79話 武辺者、春祭の申請書を預かる・2
「ボルジア姫にお友達ができたんですね」
リャマ族の花嫁市場の申請書を貰った翌日。
キュリクスはまだまだ冬は厳しく、軒先には長い氷柱がぶら下がっていた。各家の煙突から暖をとるためにもくもくと煙が上がっている。春を迎えるにはまだ幾夜もかかりそうである。
領主館敷地の隅、ノーム爺の小屋のすぐ隣にアニリィや工兵隊たちが急造した牛小屋があった。その中では二頭の牝牛が並び立ち、互いを牽制するように視線を交わしつつも静かにノーム爺を見つめていた。彼はいつものように静かに耳元で彼女たちに話しかけていた。その傍ら、車椅子に乗った文官長トマファが、毛布を膝に掛けながら苦笑まじりのため息をついた。
「というか、ボルジア姫の機嫌が悪いと伺いましたが」
「この前の牛市でな、リャマ族がこの牝牛――マキャベリを出品してな。なんか娘を花嫁市場に出すとかこーとか言っててなぁ。ま、思わずひとめぼれしちまって買ったんだわ」
ノーム爺は煙草をぷかぷか吸いながらそう応えた、それを聞いてトマファはジト目で応える。
「ノーム爺、そりゃボルジア姫からしたら不愉快極まりないでしょう。ロゼット殿の報告書で『愛を囁き合うように土起こしをしていた』ってあったのに、余所から他の女を連れてきたんですよ? これじゃ腹の一つ立てても当然ですよ」
「愛を囁くって言ってもなぁ。――ボルジアを見ても勃たないんだけど」
『――最低だなこのくそジジィ』
そこへバタバタと足音を立てながら誰かが走ってきた。領主館内でこんな走り方をするのは一人しかいない。
「あっ、トマファ殿、はいパス!」
ノーム爺とトマファの横を走り抜ける瞬間、アニリィは何かを放り投げるとそのまま走り去っていった。投げ渡されたのは文書の束。トマファの膝元にすとんとその束が収まったので取りこぼすことは無かったが、やっていることは子供じみている。
「お客さんもう来てるから、あとは頼んだよー!」
「仕事を物理的に投げないでくださいっ!」
トマファは嫌な予感を抱きながらその書類を眺める。その表紙には「サーカス事務所登録請託書」と書かれていた。
*
私――アニリィは領主館受付で一筆書いていた。
「えっと、剣術稽古で練習用の木剣を三本折りました。これは木剣の強度が足りなかったからだと思います。木剣だけに危険――なんちて」
というか寿命だったんじゃない? メリーナ姉さんの靴ベラ連撃に耐えきれないほうが問題だと思うんだけどなぁ、そんなことを思いながら始末書を書いていた時だった。
「あのぉすみません。――申請書をお願いします」
目の前に立っていたのは笑顔の男と若い女だった。その男は顔に笑みを貼りつけてはいるものの、目はまったく笑っておらず、むしろ背筋が寒くなるような雰囲気をまとっていた。その隣に立つ女は私と同じくらいの年頃で、こちらを値踏みするような目つきをしており、心の奥にぬるりとした不快感が湧く。
「あ、はい」
とりあえず書類を受け取って表紙を見ると、そこにははっきりと「サーカス」の文字があった。私は即座に椅子を蹴るように立ち上がり、「失礼!」とだけ言って受付を飛び出したのだ。私はピエロが怖い。とにかくヤツらの目が怖い。目が笑ってないのが特に怖い。――よし、トマファ君のところへ行こう! 確か牛小屋へ行くと言ってたから!
私は駆けた! 牛小屋の前でノーム爺と話していた彼の車椅子めがけて書類を横投げして駆け抜けたのだった。
*
応接室の扉が静かに閉じると、ひとときの緊張が空気を満たした。
向かいに座る旅芸人の座長は、陽気な口調に似合わぬ無表情でサーカス興行の申請について要点だけを淡々と述べていた。その隣に控える事務員の女は一言も発せず、こちらを観察するような目でトマファをじっと見つめていた。
「春祭りに合わせて、町の広場で公演を──ということですね」
そう確認した私――クラーレに、座長は「えぇ、まぁ」と鷹揚に頷いた。
「申請書は――はい、確かに受理しますね」
毎年春祭に合わせてルツェル公国から興行に来ているらしい。トマファが手元の資料を確認しながら穏やかに返した。その彼の横顔をちらりと見た時、ほんの一瞬だけ、引きつったような表情を浮かべていた。なので私は思わず彼を見つめてしまった。あれ? どうしたの? 何かおかしい?
