第12話 新しい契約
その週の半ば、俺の生活に、劇的な変化が訪れた。
以前からペット可のマンションに住み、いつか犬を飼うために準備を進めていたのだが、ブリーダーから「条件に合う子が生まれた」と連絡が入ったのだ。
急遽、半休を取って迎えに行ったその「新しい家族」は、俺の想像を遥かに超える破壊力を持っていた。
「……くぅ〜ん」
リビングの真ん中に置いたケージの中で、黒い毛玉が震えている。
豆柴の男の子。名前は『レオ』と名付けた。
生後3ヶ月。
手のひらに乗ってしまいそうなサイズ感だ。黒い毛並みの中に、眉毛のような茶色の模様があり、つぶらな瞳がウルウルと俺を見上げている。
「よしよし、怖くないぞー。ここがお前の家だ」
俺が指先を差し出すと、レオはおっかなびっくり鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ。
そして、安心したのか、ペロリと指を舐める。
温かくて、少しザラッとした舌の感触。
「……かわいすぎる」
俺は床に突っ伏して悶絶した。
アメフトと柔道で鍛えた95キロの巨体が、わずか数キロの毛玉に完敗した瞬間だった。
レオは短い尻尾をピコピコと振りながら、俺の鼻先に鼻を押し付けてくる。
ミルクの匂いと、日向のような匂い。
独身男の殺風景な部屋が、一瞬にして天国に変わった。
しかし、現実は甘くない。
子犬の世話は戦争だ。トイレのしつけ、誤飲の防止、そして夜泣き。
俺は育児本を片手に、慣れない手つきで小さな命と向き合った。
会社での仕事よりも、よほど神経を使う。
だが、その疲れさえも愛おしいと思えるのだから、犬という生き物は恐ろしい。
翌日。
俺は少し寝不足の目をこすりながら出社した。
営業二課のフロアに入ると、いつもの張り詰めた空気が漂っている。
「高田。この見積もり、桁が一つ違うわよ。会社の利益を十分の一にする気?」
「ひぃっ! す、すみません課長!」
李雪課長が、今日も元気に氷の鞭を振るっている。
ネイビーのスーツに身を包み、完璧にセットされた髪。
その姿は、一昨日コンビニで一緒にフォーをすすったジャージ姿の女性とは、完全に別人だ。
(……よくやるよな、あの人も)
俺は自席につき、PCを起動しながら苦笑した。
互いに正体を知ってしまった今、彼女の「演じっぷり」には感心するしかない。
以前なら「怖い上司」としか思えなかったその姿が、今は「頑張って武装している姿」に見えてくるから不思議だ。
「……橋本」
不意に名前を呼ばれ、俺は反射的に背筋を伸ばした。
「は、はいっ!」
李課長がデスクの横に立っていた。
手には分厚いファイルを持っている。
「上海支社との契約更新の件、資料をまとめておいたわ。後で確認して」
「承知しました」
俺はファイルを受け取る。
その際、彼女の指先が俺の手に触れた。
彼女は無表情のまま、しかし俺にだけ聞こえるような小声で囁いた。
「……目の下、クマができてるわよ。夜更かし?」
「ええ、まあ。……ちょっと、新しい家族が増えまして」
「家族?」
彼女の眉がピクリと動く。
俺はニヤリと笑って、声を潜めた。
「豆柴です。名前はレオ。……めちゃくちゃ可愛いですよ」
その瞬間、李課長の鉄仮面にヒビが入った。
瞳がキラリと輝き、頬がわずかに緩む。
「……見たい」
「え?」
「写真。……あとで送りなさい」
彼女はそれだけ言うと、何事もなかったかのように踵を返し、カツカツとヒールを鳴らして去っていった。
周囲の部下たちは「また橋本さんが詰められてる……」と同情の視線を向けてくるが、事実は全く異なる。
俺はファイルの表紙を見つめながら、小さくガッツポーズをした。
その夜、24時。
レオを寝かしつけた俺は、コンビニの前で待っていた。
今日は少し冷える。俺はパーカーのポケットに手を突っ込み、白い息を吐いた。
ペタペタというサンダルの音。
現れたのは、えんじ色の芋ジャージに『一意専心』Tシャツを着た李雪だ。
彼女は俺の姿を見つけるなり、小走りで駆け寄ってきた。
「師匠! 遅い!」
「定刻通りですよ。……はい、これ」
俺は買っておいたホットココアの缶を渡した。
彼女はそれを受け取り、両手で包み込むようにして暖を取る。
「……ありがと。で、写真は?」
開口一番それか。
俺は苦笑しながらスマホを取り出し、撮りためたレオのベストショットを見せた。
