018 悪夢
「俺が小学2年の時だった。仕事をクビになったとかで、親父とおふくろが喧嘩を始めた。
俺はいつものように視界に入らないよう、部屋の隅で息を潜めてたんだけどな、おふくろに口で負けそうになった親父が、『何見てるんだお前』って俺に突っかかってきた。『見てません、ごめんなさい』そう言って頭を抱えた瞬間、蹴りが入って吹っ飛ばされた」
「ひどい……」
「そっからはいつものパターンだった。何をやっても報われない、嫁はキーキーまくしたててくる。勝ち目がなくなった親父が弱い存在、俺をボコボコにする」
「小2の息子に八つ当たりって、その人どれだけ子供なのよ」
「でもな、虐待の本質はそういうもんだと思う。親父もある意味、社会の閉塞感が生んだ被害者なのかもしれない」
「かもしれない、かもしれないんだけど……どんな理不尽な目にあったとしても、自分がどれだけ犠牲になったとしても。子供を守るのが親でしょ?」
「まあでも、それは強者の理屈なのかもしれない。この世界、そんな正論だけじゃ生きていけないやつがゴロゴロいるんだ」
「納得出来ない……そんなの、納得出来ないよ……」
「今俺が話してるのは過去のことだ。今更何を言おうが、どれだけ責めようが何も変わらない。それにまあ、親父らもそれなりの報いを受けた訳だし、海がそこまで怒る必要はないよ」
そう言って海の頭を優しく撫でた。
「また始まった。抵抗したら余計に殴られる。あの時の俺はそう思って、ひたすら親父の暴力に耐えた。でもな、その日の親父は少し違ってた。
いつもの親父たちは、これ以上はやばいってラインをちゃんと心得ていた。その筈だったのに、どう見ても自制が効かなくなっていた。
身の危険を感じた俺は、『ごめんなさい、ごめんなさい』って叫びながら逃げようとした。その時腹に入った蹴りが強烈でな、息が出来なくなった。そして吐いた」
「それって……かなり危ない状況ってことだよね」
「かもな。でもその時の俺は、反吐で怒りが増した親父のことで頭がいっぱいだった。親父は顔を真っ赤にして、『部屋を汚しやがって!』って怒鳴りながら俺に椅子を投げた。その時の傷がこれだ」
そう言って、髪をかき分けて傷跡を見せた。
海は震える手でそれに触れ、嗚咽した。
「怒りが収まらない親父は、台所から包丁を持ってきた」
「そんな……」
「あの時の親父はマジだった。この不良品を壊してやる、そんな思考に支配されてた。そのことで自分がどうなるか、そんなことを考える余裕もなくなっていた」
「お母さんはその時、何をしてたの」
「何も。煙草を吸いながら、イライラした顔で俺たちを見てた」
「……」
「ああ、俺は死ぬんだなって思った。生まれてから今日まで、いいことなんて数えるほどしかなかったな。出来れば死ぬ前に、腹いっぱい飯を食ってみたかったな。そんなことを考えてた。
その時青空姉が帰ってきた。
目の前に、血を流してうずくまってる弟がいる。その光景に愕然として、親父に鞄を投げつけて怒鳴った」
「その時の青空さんって」
「中1だった。まあ、そうは言っても満足に食ってなかったからな、小学4年ぐらいの体型だった。
ただ心は違った。育児放棄、虐待を繰り返すあいつらに対し、怒りが十分に育ってた。何より、俺のことを守るんだって使命感に燃えていた。
あの時、包丁を持ってる親父を見て。頭から血を流し、反吐の上でうずくまってる俺を見て。平然と煙草を吸ってるおふくろを見て。青空姉の中で何かが壊れた」
「……」
「鞄をぶつけられた親父は、青空姉に向かっていった。青空姉は、『大地、今すぐ外に逃げて! 助けてって大声出して!』そう叫んだ。
その言葉にブチギレた親父は、包丁を振りかざして青空姉を刺そうとした。俺は青空姉を守ろうとして、背後から親父に体当たりした。
バランスを崩した親父は、青空姉諸共その場に倒れた。俺は青空姉の手を握って、『逃げよう! 姉ちゃん、一緒に逃げよう!』って叫んだ。
そしてその時。
俺は青空姉の異変に気付いた」
「何が……起こってたの……」
「倒れた時、近くにあった食器棚にぶつかっててな。ガラスが割れてたんだ」
「……」
「青空姉の顔が、血まみれになってた」
「そんな……」
「俺はパニックになった。何度も何度も青空姉の名前を叫んだ。でもな、そんな状態なのにな、青空姉は俺の頭を撫でてこう言ったんだ。『大地は怪我してない?』って」
涙が止まらなかった。ドラマでもここまで酷くない、そう思った。
「『早く助けを』って青空姉に言われて、俺は走った。その俺を捕まえようとして、馬鹿な親父は包丁を持ったまま外まで追いかけてきた。
そしてこの悪夢は、ようやく終わりを告げた」
2本目の煙草を揉み消し、大地がビールを口にする。
そして。
もう一度、海の頭を撫でた。
「悪いな。こんな話、聞かせちまって」
その温もりに、海の感情が揺さぶられる。
なんで……なんであんた、こんな時まで私を気にするのよ。
誰よりも辛いのはあんたなのに。
予想を遥かに越えた悪夢に。
海は泣いた。
声を上げて泣いた。
大地の分まで。




