52話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・3 =幕間=
「――ところでラダミア殿。王太子殿下の容体はいかがですかな?」
その問いを発したのはノクシィ一派に連なる新任の記録監察官だった。
奥宮の廊下にて、控えの間の帳簾を揺らすこともなく問うたその声はあくまで丁寧だが、どこか試すような響きを帯びていた。対する乳母ラダミアはひとつも眉を動かさずに答えた。
「相変わらず高熱と倦怠が続いております。侍医の処方により、今は寝ついておられます」
と、それだけを返す。
しかし実際、王太子の私室には、ここ数日誰ひとりとして出入りしていなかった。王太子専属の侍医でさえ「静養の妨げとなる」との理由で奥まで入ることはせず、診察は扉越しの問診に限られていた。だが、その侍医は王太子派の一人であり、王太子の“秘密”も知る数少ない人物だった。
最近になって、王宮の内外では「王太子は重篤で、もはや政務どころか起き上がることもできない」との噂が、静かに、だが確実に広まりつつあった。一見すればノクシィ一派の重臣と目される貴族が軽口まじりに言い始めただけの与太話。だがそれはあまりに手際がよすぎた。侍医の訪問ですら制限されていることや奥宮での沈黙を逆手に取った『事実』の並べ方は、まるで初めから狙っていたかのようだった。
実のところ、その情報は別口から流されていた。ノクシィ一派を隠れ蓑にレピソフォン派が仕掛けた高度な情報操作――王太子の立場を揺るがすための静かな一撃だった。
そんな折、控えの間にふらりと現れた、先ほどの若いのとは違う、老齢の記録監察官が片手に茶筒をぶら下げていた。ラダミアを胡乱な目でみやると口を開く。
「ほら、王太子様へのお見舞いだとさ。学友を名乗る文官からだ」
「――どこの“学友”だ?」
「知らんよ、俺は通すか止めるかを決めるだけだ。病人に効く茶だってさ」
そう言いながら彼は気怠げに茶筒を放り投げ、ラダミアに受け取らせると帳をくぐって立ち去った。
ラダミアは監察官が立ち去ったのを確認してから茶葉をひとつ摘まみ、香りを確かめるように鼻先へ近づけた。ふわりと立ち上る芳香に混じって、ごくわずかに漂ったのは湿った金属を舐めたような、青臭い甘みだった。戦地で青酸塗布の矢尻を焼いたときに感じた、あのかすかなアーモンド臭――思い出すだけで鼻の奥が痛む、記憶に染みついた匂いだった。
「――口にしたら終わるものまで送りつけてくるのか」
そう呟いたラダミアは、掌の茶葉をそっと茶筒に戻した。香りだけでそれが青酸由来の毒であることに疑いはなかった。王家付きの乳母として、そしてかつて数多の戦場で生き延びてきた兵站指揮官として――この匂いを見逃すことはあり得なかった。ラダミアは茶筒を乱暴にゴミ箱に投げ捨てた。帳の内で湯を注ぎながらトレハがぽつりと呟いた。
「――そろそろ隠し通すのも、限界ね」
「あぁ、実行だ」
*
王太子の枕元には一冊の詩集「白月撰」と組紐が置かれていた。そこに挟まれた栞紙にはこう記されていた。
“夜や寒き衣や薄きかささぎの われてもすえに逢はむとぞ思ふ”
これは王太子が書いた単なる創作詩ではない。今からおよそ八百年前、宮廷貴族ボルヌ・テーカによってまとめられた勅撰詩集『白月撰』に収められた一首の変形であり、読み手によっては恋の隠喩にも、季節の別れにも取れる多義詩だ。季節、離別、羇旅、そして秘めた恋を詠んだその詩集は、上流階級のたしなみとして今なお名を残すが、内容を正確に読み解ける者は稀だった。しかし栞紙に記されたこの詩は、脱出の日と合流の合図を示す鍵だった。
そしてそれに対応する手編みの組紐――王太子の枕元に置かれていたそれにも、外部協力者との“すれ違い時刻”を伝える暗号が密かに織り込まれていた。組紐には編み目を変えることで「+」「-」の模様が仕込まれており、「+−−+ ++− −− ++− −++− +−+− +++」であれば、王太子が信頼を寄せる元近衛兵長と『通用門待つ』いった合言葉を表していた。
さらに白と藍の反復は時刻、灰と緑の配色は脱出口の方角、金糸の挿し込み位置は合流地点の合言葉――その頭文字を指し示していた。王太子は子供の頃から「誰にも読めない文が書けるのは楽しいし、詩の奥ゆかしさはたまらない」と笑っていたが、それが今や命を繋ぐ鍵となっていた。