へそ天で寝ている姿。ご飯を食べて口の周りを汚している姿。俺の指を甘噛みしている姿。
「……っ!」
李雪は画面を食い入るように見つめ、絶句した。
そして、震える声で呟く。
「……反則よ、これ。……あざとい。あざとすぎるわ」
「ミチルみたいでしょう?」
「ええ。……でも、悔しいけど可愛い」
彼女は画面をスワイプしながら、表情をコロコロと変える。
会社での氷のような無表情が嘘のようだ。
俺はその横顔を見ながら、本題を切り出した。
「さて、課長……じゃなくて、李さん」
「……ここでは『迷い猫』でいいわよ。あっちの名前もそうしたんでしょ?」
「分かりました、迷い猫さん。……これからのことについて、少し話しませんか」
俺が言うと、彼女はスマホから顔を上げ、真剣な表情になった。
俺たちは公園へと移動し、いつものベンチに座った。
「互いに正体がバレた以上、これまでの『他人ごっこ』は通用しません。……そこで、新しい契約を結びたいと思います」
「契約?」
「はい。『夜食契約・改』です」
俺は指を一本立てた。
「第一条。会社では、今まで通り『上司と部下』を徹底すること。……変に馴れ合えば、周囲に怪しまれます。特に山下課長あたりに」
「……異論はないわ。あの炎上クイーンに嗅ぎつけられたら、あることないこと言いふらされて面倒なことになるもの」
彼女は深く頷いた。
「第二条。……夜、このコンビニ周辺で会っている間は、『上司命令』は無効とします」
「どういうこと?」
「つまり、ここでは対等な関係だということです。俺は貴方に敬語を使いませんし、貴方も俺に仕事を振りません。……ただの『飯友』として接します」
俺があえて砕けた口調で言うと、彼女は少し驚いた顔をして、それからクスリと笑った。
「……生意気ね、師匠。でも、いいわ。……私も、その方が楽だし」
「第三条。……この関係は、他の社員には『絶対秘密』とする」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見た。
「特に、山下課長、石井、そして物流の前田。……あの辺りにバレると、俺たちの平穏な夜は崩壊します」
「……同感よ。あの子たちが集まったら、核融合でも起きそうだし」
彼女は肩をすくめた。
すでに何度かニアミスしているが、なんとか「偶然居合わせた他人」として誤魔化してきた。
だが、俺たちが「実は仲が良い」と知れたら、彼女たちは一気に距離を詰めてくるだろう。
俺たちの聖域を守るためには、鉄の結束が必要だ。
「以上の三点。……同意いただけますか?」
俺が手を差し出すと、彼女はその手をしっかりと握り返してきた。
小さくて、少し冷たい手。
だが、その握力には確かな信頼が込められていた。
「……契約成立ね。よろしく、師匠」
「こちらこそ、迷い猫さん」
俺たちは月明かりの下で、共犯者としての握手を交わした。
その時、彼女のスマホがピコンと鳴った。
彼女は画面を確認し、ふふっと笑った。
「……早速、登録名を変えたわ」
彼女は俺に画面を見せてきた。
そこには、俺のアカウント名が表示されている。
以前は業務的な名前だったはずだが、今は書き換えられていた。
『師匠』
その文字を見て、俺は思わず口元を緩めた。
「……そのまんまだな」
「いいじゃない。……貴方は私の、食と癒やしの師匠なんだから」
彼女は満足げにスマホをしまい、立ち上がった。
「さ、契約も更新したことだし、夜食にしましょう。……今日は、その『レオくん』のお祝いも兼ねて、少し豪華にいきたいわ」
「お祝い?」
「そうよ。新しい家族が増えたんでしょ? ……私の奢りで、プレミアムな肉まんを半分こ、どう?」
彼女は悪戯っぽく笑った。
奢り、という言葉が出るとは思わなかった。
普段は割り勘か、俺が多めに出すことが多いのに。
「……いいのか?」
「上司命令は無効なんでしょ? ……これは、友人としての『お祝い』よ」
彼女は俺の手を引いて、コンビニの方へと歩き出した。
その手は、さっきの握手よりも少しだけ、温かく感じられた。
家に帰れば、レオが待っている。
そして目の前には、少しだけ素直になった「迷い猫」がいる。
俺の日常は、ますます賑やかで、そして手のかかるものになりそうだ。
でも、悪くない。
俺は彼女に引かれながら、夜空に浮かぶ月を見上げて、小さく笑った。
新しい契約の下、俺たちの「美味しい夜」は、まだまだ続きそうだ。




