、営業二課のフロアには、熱帯の低気圧のような重苦しい空気が漂っていたわけではない。
むしろ、物理的な「熱波」が襲来していた。
「Hola! Hashimoto! Genki?」
底抜けに明るい声と共に現れたのは、我が社の物流パートナーである『サウス・ロジスティクス』の担当者、フェルナンダ・ディアスだ。
燃えるような赤毛のウェーブヘアに、健康的な小麦色の肌。
今日も今日とて、オフィスカジュアルの限界に挑むような、胸元の開いたシャツとタイトなパンツスーツを着こなしている。
「やあ、フェルナンダ。……声が大きいぞ」
俺は、苦笑いしながら立ち上がった。
彼女は挨拶代わりに、俺の二の腕をギュッと掴み、頬を寄せるようなハグをしてくる。
周囲の男性社員が羨ましそうな、そして女性社員が冷ややかな視線を向ける中、俺は冷や汗をかきながら彼女を引き剥がした。
「Oh, sorry. 日本のビジネス・マナー、難しいネ」
彼女は悪びれもせずにウインクをした。
そして、その背後から、もう一人の「嵐」が姿を現す。
作業着の袖を捲り上げ、ヘルメットを小脇に抱えた女性。
物流管理部の前田奈緒美だ。
「うっす。……相変わらず人気者っすね、橋本先輩」
前田はニヤニヤしながら、俺とフェルナンダを交互に見た。
彼女の目は、「全部知ってるぞ」と語っている。
この間の公園での一件以来、彼女は俺の正体を知る数少ない人物の一人だ。
「茶化すな。……で、今日はどうしたんだ?」
「来月の配送スケジュールの調整っすよ。フェルナンダさんが『どうしてもHashimotoと直接話したい』って聞かなくて」
前田が肩をすくめる。
フェルナンダは「Yes! 顔を見て話すのが一番早いデショ?」と笑った。
俺たちが立ち話をしていると、フロアの奥から、鋭利な刃物のような視線が飛んできた。
李雪課長だ。
彼女はデスクで書類に目を通しているフリをしながら、眉間に深い皺を刻んでいる。
「……橋本。お客様を立たせたままにしないの。会議室へ案内しなさい」
声の温度が低い。絶対零度だ。
フェルナンダが俺にベタベタするのが気に入らないのだろう。
夜の「契約」を結んで以来、彼女の独占欲は日に日に強くなっている気がする。
「は、はい! ……こちらへどうぞ」
俺は二人を促し、逃げるように会議室へと向かった。
背中に突き刺さる氷の視線を感じながら。
会議は、フェルナンダの情熱的な提案と、前田の現実的なツッコミ、そして俺の調整により、なんとか無事に終わった。
フェルナンダが「トイレ!」と言って席を外した隙に、会議室には俺と前田の二人だけが残された。
チャンスだ。
俺はドアが閉まったのを確認し、前田に向き直った。
「……前田」
「なんすか、改まって」
前田はペットボトルの水をラッパ飲みしながら、怪訝そうな顔をした。
「折り入って頼みがある」
「……金なら貸しませんよ。ストロング缶なら奢られますけど」
「違う。……協力してほしいんだ」
俺は声を潜めた。
「実は……李課長とも、お互い正体に気づいてたって確認し合ったんだ」
前田が水を吹き出しそうになった。
激しく咳き込み、口元を拭いながら俺を見る。
「……ブフォッ! ……マジっすか? あの鉄仮面に?」
「ああ。……というか、お互い最初から気づいてたんだ」
「うっわ……」
前田は引いたような、それでいて面白がるような顔をした。
「で、どうなったんすか? 始末書? 減給?」
「いや。……共犯関係になった」
俺は、夜のコンビニでの「契約」について、かいつまんで説明した。
会社では上司と部下、夜は対等なパートナーとして、互いの素顔を共有していること。
それを聞いた前田は、目を丸くし、やがて腹を抱えて笑い出した。
「あっははは! 何すかそれ! 少女漫画かよ!」