「このたびはルツェル公国より遠方よりのご来訪、誠に──」
私が口上を述べようとしたその時だった、こちらをじっと見つめていた若い女がふいに「すみません。そこの文官長と二人でお話ししたいのですが」と声を上げる。突然の申し出に場が凍りつく。座長は「失礼があったなら申し訳ない」と取り繕い、トマファも少し困った顔をして私を見た。
「あの、他国の方と二人きりというのは色々と誤解を招きかねません。私か衛兵を同席させてください」
私は冷静に応えた。なんだかこの女の様子がおかしいのだ。私は思わず、腰から下げている短剣の柄に軽く触れた。
「でもそれはプライバシーの侵害じゃない?」
しかし女は瞳が鋭く細めると、そう言い返して来たのだ。あまりにも挑発的な物言いだったので負けじと私もすっと言い返した。
「いいえ、これは文民保護における外交儀礼です。しかも私は王国軍の元軍属です、彼の護衛も私の役割の一つですから」
その女は笑顔で返す刀で言い返して来た。私は家族名を名乗っていないのに何故知っているのか。少々冷静さを欠いていた私は、その事にまだ気づいていなかった。
「ねぇ気付いてるのでしょ? ――“カリエル”君」
女がふいにその単語を口にしたので、私はようやく色々と察したのだ。――トマファ君とこの女は古くからの知り合いで、しかも“カリエル”と呼ぶほどの親しい関係だという事を。応接室には再び静寂が訪れた。私はふとトマファを見る。彼ははにかみながらもこう言ったのだ。
「お久しぶりです、ハルセリア嬢。――手紙では十年もやりとりしてますが、最後に会ったのはヴィオシュラ学院での時、でしたね」
「カリエル君は変わらないわね――だけど、もう立つことは出来ないのよね」
「まぁ、あの事故で生きてるほうが不思議だと言われたんです。主神に感謝してますよ」
トマファは額と胸と肩を右手で触れながら「主神と月と精霊の御名に感謝」と聖句を唱えた。ハルセリアもそれに続き、静かに同じ祈りの言葉を口にする。それを見た座長も慌てて真似をするように聖句を唱えた。――トマファが月信教徒なのは知っていたが、誰かが祈りを始めるとつい自分も聖句を口にしたくなるのがこの信者らしい。確かルツェル公国は月信教徒が多いはずなので二人もそうなのだろう。
「事故なんて表現、不愉快です――あの時、国や学院を訴えるよりもあの男、レピソフォンを殺しておくべきでした」
その声には冷気のように冷たく堅かった。それにハルセリアの目は一切笑っておらず、殺意を撒き散らしたのだ。しかも王国民から評判が悪いレピソフォンとはいえこの国の王族だ。他国の王族に殺意を漏らすこの女の本気に思わず背筋が凍りつき、手が腰の短剣の柄に触れかけた――しかしトマファはそっと私の右手に触れた。静かな制止だった。
私の心臓は跳ねる。思わず視線を彼に向けると、私に安心を促すかのような笑顔を見せた。そしてその笑顔のままハルセリアに向き直る。
「そんな滅多な事をいうもんじゃないですよ。――まぁ不便は多いですが、この車椅子があれば僕はどこにだって行けますよ。領主館のメイドさんたちにはいつも苦労を掛けてますが」
「――相変わらず優しいんですね、カリエル君」
「ただの弱腰の八方美人です――ところでハルセリア嬢、偽名を使ってまで入国してきたって事は、何かあったんですよね」
私とハルセリアとの剣呑な空気を察してか、トマファは笑顔で静かに訊いた。ハルセリアもその声を聞いて笑顔を浮かべると、指をせわしく動かしながら応えた。
「はい。手紙でも何度か触れましたが、ルツェルでは間もなく政変が起きると思います。もしかすると始まっているかもしれません」
ハルセリアは穏やかにそう述べた。その声には覚悟と焦燥があった。座長は一度だけ目を伏せ、やがて静かに立ち上がった。
「ハルセリア様、文官の皆さま。私も栄光あるルツェル公国の民ですが、一介の旅芸人一座の座長です。人々の笑いが生活の糧ですから政治の話は何も知りませんし聞いておりません。――失礼します」
