070 ありがとう
カーテンを開け。
煙草をくわえ、火をつける。
「……」
大地は混乱していた。
海に促されて始めた自己問答。それが思いもよらぬ方向に進んでいた。
人を信じない。誰とも関わらない。それが自分の哲学だった。
それなのに今。実はそれを渇望していたという結論に辿り着いてしまった。
それは大地にとって、驚愕の事実だった。
本当は俺、人と関わりたかったのか?
そう思い、眉間に皺を寄せ。白い息を吐く。
そして思った。
自分にとって、深く関わりたいと思えた他人。
青空。浩正。
そして海。
青空は死んだ。二度と関わることが出来ない。
その絶望は自分にとって、死を選択するに十分なものだった。
浩正さん。
生まれて初めて、尊敬出来ると思えた他人。
思慮深く、人の痛みに理解を示し、手を差し伸べる聖人のような男。
姉を愛し、共に生きることを誓ってくれた人。
だけど俺は彼に対して、いつも心を閉ざしていた。
もし、この人にまで裏切られてしまったら。二度と立ち直れないと恐れたからだ。
海。
星川海。
こいつと出会ってまだ、数か月しか経っていない。
それなのにこいつのことを、ずっと昔から知っているように思っていた。
この世界に絶望している同志。
最初はそれだけだった。そう思っていた。
だが青空は言った。
『あんた、そこまでお人好しだったっけ。いつものあんたなら、後をつけてまで助けるなんてこと、した?』
その言葉に動揺した。確かに俺らしくない、そう思った。
海がどうなろうと、それはあいつの選択だ。
何より海は俺と同じく、近い内に死のうとしてるやつだ。そんなやつがどうなろうと、自分には関係ないはずだった。
それなのに俺はあの時、海の後をつけた。そして助け、家に連れ帰った。
もしかしたら俺は、あの時からあいつのことが気になっていたのかもしれない。
そして今。
壊れた俺に寄り添い、支えてくれている。
慈愛のこもった眼差しで。
そして時には烈火の如く怒り、感情をぶつけてくる。
女に胸倉をつかまれるなんて、初めてだった。
何回引っぱたかれたことか。
たくさんの顔を持ち、それを遠慮なく見せてくる。
嘘くさい笑顔で。
甘えたそうな顔で。
殺気のこもった眼差しで。
全ての感情をぶつけてくる。
そんな海に俺は惚れた。
ずっと傍にいてほしい、そう願ってしまった。
この俺が?
人と関わらない、そう決めていた俺が?
そう思い頭を振り、煙草を揉み消した。
「……」
ベランダに、一羽の鳥がいた。
こちらをじっと見ている。
「青空姉……なのか……」
大地の目に涙が溢れた。
肩が震え、嗚咽が漏れる。
「青空姉……俺は海のこと、こんなに好きだったのか……」
そう言って窓を開けると、鳥は空高く羽ばたいていった。
「……」
脳裏に両親の顔が浮かぶ。
教師が。クラスメイトが浮かぶ。
誰一人として、忘れたことはない。
脳に深く刻み込まれた、忌まわしき存在。
何度も夢に出て、苦しまされてきた。
どれだけ消し去ろうとしても。
そう思えば思うほど、脳に刻まれていった悪魔たち。
しかし。大地は思った。
もし、こいつらが一人も存在してなかったら。
俺の人生はどうなっていたのだろう。
現在とは過去の積み重ねだ。
全ての過去があるからこそ、俺は今の俺として存在している。
もし、この中の一人でも欠けていたら。
多分俺は、今と同じ俺じゃない。
人生の選択も変わっていたかもしれない。
あのクソ親父がいなかったら。母親がいなかったら。
俺も青空姉も、この世に存在していない。
他の場所で生を受けていたかもしれない。しかしそれは、今の自分と同じ存在じゃない。
青空姉とだって、姉弟じゃなかったかもしれない。
もし、学校生活が楽しいものだったとしたら?
クラスメイトも教師もいいやつで、自分を温かく見守ってくれていたとしたら?
親の虐待を過去のこととして受け入れ、ここまで世界を憎んでいなかったかもしれない。
そうすれば、あの駅で死のうとしなかったはずだ。
もしそうなら。
俺は海と出会ってなかった。
あの日、同じ絶望を背負った仲間として、出会うことはなかったんだ。
そうであれば。あの時、海は一人で列車に飛び込んでいたかもしれない。
そのニュースを見て、最近飛び込みが多いな、そう思いながら日常を送っていたかもしれない。
何の感情も持たず、名前すらすぐに忘れていただろう。
……待てよ。
今。俺は。
とんでもないことに気付いてしまった。
これまでのことは全て、海と出会う為に必要なイベントだったのか?
仮に。
違う人生を歩んだ俺が、海と出会ったとして。
俺はあいつのことを好きになっていたのか?
いや、ひょっとしたら俺自身、別の女と引っ付いていたかもしれない。
出会ったとしても、記憶にも留めない程度の存在だったかもしれない。
あいつだって、俺に興味を示すこともなかっただろう。
そこまで思いを巡らせ。
大地は笑みを漏らした。
涙が頬を伝う。
「なんだよそれ……なんて都合のいい解釈なんだよ……」
俺は海と出会う為、これまで絶望を背負ってきた。
今の俺にとって、何より大切な存在。
愛した女。
これまでの人生全てが、海と出会う為に必要なことだったんだ。
そして俺は巡り合った。海と。
なら俺は。
全てを肯定しなければいけない。
そうでなければ、海の存在を否定することになってしまう。
親のことも。学校のことも。
青空と過ごした日々も、青空を失ったことも。
全てに意味があったんだ。
「無茶苦茶な理屈だな……でも……しっくりきた……」
海は言った。絶望の根源を探るんだと。
そしてそれは、俺にしか出来ないことなんだと。
「ああ、そうだな……海、お前の言う通りだ……」
大地は静かに目を閉じた。
憎むべき存在。全ての顔を思い浮かべた。
不思議と心が騒がなかった。
彼は微笑み、一人一人の名を呟き。
最後にこう言った。涙を浮かべて。
「ありがとう」




