78話 武辺者、春祭の申請書を預かる
キュリクス領主館、執務室。
まだまだ冬は厳しく、軒先には長い氷柱がぶら下がっていた。春を迎えるには、まだ幾夜幾月もかかりそうである。しかし、そんな寒さの中でも窓の外からは職人たちの槌音や荷馬車の車輪の軋む音が絶えず聞こえ、街は確かに春祭に向けて動き出していた。だが、執務室の空気は異様に張り詰めていた。
「──以上が、リャマ族の長老マザル殿からの申請内容です」
申請書を読み上げたトマファは、ひと呼吸置いてから静かに書類をテーブルへ戻す。横に控えていたクラーレがすっと一歩前に出て、ためらいのない声で告げた。
「反対です」
全員の視線がクラーレに集まった。
「自分の娘を陳列して『花嫁として売る』なんて、やってることは奴隷商と同じじゃないですか!」
彼女は申請書を手に取り、「それを春祭の時期にやりたいなんて──到底理解できません」と言いながら、再び書類をテーブルに戻した。
「ですが、『花嫁市場』はリャマ族にとっても街の人にとっても、毎年楽しみにしているお祭りなんですよ?」
思わず発言したプリスカが、クラーレにぎぃっと睨まれ、「す、すんません」と漏らす。彼女はこの執務室の中で唯一のキュリクス出身者であり、思わず地元目線で口にしてしまったのだろう。
空気の重々しさを打ち払うように、ヴァルトアが低く唸った。
「俺たちもここに赴任して、まだ一年も経っておらん。そのうえで教えてほしいのだが──その『花嫁市場』とは、どういう仕組みなんだ? 本当に“売る”のか?」
その問いかけに、リャマ族の長老マザルは静かに、しかし胸を張って応えた。
「我々は一族の誇りを持って娘たちを育ててきたつもりです。ただ、遊牧を生業としているため、娘たちには出会いの機会が乏しい。だからこそ春祭に合わせ、一家総出で娘たちを飾り、男たちの前に立たせるのです。──しかし、選ぶのは娘です。父母は持参金の交渉をしますが、最終的に誰と縁を結ぶかは、娘自身が決めます。男がいかに財貨を積もうとも、娘が首を縦に振らなければ縁は結ばれません」
トマファがそれを受け、軽く頷いた。
「つまり、『市場』というのは便宜的な呼び方で、実態は見合いに近い……という理解でよろしいですか?」
マザルは静かに「左様でございます」と応じた。
「けれど、一族の経済状況が、娘さんの判断を迷わせたりはしませんか? 『選ぶのは娘』と言っても、家族や周囲の期待に押されて、望まぬ相手に嫁ぐようなこともあるのでは?」
クラーレは反論の手を緩める様子はなかった。自分と同じ年頃の女性が金銭で売り買いされるように扱われる──その構図が、どうしても納得できないのだろう。彼女の心情を察しながら、トマファは慎重に言葉を選んだ。
「……まぁ、親同士の取り決めで結婚する話なんてキュリクスにもありますし。婚約の持参金だって、言い換えれば“売買”とも取れますよね」
クラーレはトマファを睨んだのち、机に視線を落とし、唇をかんで言った。
「……私は、ちょっと納得がいきません。文官が私情を挟んでしまい、申し訳ありません」
執務室に、重たい沈黙が落ちた。
やがてヴァルトアが腕を組み、ぼそりと呟いた。
「土地が変われば、生活習慣も文化も違う。そしてその文化には、それぞれに理由や歴史的背景があると俺は思っている。……クラーレの想いも、もちろんわかる。だが、一方的に否定する前に、俺たち自身が見て、考えて、判断すべきだろう」
ひと息置き、静かに言葉を続けた。
「視察を条件として、開催の可否を判断するのはどうだ?」
「そ、そうですね」
「──済まぬが、マザル翁。この申請書は一旦保留という形で構わぬか?」
マザルは深々と頭を下げ、一礼する。
「承知しました。……正直、倫理的な問題や政治的な理由で開催を断られた一族があったと聞いております。我々は視察を受け入れる用意がございます。どうか、前向きなご検討をお願いいたします」
*
リャマ族の「花嫁市場」は、かつて一族同士の血を濃くしすぎないための知恵として始まったという。マザルたちの一族は、春祭の頃になるとキュリクス周辺の草原に移動し、季節遊牧を行うのだ。つまり春祭は彼らにとって、ほかの部族やキュリクスの民と接触する貴重な機会であり、そこで開かれる「縁見立ての場」は、嫁入りを通じて新たな絆を結ぶための社交の舞台となる。
娘たちは家族により飾り立てられ、男たちは銀細工や染め布などの贈り物を持って訪れる。それはまるで一夜限りの舞踏会のようなもので、翌朝にはほとんどが決まらずに終わることも少なくない。だが、「誰かに見初められる」よりも、「誰を見つめ返すか」が娘たちの誇りであり、選ぶ自由こそがこの市場の本懐とされている。
──とはいえ、いつの頃からか観光目当てや物見遊山の客が集まりだし、「人身売買、売春」と勘違いされることも増えたという。ちなみに部族内部でも意見は割れており、儀式として守るべきだという長老たちもいれば、やめてしまえという長老もいる。かといって誰にも振り向かれずに年を重ねる娘が出るかもという母親たちもいるのだ。文化の継承か、時代の変化か──その間で揺れているのは、実はリャマ族の娘たち自身である。
*
あの申請書のやりとりから、およそひと月──。
クラーレは、ヴァルトアから「視察」という形リャマ族へ派遣されることとなった。正直なところ彼女にとってこの任務は不本意だった。「判断する前に実物を見よ」と言った領主の言葉はもっともだが、見世物にされる娘たちを目にするのは彼女にとって心苦しいのだ。
