3-01 もういいの、私を忘れて。
大手広告代理店で働く25歳の白井悠馬は次々とプロジェクトリーダーを任され、大学のときから付き合っている彼女との結婚が控えている。
その姿に同僚たちから「羨ましい」と言われる中、彼自身はどこか息苦しさを感じていた。
そんなとき、新しい上司として黒須里佳子が現れた。
赤いリップに鋭い視線、挑発的な言葉遣い。数々の人間関係を壊してきたと噂されていた彼女に、最初は敵愾心を抱いていた悠馬だが。
「本当はその人生、退屈なんじゃない?」
里佳子の言葉に、強く動揺してしまう悠馬。
仕事以外でも振り回してくる彼女に近づけば近づくほど、里佳子の孤独と破滅的な衝動に気づいていき、それとともに、彼女に惹かれたのは〝恋〟という感情ではなく、自分の退屈な人生を壊してくれる〝非日常〟だったのだということに気づいていく。
里佳子と過ごしていくうちに、悠馬が出した〝答え〟は。
「いいよなぁ、悠馬は。今年の暮れには結婚だし、次の人事では昇進も確実だし」
「お前もだろうが」
この話は何度目だろうか、と悠馬は小さくため息をついた。
たしかに、大学の同級生であり、婚約者でもある有沢朱美との結婚は決まっている。仕事だって順調だ。同じ部署の同期たちより先に大きな案件を任され、最近では大手企業のデザインコンペにも勝った。
大谷翔平の人生設計ノートほど綿密ではないにせよ、自分なりに決めてきた〝道〟を、これまで大きく踏み外すことなく歩いてきたという自負はある。
「だから羨ましいって言ってんの」
「羨ましいなら、お前も結婚すればいいだろ」
「それができたら苦労しねえよ」
同期が笑う。悠馬もつられて笑った。
いつものやり取りだった。
だから、いつも通りに流せばよかった。
ただ、なにかが足りない。
そう思うこと自体が、贅沢なのだともわかっている。仕事が嫌なわけではない。朱美との関係に不満があるわけでもない。友人に恵まれ、生活に困ることもない。
なのに、胸の奥に小さな空洞がある。
それを埋める方法も、その正体も分からないまま、時間だけが過ぎていく。
「じゃ、俺はメール見てくるわ」
「ああ」
生産性のない会話から静かにフェードアウトし、悠馬はデスクに置かれたパソコンの電源を入れた。
クライアントから届いたメールを一通ずつ確認する。
修正依頼が三件。確認待ちが二件。今日中に返答が必要なものが一件。
いつもの朝だった。
始業時刻を告げるチャイムが鳴るまでは。
「なんだ?」
フロアが妙にざわついている。
「だれか来た?」
ひそひそと交わされる声に、悠馬も入口へ目を向けた。
人事部長と、その隣に立つ女の姿がある。
「ええと、この度、『フェニックス・ラウンド』から諸事情で、弊社に特別出向という形で」
人事部長の説明は妙に歯切れが悪い。
隣の女は、そんなことなど一切気にしていないようだった。
そして、彼の説明を引き取るように口を開いた。
「『フェニックス・ラウンド』をクビになりかけて、路頭に迷っていたところを大沢会長に拾われた黒須里佳子です」
ざわめきが大きくなる。
「自分で言うか、普通」
「黒須さんって、あの黒須さん?」
「コンペ荒らしの?」
悠馬は思わず彼女を見た。
クレオパトラではない。
だが、そう連想した自分を責める気にはなれなかった。
整えられたボブカットのストレートヘア。夕日を思わせる鮮やかなアイシャドウ。今どき珍しいほどくっきりと引かれた漆黒のアイライン。そして、輪郭を際立たせるマットな口紅。
化粧に詳しくない悠馬でさえ、一般的なオフィスメイクとは一線を画していることくらいは分かった。
それなのに、奇抜には見えないくらい、すべてが計算されているようだった。
広告業界に身を置く者なら、黒須里佳子の名前を知らない者はいない。
数々のコンペで賞をかっさらい、斬新なコンセプトを次々と世に送り出してきた風雲児。
その一方で、彼女と組んだ人間関係はことごとく壊れる。そんな噂まである。
名前だけは知っていた。
「というわけで、黒須君は本日付で『読貼堂』の企画部、課長補佐として迎えることとなった」
人事部長が一息に告げる。
「白井君」
「はい」
「じゃ、あとはよろしく」
「は?」
なにがよろしくなのか。
問い返すより早く、人事部長は逃げるようにフロアを出ていった。
「ちょっと待ってください。俺が面倒を見るんですか?」
「違うわ」
初めて里佳子が悠馬に顔を向けた。
「私があなたたちを見るの」
「は?」
「人事部長に聞いたでしょう。企画部の課長補佐として来たの。あなたが私を世話する必要はない」
「それなら最初から、そう言ってくださいよ」
「今、言ったでしょう」
噛み合わない。
初対面なのだから当然だと思ったが、どうにも調子が狂う。
里佳子は悠馬から視線を外し、フロアを見渡した。
「自分から動かないものは、お金をもらう価値がない」
独り言のような呟きだった。
「それ、どういう意味ですか?」
だれかが尋ねる。
「言葉通りよ。指示されるまで動かない人間に、給料を払う理由はないでしょう」
