030 ちっぽけな自分にさよならを
「それで? 何があったのか、聞かせてもらえますか」
警官の問い掛けに、浩正が状況を説明する。
穏やかに、淡々と。
青空は男に手をつかまれた時、いわゆるフラッシュバックが起きていた。もう一人の警官が肩に手をやると叫び声を上げ、過呼吸状態に陥った。
一通りの説明を済ませた浩正がジャケットを脱ぎ、青空の肩にかける。そして、
「落ち着いて、ゆっくり息をしてみてください。大丈夫、もう怖くないですよ」
そう言って微笑んだ。
そして鞄からコンビニの袋を取り出し、青空に差し出した。
青空は袋を受け取ると口をつけ、浩正の言う通りゆっくりと息をした。
そうしてる内に震えが収まり、袋を外すと、「……もう大丈夫です。ありがとうございました」そう言って袋を返した。
浩正が笑って「今日の記念にどうぞ」と言うと、「何それ、ふふっ」と笑顔を見せた。
「ええっと、落ち着いたところ恐縮ですが……大体の事情は分かりました。こういう場所ですから、次からは気を付けてください、と言いたいところなんですが……君、歳はいくつかな」
若い方の警官が青空に聞いた。
青空は見るからに面倒臭そうな表情を浮かべ、大きなため息をついた。
「君、未成年だよね。未成年がこんな時間、こんな場所で何してるんだ? それに君、飲酒喫煙もしてるようだけど」
「私、23歳なんですけど」
青空が吐き捨てるように答える。その言葉に、若い警官は呆気にとられた表情の後、苦笑した。
「どう見ても君、中学生じゃないか。身分を証明するものは?」
「持ってません」
「なら親御さんに連絡を。連絡先は?」
「親はいませんよ。生きてるかもしれないけど、はてさてどこにいるのやら」
「君、ふざけた言い方はやめなさい」
「ふざけてなんかいませんよ。本当のことですから」
「嘘をつくんじゃない。子供がこんな時間、こんな場所で飲酒喫煙。こちらとしても見過ごせないよ」
「だから私は23歳だって。何? この国ではいちいち身分を証明しないと生きていけないの? じゃあこの人はどうなのよ。あんた、この人にも年齢聞いたの?」
「いや、聞いてないけど」
「おかしいじゃない! なんでこの人はよくって私は駄目なの? なんで私だけ身分を証明しないといけないの? 私は清水青空、23歳。私がそう言ってるんだからいいじゃない!」
「そういう訳にはいかないんだよ。君はどう見ても未成年、証明出来るものがない以上、保護させてもらうから」
そう言って青空の腕をつかもうとした。それを浩正が遮る。
「何ですか。公務の邪魔をしないでください」
「いえ、そういう意図はありません。ただ、彼女のさっきの様子はお忘れですか? 無理に連れて行こうとすると彼女、また過呼吸になりますよ」
そう言われ、警官が「そう……でしたね……」と困惑の表情を浮かべた。
「清水さん、でしたね。はじめまして、僕は音羽浩正と言います。さっきは大変でしたね」
何か言おうとする警官を制し、浩正が声をかける。
「あ……こちらこそはじめまして。清水青空です。助けていただきありがとうございました」
「いえいえ、清水さんがご無事でよかったです」
「でも、あの……頬、大丈夫ですか?」
「え? ああ、さっき殴られたやつですか。大丈夫、少し痛みますけど、じきに治まると思いますよ」
「それにその……唾をかけられて……」
「……はははっ、あんなの洗えばいいだけです。気にしてませんよ」
浩正の笑顔を見て。強がりじゃなく、心からそう思ってると青空は感じた。
顔に唾をかけられる。人によっては、どんな暴力よりも屈辱的な行為だ。自分の存在、尊厳の全否定。時代によっては、相手の死をもってしか償えない行為とも言えた。
それをこの男は、洗えば済むと笑顔で言った。その一言に、この男の器の大きさを感じた。そんな小さなことはどうでもいい、そんなことで憤り、無駄な時間を過ごしたくない。それよりもっと、自分には大切なことがある。そういう強さ、確固たる信念がこの男にはあった。
青空の中で、この男に対し憧れのようなものが芽生え始めていた。自分もこんな風になりたい。些細なことで動揺しない、強い心を持ちたい、そう思った。
「それでどうですか、清水さん。身分を証明するもの、本当に持ってませんか」
浩正の言葉に、青空は素直にリュックの中を探し出した。
自分でも不思議だった。強く言われた訳でも、怖い訳でもない。それなのにどうしてだろう、この穏やかな声で言われると、抗う気持ちが消えていく。
