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303話 武辺者の街の変わり者夫婦の話・後編

 それは春の主神祭を目前に控えた頃のことであった。

 キュリクスの街のみならず、周辺の開拓村や宿場町にいたるまで激しい喉の痛みや咳、さらには全身の発疹を訴える患者が爆発的に急増し始めたのである。


 毎日のように膨れ上がる患者数の報告を受け、領主ヴァルトア伯は直ちに街の中央市場へと領主軍の出兵命令を下した。即座に衛生看護隊や軍医たちを動員して臨時の無料診療所を開設させ、民衆が不安からパニックを起こさないよう万全の体制を取り持ったのだ。他にも領内の町や村にも衛生兵を派兵して慰撫に努めている。駆り出された軍医たちは押し寄せる患者たちを「この時期によくある悪質な喉風邪の一種」と診断し、創薬ギルド製の解熱鎮痛薬『ラクナル』や『スッキリン』を次々と処方していった。もちろん診察を受けた者の中には、体力の乏しい幼児や高齢者を中心に重症化するケースも散見されたため、そうした患者たちはすぐさま領主館付属病院へと搬送され、適切な入院・加療を受けられるよう手配された。


 幸いなことにほとんどの民衆は薬を飲んで数日間大人しく安静にしていれば、順調に快方へと向かっていった。……ただ一人、ヨハンネを除いては。


「……ケホッ、ケホッ、……だけど、とりあえず、舞い込んだ依頼だけは……すべてこなさないと……」


 ヨハンネは身体を焼き尽くさんばかりの高熱を押してなお、執念深くチェンバロの前に座り続けていた。涙ながらに「どうか横になって養生して」と縋るコンスタの制止を振り切ってまで彼が筆を止めないのには理由があった。どういうわけか春の主神祭の前後を境にして、彼の家のポストに恐ろしいほどの数の作曲依頼の手紙が殺到するようになっていたのだ。


 それもこれも、アンリとセレンの二人が春の主神祭の大舞台で見事に奏でてみせたヨハンネの自信作──『フルートとハープのための協奏曲』があちこちの耳の肥えた貴族たちの間で大絶賛され、彼の作曲家としての人気を文字通り爆発させたからであった。しかも何通もの書状のなかには小切手が入っているのを見るたび、ヨハンネの心は恐怖に支配されていた。この仕事をもしも断ってしまったら、手元にあるこの小切手の金額よりも遥かに高額な「違約金」とやらを請求されて財産をすべて差し押さえられるかもしれない──。そんな一般常識のなさが生んだ悲しい誤解と恐怖心に駆り立てられ、彼は燃え盛るような熱病のなかでただひたすらに羽ペンを握り、鍵盤を叩き続けた。


 日に日に肉体は衰弱し、その細い指先からは力強さが失われていく。


 だが残念ながら──あまりにも主神に愛されすぎてしまったこの若き天才に、この世でのさらなる活躍の時間は残されていなかった。


 ある深い夜。高熱に浮かされ、かすむ視界のなかで五線譜を見つめていたヨハンネはチェンバロの鍵盤にその身を預けたまま、誰に看取られることもなく一人静かに息を引き取った。死因は街を襲っていた喉風邪──いわゆるタチの悪い『溶連菌感染症』であった。


 翌朝、冷たくなってしまった彼を最初に発見したのは愛する妻のコンスタでも、あの図々しい悪友のシュタドラでもなかった。たまたま来月の典礼聖歌の打ち合わせをしようと彼の自宅を訪ねてきた月信教の司祭が、鍵盤に突っ伏したまま動かないヨハンネを発見したのだ。驚愕した司祭はすぐさま領主館へ通報し、一報を受けて現場へ急行した領主館付属病院の医師の手によって、その場で稀代の天才音楽家の死亡が確認されたのだった。


 まさに「誰かがしっかりと監視しておかないと、暴走を始めてあっという間に取り返しのつかない事態を引き起こす」という予言が最悪の形で的中してしまった瞬間であった。


 ヨハンネが亡くなった時コンスタはといえば、ちょうどキュリクスに新設されたばかりのさまざまな源泉が楽しめるという『スーパー銭湯』に大ハマりしており、二晩も三晩も家に帰らず、そこに泊まり込んで温泉三昧の生活を送っていた。そしてシュタドラにいたっては、本当に小都市レマンへの演奏旅行へと旅立っており、このキュリクスには不在だったのだ。