「いや、でも勝手に動いたら怒られるんですよ」
「怒られないように動くのが、仕事でしょう」
即答だった。
何人かが黙り込む。
里佳子は気にせず、デスクを一つずつ見ていった。
「この案件、昨日追加修正が入ったでしょう」
突然、ひとりの社員の前で足を止める。
「はい」
「クライアントは、今日の十七時までに再提出を希望している」
「どうしてそれを?」
「メールの件名が『至急・要確認』になっているから」
彼女はモニターを指した。
「それに、進行表が更新されていない。今朝、メールを開いてから誰にも相談していないでしょう」
「うっ」
「一人でやるつもりだった?」
「当然です」
「あなたには、無理」
即答だった。
「でも、担当は僕なので」
「担当だからって、その必要はないでしょう」
里佳子は周囲を見渡した。
「白井さん」
「はい?」
「この案件、あなたが手伝って」
「俺が?」
「昨日コンペに勝った案件を抱えているのは知ってる。でも、その案件は今日の午前中にクライアントへ確認を返せばいい。午後は空くでしょう」
「そこまで把握してるんですか?」
「さっき見たもの」
たった数分。
それだけで、誰がどの仕事を抱えているのか把握している。
「それにこの案件、担当者が悪いわけじゃない。最初から人員配置がおかしい」
里佳子が壁の進行表を指した。
「仕事が遅い人間を責めるのは簡単。でも、仕事が遅くなる仕組みを作っている人間を放置する方が、よほど問題よ」
悠馬は黙った。
言っていることは正しい。
正しいからこそ、反論しづらかった。
「白井さん」
「今度はなんですか」
「あなたの案件」
里佳子が悠馬のモニターを覗き込む。
「昨日のコンペでしょう」
「そうです」
「勝ったのね」
「はい」
「企画書、見たわ」
悠馬は眉を上げた。
「どこで?」
「昨日の業界誌」
「ああ」
「面白い案だったわよ」
思いがけない言葉だった。
「ありがとうございます」
「ただし」
里佳子は画面を指差した。
「コンペで使ったコンセプトと、実際の商品訴求がずれている」
「え?」
「このまま進めたら、広告を見た人間になにを売りたいのか伝わらない」
悠馬は資料を確認した。
指摘された箇所を読み直す。
確かに、その通りだった。
「ローンチ前に直した方がいい」
「でも、もうクライアントに」
「だから?」
「いや、修正を入れるのは」
「怖い?」
「そういうわけじゃ」
「なら、やればいいのよ」
あまりにも簡単に言う。
思わず彼女を見た。
仕事ができる。
そのことだけは認めざるを得なかった。
来てからまだ数分しか経っていないのに、フロアの状況を把握し、進行上の問題まで見つけている。
だが、その有能さと同じくらい、危うさも感じた。
「私は仕事を投げ出すときは、命を絶つときだと思っているわ」
唐突な言葉に、フロアの空気が張りつめる。
「だから、あなたたちも仕事を投げるときは、それくらいの覚悟を持って頂戴」
「それは、ちょっと極端じゃないですか」
だれかが苦笑する。
「そうね。極端でしょうね」
里佳子はあっさり認めた。
「でも、私にはそれくらいの価値があるの」
笑ってはいなかった。
強がっているようにも、冗談を言っているようにも見えなかった。
悠馬には、その言葉が妙に引っかかった。
「そんなやり方じゃ、今どきだれもついてこないでしょう」
気づけば、悠馬は口に出していた。
里佳子がこちらを向く。
怒っているようには見えない。
ただ、ひどく静かだった。
「白井さんっていったよね」
「そうですが」
彼女が歩いてくる。
「今までに、仲間だと思っていた人に、美談を利用して仕事を獲得された挙げ句、その仕事をそいつらの功績にされたこと、ある?」
「ありません」
即答すると、里佳子は少しだけ目を伏せた。
「そう」
短い返事だった。
それだけなのに、妙に冷たい。
「じゃあ、わからないわね」
「なにがですか」
「自分がいないことにされるって、どういうことか」
悠馬は答えられなかった。
里佳子は彼の机に置かれた資料へ目を落とした。
その表情からは、さっきまでの鋭さが消えていた。ほんの一瞬だけ、疲れた人間の顔に見えた。
けれど、声をかけるより先に、彼女は床に落ちていた資料を拾い上げた。その表情に、先ほどの鋭さが戻っている。
乱れた紙の端を揃え、悠馬の机に戻す。
「仕事は、ちゃんと自分の名前でやりなさい」
それだけ言って、彼女は背を向けた。
赤い唇も、鋭いアイラインも、遠ざかっていく黒いボブも、すべてがひどく目についた。
仕事ができるのは、認める。
だが、自分が正しいと信じて疑わない人間ほど厄介なものはない。
ましてや、今日来たばかりの人間に、こちらのやり方を否定される筋合いなどない。
「最悪だ」
どうやら、口にしてしまっていたらしい。
「私も最悪よ」
背を向けたまま、里佳子が言った。
そして、振り返る。
鮮やかなアイシャドウの奥にある目が、まっすぐ悠馬を射抜いた。
「あなたの人生って、退屈じゃないの?」