もちろん王太子やラダミア、トレハへの私信であれば記録監察官は全て確認するだろう。しかし教養が必要となる古典詩や信号文を隠した組紐に気付くわけがない。
「お前、古典詩ってわかるか?」 「ンなもん知るわけないだろ? ったく、病人のくせに詩やら組紐やら……王太子って元気なんじゃねぇの?」
検閲官は、送り合う詩と組紐を手にしたまま悪態をつき、指を軽く振って「通せ」と告げた。ラダミアは礼を述べてそれを受け取る。組紐は茶筒に巻かれたまま、誰の目にもただの“過剰包装”にしか見えなかった。だが、その一本一本が、脱出の経路と段取り、そして“外”とを結ぶ命綱だった。
王太子――いや、“彼女”は、わずかに唇を引き結ぶと、組紐の結び目を最後まで整え、詩の紙片をそっと詩集の裏表紙に挟み込んだ。
*
その夜――。ラダミアは侍医を呼び、こう告げた。
「殿下に発作の兆候がございます。はよ薬を」
侍医は頷き、指示に従って薬壺のほか、別命により用意された薬包も持参する。中には――一時的に黒く染める髪染め薬が含まれていた。同時に、ラダミアは奥宮のある一角に「療養専用区画」としての帳を張らせ、人払いを命じる。
「殿下の容体が不安定です。外気と人声が刺激になりますので」
奥宮の侍女たちは、長年ラダミアに仕えてきた者ばかりである。だれも異を唱える者はおらず、むしろ重々しい空気に顔を伏せるとそっと奥へと下がっていった。この夜だけ、王宮の奥――真に禁域とされた空間が、わずかに外界と断絶された。
それは、静かなる戦場の始まりだった。
やがて帳が落とされ、奥宮にひそやかな夜が訪れる。
王太子は鏡台の前に静かに腰を下ろしていた。絹布の上に広げられた髪染め薬が、仄かな薬草の香りを放つ。ラダミアが櫛を取り、濡らした布で金色の髪を撫でつけると、淡い金がじわじわと墨のように黒く沈んでいく。
「これで――誰にも気づかれない?」
王太子の問いに、ラダミアは鏡越しに目を細めて頷いた。
「誰にも、気づかれませんとも。――もっとも、気づいても黙っている者はいるでしょうが」
衣を着替え、顔の輪郭を変えるために頬の線に粉を引く。普段トレハが着ている侍女の制服を纏った“彼女”はもう王太子には見えなかった。
「……今生の別れのような気がするわ。いままで育ててくれてありがとう、ラダミア、そして――“姉さん”」
そう呟いた王太子に、ラダミアは微笑すら見せず、ただ静かに言った。
「ここからは持久戦ではありません。生きるための“耐久”戦です。泣いては駄目。貴女には生きていただかねばなりませぬ」
トレハがそっと寄って、肩に手を添える。 「“あなた”には、生きてほしいのです」
王太子の唇がわずかに震えた。
「――ありがとう、トレハ。ラダミア。ふたりの名は、忘れない」
「恐悦至極です」
ラダミアは、左目にかけた眼帯の奥からも涙をこぼすと、そっと耳打ちした。「すぐに合流します。今は落ち延びなさい」
やがて通用口への小道へと続く抜け道が開かれた。夜気が奥宮の静謐を震わせる。王太子は侍女の姿で、偽の通用証を胸元に入れてゆっくりと闇の中へと歩を進める。その直前、彼女はふたりに最後の伝言を残していた。王太子はラダミアを強く抱きしめると静かに伝えた。
「私は“ソーテルヌ”と名を変えキュリクスに一旦立ち寄ります。その後、ロバスティアへの出国を申請する予定です。あなた達も落ち延びるのなら、わ、忘れないで下さいませ」
それを聞いてラダミアがゆっくりと頷く。
「つまり、あのヴァルトア子爵のもとへ……ふふ、賢い選択ですね」
トレハもまた、わずかに目を伏せながら口元を引き結ぶ。「いずれ私たちも、そちらへ参りましょう。“ソーテルヌ様”」
王太子――否、“ソーテルヌ”は微笑んだ。
通用口へと向かう中庭の回廊。
変装した王太子――ソーテルヌはその暗がりを抜けた先を急ぐ。しかし酔ったような笑い声が奥から近づいてくるので歩みを止めて隅に立ち尽くす。
「おいおいカルビン、そんなに酒を煽るな――っつっても、俺様“レピソフォン”殿下のご気晴らしに付き合わされたら飲まなきゃやってられんか」
