53話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・4 =幕間=
日の出前。
奥宮の裏手にある通用門に一台の小さなワゴンが停められていた。荷台には長く丸められた絨毯が一本。それを運んでいるのはやや猫背の年若い女中――トレハであった。表情からは深く読み取ることは出来ないが、彼女には若干疲れが映って見える。
「王太子様に納められた品ですが、柄が気に召さなかったようで――これが通行証です」
そう言って通用門の警備を担う二人の衛兵に頭を下げる。
「――返品か」
「えぇ。こちらの都合で返品するのですから取りに来いってのは不調法でしょう? ですから私が商館にお持ちするのが筋でしょう」
するすると応えるトレハが気に入らなかったのか、若い衛兵が片眉を吊り上げて荷台に積まれた絨毯を槍で突いた。ぐに、と鈍い感触が返る。
「なんかさっきの絨毯、手ごたえが変だったよな」
「さぁ? 気のせいでしょう」
その呟きにもう一人の年老いた衛兵が目を細めると、咳払い一つ。
「馬鹿者。王太子殿下付きの女中に無礼な真似をするな!」
「ははッ、近衛兵長殿!」
「だからそれは定年退職したときの階級。いまはバイトじゃよ」
年老いた衛兵ラッセルはトレハに穏やかな笑みを向けた。「気を付けて行くといい」
「ありがとうございます」
トレハは深々と頭を下げ、ワゴンを静かに引いて通用門をくぐった。その絨毯の中には王太子付き筆頭侍女ラダミアが息を潜めていたのだった。
*
翌日、同じころ。
王宮から奥宮へと繋がる回廊にざわめきが走った。豪奢な軍装に身を包んだレピソフォンが数名の側近と兵を引き連れ、王太子の私室がある奥宮の門前に突然現れたのだ。
「王太子の安否確認を致す、直ちに門を開けろ!」
その声は王宮中に響き渡り、あまりの突然の荒事に戸惑う侍従や女官たちは足を止め驚きの声をあげる。一部は逃げ出し、廊下を駆け去る者もいた。だが奥宮の護衛たちは誰一人として剣を抜こうとはしなかった。いや、抜けなかったのだ。彼らの多くはすでに金と脅しで買収されていたのである。
「繰り返す、王太子の安否確認を致す! 直ちに門を開けろ!」
レピソフォンは繰り返し声を張り上げ、その行動を正義に見せかける。そしてレピソフォンは兵たちに号令して奥宮の扉を押し開けた瞬間、王太子担当の記録監察官――ルゲインが立ちはだかる。
「このような闖入は許可されておりません。王命によるしかるべき手続きなくして、奥宮への進入は――」
「どけ、下賤の者が」
レピソフォンは怒りにまかせてルゲインの胸倉を掴み、壁へと叩きつけた。そのまま床に倒れたルゲインに女官の一人が駆け寄ろうとした、その瞬間――、
「お前も王命に逆らうのか?」
レピソフォンの鋭い声が廊下に響き、佩刀した長剣の柄に手をやった。女官は息を呑んで立ち尽くす。周囲にいた女官たちも同様に身体を強張らせ、目を伏せ、誰も手を差し伸べようとしなかった。
「お前らのような佞臣が王を腐らせたのだ」
レピソフォンの怒気は留まることを知らず、振り返って護衛たちに命じる。
「これから俺たちを止めようとする者がいるなら躊躇せず剣を抜け、切り伏せても構わぬ。ここから先、ノクシィ一派だろうが俺への妨害は許さぬ。彼奴らへ粛清も辞さぬ構えを見せよ」
その言葉に応じ、護衛たちは一斉に柄に手をかけ剣を半ばまで抜きかける。廊下の空気が一瞬にして凍りついた。彼らの本気を察した奥宮の女官たちは廊下の隅に身を寄せ合いひれ伏すように頭を垂れていた。その光景はすでに“武威による制圧”が完了したことを如実に物語っていた。
レピソフォンはそれを確認するとふと満足そうに表情を緩める。そして顎を上げて奥宮の深部へと足を踏み入れた。
「進め。これで“真実”が明らかになる」
その背中にはただならぬ覚悟と陶酔が滲んでいた。
*
王太子の私室は静寂に包まれていた。
調度は美しく整えられ、香の残り香が仄かに漂っている。誰かが丁寧に掃除したばかりのようだった。開かれたままの書簡、押し花の挟まれた本、そして床に残されたわずかな絨毯のずれ。そのわずかな痕跡がちょっと前まで『誰かがいた』という事実を伝えていた。
ついてこいと言われ連れてこられた女官たちが口々に囁き合うが、その様子をレピソフォンの兵たちが鋭い視線で見張っていた。
「そういえば夜半、物音がしなかった?」 「まさか、さらわれたの?」 「逃げた? まさか」「でも王太子様は御病気で――」
その言葉に反応した兵の一人が前に出て低く威圧的な声で問い詰める。
「詳しく話してもらおうか。夜半、どこで、何を聞いた?」
女官たちはたじろぎ互いに顔を見合わせる。ひとりが怯えながら口を開きかけた瞬間、兵のもう一人が手にした剣の柄をかちりと小さく鳴らした。
「ここで虚偽を述べれば、それは“国命に対する妨害”にあたる。覚悟はいいな?」
女官たちは蒼ざめ、唇を噛んで沈黙した。“尋問”という名の圧迫――それは、王国の定めた法に背くものでありながら、もはや誰も止められなかった。
レピソフォンはそのざわめきに苛立ち、眉をしかめる。
「黙れ下賤の者、くだらぬ憶測を流すな――とにかくヤツを探せ! 王太子殿下はどこかに隠れているはずだ! 見つからぬというなら奥宮の女官らを全員かき集めて吐かせろ」
