067 躁と鬱
それから数日が経ち。
禁断症状がかなり治まっているのを感じた。
短い時間ではあるが、夜も眠れるようになっている。
煙草の本数に気をつければ、頭痛も酷くならなかった。
少しずつ、食事も摂れるようになってきて。
肉体的にかなり楽になってきたと実感した。
しかし。
入れ代わるように、今度は心が蝕まれていった。
言い様のない不安。恐れ。
それらが全身に纏わりついていた。
体が震える。
ジャケットを出して羽織る。
しかし震えは治まらなかった。
なんなんだ、これは。
大の男が部屋で一人、何を震えてるんだ?
禁断症状の時とは違う、体が自分のものでないような感覚。
なんでこんなに寒いんだ? そう思いスマホを見ると、気温は20度になっていた。
「はああっ? 壊れてんのか?」
しかしすぐに思い直した。
違う、壊れてるのは俺の自律神経だ。
そう言えば昨日、天気予報で5月並みの陽気になると言っていた。
そう思うと、急に暑く感じてきた。
慌ててジャケットを脱ぐ。シャツを脱ぐ。
全身に汗がへばりついていた。
大地はタオルで汗を拭い、新しいシャツに袖を通した。
「……また……寒くなってきたな……」
再びジャケットを羽織り、苦笑する。
寒いんだか暑いんだか、よく分からん。
色々と……壊れてるんだな、俺。そう思った。
そして。
嫌な感覚を覚えた。
何かに監視されているような感覚。
視線を感じ、クローゼットを見つめた。
「……」
何も起こらない。当たり前だ。
この家に住んでるのは俺と海。他に誰もいない。
海は今、買い物に出かけている。
わざわざ嘘をついて、クローゼットに隠れて俺を監視してる訳がない。
被害妄想にも程がある。
そう思い、唇を歪めた。
その瞬間。
大きな音と共に扉が開いた。
「な……」
あり得ない光景に目を疑う。
クローゼットの中から現れたもの。それは馬に乗った落ち武者だった。
落ち武者が、生気のない白濁の瞳で大地を見据える。
「な、なんだ……」
目を疑い、頭を疑う。
そして目を瞑り、言い聞かせた。
あり得ない、しっかりしろ。
これは壊れた脳が作り出した幻影だ。
そう思い、深呼吸をし。ゆっくりと目を開ける。
「……」
落ち武者はいなくなっていた。
クローゼットの扉も閉まっている。
「は……ははっ……」
大地が力なく笑い、両手で顔を覆う。
「どんどん壊れていくな、俺……」
そう呟く。
そして。手が濡れていることに気付いた。
自分の涙だった。
「なん……だ……なんで俺、泣いてるんだ……」
脳裏に青空の笑顔が浮かぶ。
あの時の絶望が蘇る。
霊安室で対面した、冷たくなった青空。
焼かれて骨になった青空を思い出し。
大地は号泣した。
涙が止まらなかった。
声を振り絞り、泣いた。
音に対し、異常に敏感になった。
怖い。
海がテーブルに皿を置く。その音に全身が凍り付いた。
そんな大地に気付き、海は極力音を立てないよう計らってくれた。
本当、こいつには感謝だな。
病気が治ったら、こいつの我儘は全部聞いてやらないとな。そう思った。
そして。
治る?
何を治すんだ?
そんな思考に囚われた。
治してどうなる。治したところで、青空姉は戻ってこない。
二度と会うことは出来ないんだ。
そう思うと、また涙が溢れてきた。
「青空姉……なんで……なんでいないんだよ、お前……」
床に頭をこすりつけ、嗚咽した。
ある日の朝。妙に頭が冴えわたっていた。
心も体も軽い。元気がみなぎっていた。
ひょっとして俺、病に勝ったのか?
そう思い、洗面所で顔を洗い。
鏡を見て。
満足そうに微笑んだ。
大地はその日、やたらと饒舌だった。
食事中も海にずっと話しかけていた。
「そろそろ筋トレ、再開するかな」
これからどんな生活をしていくか。
海にどうやって恩を返していくか。
上機嫌な様子で、大地の話は途切れることなく続いた。
そんな大地を見つめ。
海は浩正の言葉を思い出していた。
「注意しなくてはいけないのは、大地くんが元気になった時です」
「どういうことですか? まるで元気になったらいけないみたいですけど……」
「元気と言っても、不自然な元気です。こう言ってもピンとこないかもしれませんが、その時になれば分かるはずです。
大地くんの症状で顕著なのは、躁鬱だと言いましたよね」
「はい、覚えてます」
「そういう人と生活してると、どうしても鬱状態の時が危険だと思ってしまいます。目に輝きがなく、気力もない。まるで死んでいるかのように脱力し、何もしようとしない」
「そうですね。大地のそんなところ、よく見てるので分かります」
「鬱とは、能動的に動けない状態のことです。起きたくない、食べたくない。働きたくない、何もしたくない。こんな自分、死んだ方がいいって思考に囚われます」
「今の大地、ずっとそんな感じです。一日中泣いていたり、起きるだけでも面倒くさがったり」
「それが突然、能動的に変わる時があります」
「……」
「何事に対しても意欲的になり、表情も明るく、瞳は輝いています。未来のことを語り、自分にはこんな夢がある、だから頑張るんだと笑顔で話します」
「よく分からないのですが……そうなったら駄目なんですか」
「さっきも言った通り、不自然な元気なんです。それを医学的に、躁状態といいます」
「躁……」
「はい。見ようによっては、それは完治したのではないかと感じます。鬱状態から抜け出してる訳ですから。でもそこに、落とし穴が待ってるんです」
「どういう落とし穴……なんですか」
「鬱と違い、躁になった人間はとにかく能動的になります。自分には何でも出来る、そんな根拠のない自信に満ち溢れた状態になります。
日頃出来ないことに次々と挑戦していきます。自分から進んで風呂に入る、顔を洗う、歯を磨く。食事もしっかり摂る」
「……ごめんなさい浩正さん、お話の意図がつかめません」
「全てにおいてやる気が出るんです。行動したいって気持ちが強く強くなるんです。
海さん。大地くんが一番望んでいること。それは何ですか」
「……」
「薬で抑えられるまで、彼が一番したかったことは何ですか」
「自ら命を……あっ!」
浩正がうなずいた。
「様々なことに対してやる気が出る。その中に、自殺という行為も含まれているんです」
「そんな……」
「鬱状態の時は、その願望があるだけです。行動に出ることはまずありません。するのは躁、躁状態の時なんです」
「つまり……元気になった時が危険、そういうことですか」
「そうです。ですから海さん、そうなった時はいつも以上に気を付けてください。少しでも油断すると大地くん、前のように行動を起こします」
異様なテンションで語る大地を見つめ。
海は唇を嚙んだ。
絶対大地は死なせない。
何があっても守ってやる。
負けるもんか。
そう思いながら。