その声はレピソフォンだった。片腕に酒瓶をぶら下げ、もう片手で肩を抱かれていたのは若き取り巻きカルビン。ふたりはふらつく足取りで回廊を曲がり、まさにソーテルヌの前に現れたのだ。
一瞬、時が止まる。
だが、レピソフォンの目は血走っており、カルビンは明らかに酔っていた。
「おっ――これはこれは、お綺麗な侍女殿。ふふ、どうだい? 今宵、我が寝所に参る気は?」
その気色の悪い声音にソーテルヌの背がわずかに強張るが、隣のカルビンがすぐに茶化す。
「やめときましょうよ。殿下の趣味はこんな“育ちすぎ”が良いんですかぁ? 僕は断然、ちんまりしたつるぺたな方が……」
「お前はロリコンだもんなぁ!」
「がはは! それ言ったら殿下はあの娼館のらぶたん殿が今も思い人っスか?」
「うるせぇ! あんな夜の女が思い人なわけがあるかバカヤロウ! 俺様が平民相手に勃つと思うか?」
「無理っすねー! さっさとイッてポイっすもんねー」
「そうそう、すぐ終わる!」
下卑た笑いが響く。ソーテルヌは廊下の隅に静かに立ち尽くす。そしてふたりはそのまま足をふらつかせながら通り過ぎていく。
「すぐ終わると言えば、ま、あの王太子も、どうせ長くねぇしな!」
レピソフォンが吐き捨てるように言うと、カルビンがにやりと笑いながら応じた。
「そういえばご命令通り、一服盛っておきましたよ。“病弱な王太子”は、もうじき“片付きます”」
ソーテルヌの心臓が一瞬跳ねた。毒。あの茶。自分は暗殺される予定だったのだ。足音を抑えて進む彼女の背に再び声がかかることはなかった。だが確かに、この夜の奥宮にはソーテルヌの、王太子の命運がすれ違っていたのだった。
*
その頃、まだ星の残る空の下。
王宮の通用門に一人の侍女が歩いてきた。控えめに伏せられた顔、胸元には通用証が丁寧に挟まれている。
「夜勤お疲れさまでした。では、通用証を」
若い衛兵が緊張した声で言った。侍女——ソーテルヌは、黙って証を差し出す。
「――んー」
衛兵は通用証を見比べながら、何度もソーテルヌの顔と交互に視線を移した。
「なんか、ちょっと違和感が――」
そこへ、背後から年老いた衛兵がのそのそと現れた。
「どうした、若いの」
「あっ、ラッセル近衛兵長!」
「儂は定年を迎えてバイト衛兵じゃよ――それよりどうした?」
「なんか……この人、ちょっと気になりまして」
ラッセルと呼ばれた年老いた衛兵は通用証を一瞥すると、ソーテルヌに向かって穏やかに声をかける。
「お嬢ちゃんや、今日の“仕事”は終わったのかい?」
「――はい。無事に」
「じゃ、馬車のところまで案内するよ。道、分かるかい?」
ソーテルヌは一瞬たじろいだ後、こくりと頷いたが視線はちらりと迷っていた。年老いた衛兵はそれを見逃さずくすりと笑う。
「――やれやれ、いつまで経っても方向音痴は治らないな。まったく、殿下らしい」
その囁きは、風に消えるように小さかった。
ソーテルヌの肩が一瞬震え、すぐに目を伏せたまま小さく頷いた。
「さ、お嬢さん。こっちだよ」
首を傾げる若き衛兵を残し、ふたりの影はゆっくりと朝靄の向こうへ消えていった。
* * *
空が白み始めた頃、奥宮の一室にひとつの静寂が戻っていた。
寝台には誰もいない。乱れた布団と冷めた湯呑だけが、かつてそこにいた者の痕跡を物語っていた。トレハはゆっくりとその寝台に腰を下ろすと、しばし何も言わず、空になった布団の上に指を滑らせた。
「ついに出て行ったのですね」
背後から足音もなく近づいたラダミアが、茶碗を手に取り、ぬるくなった茶を一口含む。
「もし脱出に失敗があったら衛兵が非常信号を上げるはずさ。それが夜明け前までに上がらなかったと言うのなら無事だったんだ――さて。トレハ、お前も覚悟は決めたかい?」
その問いに、トレハはまっすぐ前を見据えたまま答えた。
「ええ。それは父様や母様がクセナフォンに殺された時からとっくに」
ラダミアはふっと笑みともため息ともつかぬ息を漏らすと左の眼帯をゆっくりと撫でた。
「私にも、レピソフォンに殺された息子と娘の仇がある。……長い戦さよ」
その言葉に応じるように、東の空から鳥の声がひとつ。新たな一日が始まろうとしていた。だが、王宮の最奥では、すでにひとつの“夜明け”が過ぎていた。
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