だが後ろにいた側近のカルビンがにやにやと笑みを浮かべた。
「居ないなら、居ないで都合が良いじゃないですか。――退位して隠れられた、という形にすれば混乱も抑えられますよ?」
カルビンはそう言いながら机の横に置かれていた衣類タンスを開けると、無造作に引き出しを引いた。そのときふと眉をひそめて手を止める。
「ん、これは――? 女性物の下着?」
その言葉に場の空気が一瞬静まり返る。カルビンは引き出しから白いレースで覆われたものを摘まみあげる。レピソフォンが目を細めて振り返った。
「――何が言いたい?」
「いや、まさかですよ? 王太子様って女性だったんじゃないかと思って――まあ、くだらない憶測です」
レピソフォンはわずかに表情を歪めたが、すぐにふむと一つ頷き、部屋の中央に歩み寄る。
「――病弱な王太子は、すでに自ら退位され、お隠れになられたのだ」
レピソフォンはカルビンを見もしなかった。言葉は誰にともなく、むしろ自分の信じる未来に向けて放たれた。
*
黎明の頃に奥宮に武装した兵が突入した――その噂は朝のうちに王宮全体へと広まり、各所でざわめきが絶えなかった。
「王太子は拘束されたのか?」「まさか殺されたのでは!?」
憶測と恐怖が交錯するなか、カルビンや他のレピソフォンの取り巻きの指示によって中庭に召集の伝令が発せられた。『王太子の容態について、急ぎ報告がある』とだけ伝えられ、その命令に逆らう者はいなかった。断れば“王命に背く”と言いかねない空気がすでに広がっていたのだ。
中庭には文官、武官、女官、各部署の代表者たちが続々と集められ、誰もが無言のまま列に加わっていった。その場にいた誰もが知っていた。これは報告会などではない。もはや政局だ――と。
その日の昼。
王宮中庭には異様な空気が流れていた。高壇に立ったレピソフォンは群衆を前に大きく両腕を広げ、声を響かせた。
「王太子殿下は消息不明となられた。ゆえに、継承順位二位の我こそがこの王国の正統なる継承者となる!」
レピソフォンから発せられた言葉の意味は皆にすぐ伝わった。
そして一瞬の沈黙ののち乾いた拍手が数回響いた。それは忠誠の証ではない、怯えと空虚の入り混じった儀礼のようなものだった。その中で一際大きな声が上がった。
「レピソフォン様こそ!」「頼りになるお方だ!」
それは明らかに用意されていた『賛同の声』――サクラだった。あらかじめ仕込まれた声が賛同の空気を作り、それに釣られていくつかの小さな声が波紋のように広がっていく。
しかしそれに真っ向から反発する声もあった。
「ふざけるな、正統は王太子様だ!」「こんな茶番、誰が信じるか!」 と、その叫びは群衆の中に沈み込みつつも確かに響いていた。そして周囲では、顔をしかめる廷臣、舌打ちを隠そうともしない武官、憮然とした顔で踵を返す文官の姿が次々と見られた。誰とも知れぬ囁きが、肯定と拒絶のあいだで混じり合い、王宮中庭はただならぬ緊張に満ちていた。
王座を巡る争いは、いま静かに、新たな段階へと突入した。
*
その夜、王宮の廊下には囁きが満ちていた。
「あの、王太子様は――本当にご無事なのでしょうか?」
「ラダミア様もトレハ様も――まさかバカ王子共に捕らえられたのでは!?」
それはただの噂話ではなかった。王太子に忠義を誓う者たちのごく自然な心配の声だった。三人の安否を気遣い、誰にも聞かれぬよう小声で交わす密やかな祈り。老廷臣のひとりが廊下の飾り窓から月を見上げてつぶやいた。
「これはもはや、静かなクーデターではないかッ!」
その頃。
王宮を遠く離れた街道の外れ。老兵が一人、薄暗い丘の上に立っていた。
彼の足元には無人のワゴン。そして風にたなびく王宮から運び出された一枚の絨毯――その端にはうっすらと滲んだ血が乾いていた。
その男――老衛兵ラッセルは夜空を見上げる。
かつて近衛兵長として王城を守っていた彼は、奥宮に仕える者たちの名も顔も覚えている。王太子の姿も何度か遠目に見た記憶があるがただそれだけだった。
だが、ラダミアの姿だけは忘れたことがなかった。
統一戦争のさなか、まだ若く激情に燃えていたラダミアが自分に想いを寄せてくれていたこと。あの頃には既に彼にはすでに妻がおり子もいた。それでも彼女は諦めず、真っ直ぐに想いをぶつけてきたのだ。
「恋と戦争は胸を焦がすが――若いうちは、境目があいまいだからなァ」
あの時はそう言って優しく彼女の頬に触れた記憶がふと蘇る。彼女は涙を流し、それでも最後には笑って、「じゃあ私、誰かを守るために強くなります」と言ったのだった。
その彼女が今、血を滲ませながら絨毯の中で逃げ延びた――その事実が、老いた彼の胸を締めつける。その視線の先には山の向こうに小さく灯る篝火の影。
「――行け。あの子を、どうか!」
彼の手の中には小さな髪飾りがあった。金糸の刺繍入り、若かりし日のラダミアが彼の娘へと贈ってくれたものだった。その目元は哀しみと誇りとで濡れていた。
“王太子”と呼ばれた少女は、いまや偽名をまとって夜の帳へと消えていった。だが、彼女の旅はまだ始まったばかりだった――。
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