「あ……」
リュックの中に、マイカードが入っていた。恐らく大地が入れたんだろう、そう思い、「あのバカ……」と苦笑した。
カードを差し出すと、警官は写真と青空を見比べ、困惑した表情を浮かべた。
「どうだ? 確認とれたのか」
上司と思われるもう一人の警官が声をかけ、一緒に確認する。そしてうなずくとカードを青空に返し、「確認しました。とにかくその……気をつけてくださいね」そう言った。
その言葉に、青空が憮然とした表情を浮かべた。
「おい待てよ。散々疑っておいてそれだけか? 私は被害者なんだぞ? それなのにこんな風に疑われて、詫びのひとつも言えないのかよ」
「詫びって……あのですね、そもそもあなたがすぐにカードを見せてたら、こっちだって疑ったりしなかったんです」
「そんなことを言ってるんじゃねえって。間違いは誰にでもあるよ。ただ間違いだって分かったんなら、素直に詫びるもんじゃねえのかって言ってるんだ。それとも何か? あんたも今流行りの、謝ったら死ぬ病気にでもかかってんのか?」
「ちょっと君、いい加減に」
「彼女の言う通りだと思いますよ」
浩正が口を挟んだ。
「公務だということは理解してます。だから彼女も、そのことに何も言うつもりはない。ただ間違いだと分かった以上、謝罪するのは当然だと思いますよ」
「君まで……主任、どうしますこれ」
「いや、彼女の言う通りだ。誤解したのは私たちだ、謝罪すべきだろう。お嬢さん、すまなかったね」
上司がそう言うと、若い警官も複雑な表情を浮かべながら「……すいませんでした」と頭を下げた。
「では我々はこれで。失礼します」
そう言って警官が去っていくと、青空は神妙な顔で浩正に頭を下げた。
「音羽さん、その……色々ありがとうございました」
「いえいえ、間違ったら謝る、当たり前のことですから」
「それもなんですけど、その……それ以外にも色々と」
「何かありましたか?」
警官に淡々と語る浩正を見て。
男たちに殴られ、唾を吐かれても動じない浩正を見て。
自分は何てちっぽけなんだろう、そう思っていた。
年齢でとやかく言われるのは分かってる。それなのに、自分は頑なにカードを持つのを拒んだ。
持っていれば済むことなのに。変なプライドに憑りつかれていた。意固地になっていた。
どうして私だけが、いちいちそんな物を見せないといけないの?
そう言っていつも余計なトラブルを起こし、憤っていた。
なんて小さいんだろう。
無駄な時間をたくさん使ってしまった。それがどれだけ愚かなことなのか、今日この人と出会ったことで気付かされた。
この人のことをもっと知りたい。私もこの人のようになりたい、そう思った。
「大丈夫ですか、清水さん」
「青空です」
「え?」
「名前で呼ばれる方が嬉しいです」
青空が微笑む。
「ははっ、そうなんですね。実は僕もそうでして」
「じゃあ、浩正さんで」
「さん付けはちょっと。青空さんとそんなに歳、変わりませんし」
「じゃあ浩正くん」
「はい、青空さん」
そう言って顔を見合わせ、笑った。
「浩正くんは今日、どうしてここに?」
「実は僕、近々店を出すことになりまして。さっきまでその打ち合わせをしてたんです」
「お店を出すの? すっごーい、オーナーさんなんだー」
「いえいえ、そんな大したものではありません。それに場所が確保出来ただけですので、オープンはまだまだ先の話なんです。人手も集めてませんし」
「ねえ浩正くん、そのお店の話、聞かせてもらえないかな。浩正くんがよかったら、私も働いてみたい」
「いいんですか? それは助かります。一人で出来ることには限界がありますので、正直どうしたものかと悩んでいたんです。もし青空さんが来てくれるんでしたら、諸々の案件を一気に動かせます」
「やたっ! 私でよければ雇って下さい」
「よければなんてとんでもない。これで夢への一歩が踏み出せそうです」
「じゃあ、今から私の家に来ない? 弟もいるけど、一緒に話を聞きたい」
「分かりました。ではお邪魔させていただきます」
笑い合い、肩を並べて歩き。
青空は思った。
この出会いは必然だ。この人と出会ったことで、暗闇に包まれていた私の人生に光が差した。
大地。多分私、もう大丈夫だよ。
これからはちっぽけなプライドを捨てて。世界を憎む心を捨てて。
今よりもっと、笑顔になるから。
そして。
幸せを目指していくから。