丁寧にそう言うと彼は一礼して応接室を後にした。緊張した空気が一層強くなる。
*
「政変とは、どういうことですか?」
その沈黙を破って問いかけると、ハルセリアはゆっくりと口を開いた。
「大公は病床にあります。しかし大公の血を引く息子はまだ若いためか、大公の弟であるパルミエ公を担ぎ上げようと暗躍する者がいるのです。そして軍閥も動き出し、内部抗争が起きてます。その証左として大公派の貴族の暗殺未遂事件も起きたのです。――きっとロバスティアと裏で繋がっている者がいるんでしょう」
「ついに動き出したんですね。――ですがルツェル大公に何かあれば、公后の実家であるビルビディア王国も黙っていないでしょう」
トマファが低く呟いた。ルツェル公国はキュリクスから南西に位置する山岳の小国である。昔から真面目な国民性が多く、鉱業及び加工業、金融業が盛んな国だ。そのルツェル公国と隣接するロバスティア王国との間には、鉄鉱石やニッケルなどを産出する鉱脈が横たわっており、資源を巡る対立によって過去何度も小規模な紛争が起こっているのだ。現在は停戦状態とはいえ火種はくすぶり続けている。
そもそもロバスティア王国は国土拡張の野望を隠そうともせず、キュリクス領との境界にあるジャルダン回廊も、南国ビルビディア王国との国境もまた、新たな火種となる危険を孕んでいるのだ。前にロバスティア王国から派遣された雑な女スパイを捕まえ、強制送還した記憶も新しい。
ただ、この政変で要となるのは大公后の存在だ。ルツェル公国やロバスティア王国よりさらに南に位置し、豊かな穀倉地帯を有するビルビディア王国――その国王の姪がルツェル大公后アナシアである。もしルツェルで重大な擾乱が起きればビルビディアは大公后の縁を通じて政変へ介入し、周辺各国の均衡を一気に崩しかねない。まさにルツェル公国は火薬庫のような存在と言えるだろう。
クラーレは考え込みながら、慎重に言葉を選んだ。
「その情報、どこまで信じていいのか分かりません」
「信じろと言われ、はいそうですかと言える内容ではないことは重々承知しております。ただ、火薬庫が爆ぜれば周辺国は荒れると思います。ですから、その――」
ハルセリアの声が言い淀んだ。ハルセリアは助けてくれと言いたいのだろう。だけど言い出せば国政の介入を招くことになりかねない。彼女なりの踏み超えてはならない線なのだろう。
「クラーレ君。この件、ヴァルトア卿にすぐ報告しよう。僕らの判断でどうとかできる範囲を優に超えている」
トマファは穏やかな声で言った。「今すぐヴァルトア卿を呼んでくる。キュリクスとして何ができるかを考えなければなりません――クラーレ君、話の続きを聞いていてほしい」
「うん、わかったわ」
私の返事を聞いてトマファは静かに車椅子を漕いで応接室を出て行った。その静寂は、もはや嵐の前触れだった。
*
ハルセリア・ルコック。私でも知ってるルツェル公国の才女だ。新聞情報だとルツェル公国政務次官の娘で、ここ最近の法制度改定や経済改革成功における財務状況の好転に寄与し、『次世代の女宰相』とも呼び声が高い。それに冷静沈着で理知的だとか感情を表に出さないと書かれていた。しかし保守思想が強いお国柄のためか、ハルセリアが活躍するのをよしとしない一派がいるのは事実だ。それにハルセリア自身も反対派には強硬に当たるため、「激情を内に秘めた爆弾」とも揶揄されている。
そして私がキュリクスの文官となってからというもの、ルツェル公国からトマファ宛ての手紙が多いなと個人的に思っていた。しかし宛名はいつも違うのだ。友人という割には頻繁だし、宛名が違うから何の手紙だろうとは思っていたのだが。しかし丸っこい文字だったから女性字だとは思っていた。だけど詳しく訊いて、恋人です、と言われたらと思って敢えて聞かないでいたのだ。