市場近くの広場にはすでにリャマ族の仮設の天幕や装飾小屋が立ち並び、祭りの準備が進んでいた。特に市場に近い一角、色鮮やかな布地をかけた小屋の前でひとりの少女がステップを踏んでいる。きっとリャマ族の踊りの練習をしているのだろう、その少女を見ていたらとふと目が合ったのだ。
「あなたも、“市場”に出た人?」
突然声をかけられた。艶のある黒髪を左右に分けて二つに結び、小さな金属の髪飾りをきらきら揺らす少女がこちらを見据えていた。年の頃は十二、三歳ほどで、メイドのプリスカやロゼットよりもやや幼く見える。クラーレの元に駆け寄るとにっと笑って首を傾げた。
「あぁあなた、リャマ族の髪色じゃないもんね。じゃあ選ぶ方? ――それも違うか。じゃあお役人さん?」
ぐいぐいと食い気味に話しかけてくる少女にクラーレは戸惑いながら頷いた。
「そうです。領主館から確認に参りました、クラーレと申します」
クラーレは首元から認識票を取り出して見せた。少女はそれをまじまじと見ると
「私はティネ。──へえ、大変なんだね。あたしはね、今年はこれを着るの」
そう言って、肩から掛けていたレースのカーディガンをふわりと広げて見せた。色鮮やかな刺繍のスカートに、胸元に銀飾りのついた胴衣、そして細やかな粒金を連ねた首飾り。ティネはそれらを身につけてうれしそうにくるりと一回転してみせた。
「見てこれ。お父さんが牛を一頭売って、これ買ってくれたの。きれいでしょ? 去年はこんなの着られなかったんだよ!」
ティネはスカートの縁を指でなぞりながら、屈託のない声で言った。だが、クラーレの心はますます重くなっていった。年端もいかない少女が人前で着飾られ、誰かに“値踏み”される場に立たされる──それを本人が喜んで受け入れていることが、むしろ胸を締めつけたのだ。
この子は、そういう世界しか知らずに育ったのだ。もし自分が身元を引き取り、大事に育ててあげられたなら──そんな考えがよぎってしまうほど、クラーレには受け入れがたい現実だった。
「ところでティネさんは、花嫁市場に売りに出されることに何も思わないの?」
「え、別に何とも思わないよ? だって、こんな綺麗な服が着られるし──こんな綺麗なアクセサリーで飾ってもらえるからね」
「売られるんだよ?」
「嫌ならお断りって言えばいいの! 結婚てお互いが良いって言わなければ成立しないんでしょ? ほら、けーやく主義ってやつだっけ?」
少女の無邪気な応えにクラーレは言葉を失った。それはティネの本心なのか、深く慣れ親しんだ価値観から出てきた言葉なのか判断がつかないのだ。ただひとつ確かなのは──彼女が今、誰かに値踏みされることを恐れていないという事実だった。
ティネと別れたあと、クラーレは仮設の天幕のあたりをゆっくり歩いて回った。そこでは娘たちがきゃっきゃと笑い声を立てながら衣装の最終確認をしていた。母親や叔母たちが髪を梳いていたり、胴衣の肩紐の具合を直している。天幕の陰では男たちが磨いた装飾品を広げて相談し合っていた。銀の留め具、染め上げた布、香のついた小瓶。どれも『自分の娘をより美しく見せるため』に用意されたのだろう。
笑い声もある。はにかみながら友人同士で帯の結びを直す娘たちや、照れ隠しにふざけて踊り出す者も。皆、まるで祭りの支度を楽しんでいるかのようだった。だがその賑やかさの裏で、クラーレの目には別のものも映っていた。品定めするような目つきで娘たちを見ている男たち、娘の背を押す母親、衣装を着たままうつむいて動かない少女もいた。
市場全体に漂う熱気、期待、そして諦めが滲む静けさ。クラーレは立ち止まり、深く息をついた。何が正しくて何が歪んでいるのか、何が常識で非常識なのか、その境界線は想像していたよりずっと曖昧だった。
*
「──視察報告を聞かせてもらえるか?」
執務室。ヴァルトアに促されクラーレは数枚の報告書を差し出した。
「娘たちは自らを飾ることに誇りを持っているようでした。少なくともそう振る舞っている子が多かったと思います」
言い添えたその言葉にはどこか迷いがあった。ティネのように迷いが無い子もいれば、静かにうつむいて動かない子もいたのだ。全てがこうでしたと報告出来ない以上、言葉に迷いが出てしまう。クラーレはヴァルトアの机の上に視線を落としながらぽつりと続けた。
「ですが本当に自由だったのか、確信は持てません」
トマファはそれを聞いて一度うなずき、ヴァルトアへと視線を向ける。
「ご判断を」
ヴァルトアは腕を組んだまま、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「俺がここの領主となって初めての春祭だし、花嫁市場だ。開催目前の今更になって中止を宣言すればリャマ族の不信を買うだろう。――だから今年は条件を付ける。娘たちが“選ぶ側”だと明文化させろ、拒否権もはっきり明記させておけ。──それが守られぬようなら、次は許可しない」
クラーレは少し驚いたような顔をしたのち、静かに頭を下げた。
「君の目を信じようと思う。もし強制や搾取があったなら、君は見逃さなかったはずだ」
「ありがとうございます」
そうして、花嫁市場の開催は条件付きで許可となった。
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