「笑い事じゃない。……そこでだ。前田、お前には『調整役』を頼みたい」
「調整役?」
「ああ。俺たちの関係が、他の社員――特に山下課長や石井あたりにバレないように、物流のネットワークと、お前のその『勘』を使ってサポートしてほしい」
俺は頭を下げた。
前田の口の軽さは懸念材料だが、彼女は「身内」と認めた相手には義理堅い。
それに、彼女のようなトリックスターを味方につけておけば、不測の事態に対処しやすくなる。
前田はニヤニヤしながら、俺の顔を覗き込んだ。
「……つまり、先輩と李課長の『秘密の社内恋愛』の片棒を担げ、と?」
「恋愛じゃない。……食のパートナーだ」
「はいはい、そういうことにしておきますよ。……うっわ、楽しそう! あの鬼課長の弱みを握れるなんて、最高のエンタメじゃないっすか」
彼女は悪代官のように笑い、俺の肩をバシッと叩いた。
「いいっすよ、乗りました! その代わり、口止め料は弾んでくださいね? Lチキだけじゃ足りないっすよ?」
「……分かってる。今度、とびきりのやつをご馳走する」
「交渉成立っす!」
前田はビシッと敬礼した。
頼もしいが、同時に不安も残る。
だが、これで「秘密の共有者」が一人増えた。
俺たちの夜は、より強固に守られるはずだ。……たぶん。
その夜、23時。
俺は自宅のキッチンで、巨大な甲殻類と格闘していた。
市場で仕入れてきた、『ノコギリガザミ』。
ハサミの力が強烈な、泥の中に住む蟹だ。
「……よし、大人しくしろよ」
俺は蟹の急所を一突きして締め、手早く解体していく。
甲羅を外し、エラを取り除き、食べやすい大きさにぶつ切りにする。
硬い爪の部分には、包丁の背でヒビを入れておく。これで味が染み込みやすくなり、食べやすくもなる。
今夜のメニューは、『チリクラブ』。
シンガポールの名物料理だ。
李雪が昼間、フェルナンダの熱気に当てられて「辛くて、でもコクのあるものが食べたい」と目で訴えていたのを感じ取ったからだ。
中華鍋にたっぷりの油を熱し、蟹を投入する。
ジュワアアアッ!
殻が赤く色づき、香ばしい匂いが立ち上る。
一度蟹を取り出し、同じ鍋に、すりおろしたニンニク、生姜、そして大量の刻んだ赤唐辛子を入れる。
香りが立ったところで、トマトペースト、チリソース、鶏ガラスープ、砂糖、酢を合わせた特製ソースを流し込む。
グツグツと煮立った赤いマグマの中に、揚げた蟹を戻し入れる。
ソースを絡めながら、強火で一気に煽る。
仕上げに、溶き卵を回し入れる。
これが辛さをマイルドにし、とろりとした極上のソースへと変化させるのだ。
「……完成だ」
大皿に盛り付けると、スパイシーで甘酸っぱい香りが部屋中に充満した。
付け合わせは、蒸してから油で揚げた『揚げマントウ』。
このパンでソースを拭って食べるのが、チリクラブの醍醐味だ。
俺は料理を保温バッグに入れ、さらに「ある茶器」を持って家を出た。
深夜24時15分。
いつもの公園のベンチ。
俺はランタンの明かりの下で、テーブルに料理を広げた。
「……すごい色ね」
隣に座る李雪が、赤いソースにまみれた蟹を見て目を丸くしている。
今日の彼女は、黒のジャージに『一蓮托生』Tシャツ。
髪は無造作に下ろしている。
「シンガポール名物、チリクラブです。……手、汚れますけど、覚悟してくださいね」
「望むところよ。……いただきます」
彼女はビニール手袋をはめ、豪快に蟹の爪を掴んだ。
そして、ソースをたっぷり絡めて口へと運ぶ。
ガブリ。
殻ごとしゃぶるようにして、身とソースを味わう。
「……んっ! 辛い! ……でも、甘い!」
彼女が声を上げる。
「トマトの酸味と、卵のまろやかさ……そこに唐辛子のパンチが効いてる。……これ、止まらないわね」