でも私の中で一つの答えが導き出された、その手紙の送り主は全てハルセリアだ。『手紙では十年のやりとり』というがハルセリア名義での手紙は届いたことは無い。
私は目の前にいるハルセリアに向き直る。彼女は私をじっと見つめていた。
「――つまりルツェル公国の擾乱に、キュリクスが介入しろと?」
私は慎重な声音で問いかけた。ハルセリアはその問いを聞くとしばし目を伏せ、静かに息を吸い込んだ。今、ハルセリアが声を出そうとしたそのタイミングで畳みかける。
「大丈夫、今は二人きりよ。思ってる事や言いたい事があったらはっきり言って。――私なんかに腹芸しても何にもならないわよ」
相手が話しかけようとするタイミングで畳みかけるのは一つの話術だ。議論の主導権を強く握ったり、特定の結論へ迅速に誘導したい場合に畳みかける戦略は使えるのだが、相手の心証を悪くすることがある。だけどこれはお互い素直に話し合わないと結論は出ない。あと、感情的になりやすい私は腹芸が苦手だ。
「そうよね。――あなたの質問には『違う』と応えるわ」
小さく、けれどはっきりとした否定だった。そしてハルセリアは顔を上げると奥歯をぎっと噛んでから続けた。「もう他に方法が無いの。わたし一人の力ではどうにもならない。栄光ある祖国ルツェルが壊れるのを見てらんないの」
その声はただただ必死で真っ直ぐな声だった。
「もしカリエル君の力を借りられるなら、結婚でも人質でも、なんなら政治取引でも何でもするわ」
「結婚って、あなた、本気で——」
「ええ本気よ。栄光ある祖国ルツェルを彼に救ってほしいのよ」
ハルセリアは強い女性だ、そう思っていた。噂に聞く彼女は冷徹で妥協を許さない改革派。だが今目の前にいるのはその仮面を脱ぎ捨てたただの若い愛国心溢れる女性だった。
「だから、お願い。クラーレさん。——彼の力を、貸してもらえるよう一緒に説得してくれない?」
私は言葉に詰まってしまった。なんて、なんて応えればいいのだろうか。
扉が音もなく開いた。席を外していたトマファが車椅子を押されて戻ってきたのだ。彼の後ろには屈強な体躯のヴァルトアの姿がある。ヴァルトアは静かに一礼するとハルセリアは慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「はじめまして、ヴァルトア卿――伏してお願いします。カリエル君――いえ、トマファ殿の助力を、ルツェル公国のためにお願いしたいのです」
頭を下げる彼女の声は震えていなかったが、その肩はどこか頼りなく見えた。トマファは一拍おき、冷静な声で言った。「卿、ご判断を」と。全員の視線は、ヴァルトアに向けられていた。彼は短く息を吐き、低く重たい声で応えた。
「済まぬ。キュリクスは独立領ではない。王国の政を無視しての行動は許されておらぬからな」
ヴァルトアの無情な言葉にハルセリアは顔を上げた。笑みを浮かべようとしたがそれはあまりに痛ましいものだった。
「……ですよね。あはは、冷静さを欠いていたかも」
その笑みの奥に少女のような表情が一瞬覗いた。泣きそうな瞳。助けを乞うことがどれほど彼女の矜持や自尊心を揺るがせたのかがよく伝わった。そんななかトマファは静かに声を上げた。
「ですが領内で出来る手は打ちましょう。政変そのものは止められないかもしれませんが暴発した後のことは考えねばなりませんから」
彼の声はやさしく、けれど強い意志が宿っていた。それを聞いてヴァルトアも大きく頷いた。
「だな。ではトマファ、旧友のためにも出来る限りの手は打ちたまえ。――あとクラーレ、君も彼を助けてやってくれぬか」
「「御意」」
私とトマファの声が重なった。応接室の中でルツェル公国のために出来る事を模索し、何かあれば手を貸す密約が結ばれたのだった。
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