「でしょう? 蟹の出汁がソースに溶け出してますから」
俺も蟹の足にかぶりつく。
濃厚な旨味が口の中で爆発する。
これぞ、アジアの熱気。昼間のフェルナンダのパッションにも負けないエネルギーだ。
「そして、これです」
俺は揚げマントウをちぎり、皿に残ったソースをたっぷりと掬い取って、彼女の口元に差し出した。
「……あーん」
「……子供扱いしないでよ」
彼女は文句を言いながらも、素直に口を開けてパクリと食べた。
サクッとした揚げパンの食感と、濃厚なソースのハーモニー。
「……っ、美味しい……! 蟹そのものより美味しいかも」
「ソースこそが主役ですからね」
彼女が満足そうに咀嚼している間に、俺は飲み物の準備をした。
取り出したのは、瓢箪のような形をした器『グアンパ』と、先端が茶漉しになった金属ストロー『ボンビージャ』。
中には、緑色の茶葉が詰まっている。
「……なにそれ? 実験器具?」
「『マテ茶』です。南米、特にフェルナンダの故郷あたりでよく飲まれている『飲むサラダ』ですよ」
俺はポットからお湯を注ぎ、ボンビージャを差し込んだ。
「同じストローで回し飲みするのが、あっちの流儀です。……どうぞ」
俺が器を渡すと、彼女は少し躊躇いながらもストローを口に含み、ズズッと吸い込んだ。
「……苦い。……でも、すっきりする」
「チリクラブの濃厚な脂を流してくれます。ビタミンやミネラルも豊富ですから、激務の貴方にはぴったりだ」
「……ふふ。私の健康管理、完璧ね」
彼女は微笑み、マテ茶を俺に返した。
間接キス。
以前なら意識して避けていたかもしれないが、今の俺たちには、これくらいの距離感が心地いい。
俺はマテ茶を一口すすり、夜空を見上げた。
「……そういえば、迷い猫さん」
「ん?」
「今日、前田に話しました」
「……え?」
彼女の手が止まる。
「俺たちのこと。……『会社では上司部下、夜は飯友』だって」
「ちょ、ちょっと! 何勝手なことしてるのよ!?」
彼女が血相を変えて俺を睨む。
俺は慌ててなだめた。
「大丈夫です。あいつは口が堅いし、何より俺の……いや、俺たちの味方につけておいた方がいいと判断しました。山下課長やフェルナンダへの防波堤として」
「……前田さんが、防波堤?」
「ええ。あいつ、ああ見えて勘が鋭いし、現場の調整能力はピカイチですから。……『面白そうだから協力する』って言ってましたよ」
李雪はしばらく呆然としていたが、やがて深いため息をついて、肩の力を抜いた。
「……はぁ。貴方がそう判断したなら、信じるわ。……確かに、あの子の突破力は味方にすれば心強いかもね」
「でしょう? 口止め料は高くつきますけどね」
「請求書は私に回していいわよ。……二人の平和維持費だもの」
彼女は苦笑し、揚げマントウをもう一つ手に取った。
「……でも、これでもう逃げられないわね」
「何から?」
「『共犯関係』よ。前田さんまで巻き込んで……私たちはもう、完全に一蓮托生だわ」
彼女はTシャツの文字を指差して笑った。
一蓮托生。
死ぬまで運命を共にする。
その言葉の重みが、今は心地よい拘束として俺の胸に響く。
「……望むところですよ」
俺は残りの蟹を平らげ、指についたソースを舐めた。
甘くて、辛くて、少しだけしょっぱい。
それは、秘密を共有する俺たちの、これからの日々の味のようだった。
「ごちそうさま、師匠。……最高のチリクラブだった」
「お粗末さまでした」
俺たちは片付けを済ませ、並んで歩き出した。
街灯の下、二つの影が長く伸びて重なる。
会社での仮面を脱ぎ捨て、素顔で歩くこの時間だけが、俺たちの真実だ。
明日になれば、また「氷の女帝」と「冴えない部下」に戻る。
だが、その裏側には、赤いソースとマテ茶の香りが、確かな絆として残っているのだ。