 部屋には完璧に調律されたチェンバロと、主を失った無数の五線譜。そして彼を最後まで追い詰めた小切手だけが朝の光に虚しく照らされていたのだった。


 *


 夫の急逝により、あまりにも突然に寡婦となってしまったコンスタ。しかしそんな彼女を待っていたのは、悲しみに暮れる時間さえ与えないほどの世間からのバッシングであった。


「温泉三昧で夫の看病を放ったらかしにした挙句、最期の死の目にすら立ち会わなかった悪妻」


 街の噂は瞬く間に歪められて広がり、ついには『これは保護責任を遺棄した結果の致死である』として領主ヴァルトア伯へ直訴の告発状を送りつける過激な者まで現れたのだ。ただの民事の揉め事ならいざ知らず、刑事罰を求める正式な告発状が届いてしまっては領主館としても司法の体面を保つためにも、表向きは積極的な捜査に動かざるを得ない事態へと追い込まれてしまったのだ。


「ねぇ“カリエル君”。この案件、ただの不条理な言いがかりだからって突っぱねて告発不受理にしたら大変なことになるわよ?」


 領主館の文官執務室。車椅子の文官長トマファを通名で呼ぶのは、今はヴィンターガルデン家の文官であり、同時に弁護士資格をも有する才女ハルセリアであった。その日の窓口担当だった彼女の手には何通もの分厚い書状が握られている。その内容たるや、見事なまでにすべてが『悪妻コンスタを厳罰に処せよ』という怒声の羅列であった。しかも差出人の欄にはキュリクスでも名だたる大店商家やギルド長の御婦人マダムたちの名前ばかりが並ぶ。


 彼女たちは平日の昼間から温泉を楽しんでいたコンスタに対して『平民の専業主婦のくせに、朝から晩まで温泉三昧だなんて不謹慎極まりない。もっと身を粉にして家事をやるべきだ』と、かねてより陰口を叩いていた面々だった。それだけではない。彼女たちの書き連ねた告発状の行間からは、読む者が顔を顰めるほどの悍ましい本音が透けて見えていた。


『労働者階級の、しかも“河原貧乏”上がりの小娘が自らのを弁えずに中産階級や上流階級の人間と同じように優雅に振る舞っているのが気に入らない』


 受理したハルセリアもそれを手渡されたトマファも、書面から漂う強烈な特権意識と差別感情を痛いほどに感じ取っていた。要するに有閑な午後を愉しむ自分たちの世界に舞い込んできたコンスタという異物というものを、天才の死をきっかけに正義の面を被って大爆発させ、排除しにかかったのだ。


 かと言ってハルセリアの指摘通り、十分な審議もプロセスも踏まずに「不受理」として突っぱねれば、街の経済を牛耳る有力者たちの妻たちの怒りの矛先は確実に『悪妻を庇う領主館』へと向くだろう。ただでさえ新産業の育成でデリケートな時期に、無用な内政の混乱は避けたい。


「……まずは法に則り、コンスタ女史にこちらへの任意出頭を願い出るしかないね」


 トマファは小さくため息をついた。ヨハンネの死因が急性の感染症である以上、彼女の留守と死亡の因果関係など認められるはずがない。どう考えても保護責任者遺棄致死罪などには該当しないと承知しているからこそ、この悪意に満ちた泥仕合に付き合わねばならないトマファの心はすこぶる重かった。


 ちなみにその一方でキュリクス西区──労働者階級が多く、職人たちがひしめき合うエリアではヨハンネの死や妻コンスタに対する恨み言は見事なまでに【ゼロ】であった。


 生前のヨハンネが引き起こした凄まじい問題行動──深夜に卑猥な下ネタを大音量で絶叫する、生活音がうるさいなど──に対し、実害を被って正式に騒音訴訟を起こした過去はあるものの、西区の者たちは心からヨハンネの音楽を肴に酒場で楽しんでいたのだ。


「あの騒動屋、とうとう逝っちまったかい。……やかましい男だったけど、あいつのチェンバロは最高だったよな」

「残されたコンスタちゃん、可哀想にねぇ……」

「夜中に『チ●コぉ!』と叫ぶのには辟易としたがなぁ」


 西区の人々は稀代の天才の早すぎる死を悼み、そればかりか未亡人となったコンスタへお悔やみの言葉を贈って彼女の心を支えていたという。東区の気取ったマダムたちが正義の仮面を被って嫉妬を燃やすなか、人間の情というものを知っていたのは彼女たちが「労働者階級」と蔑んだ西区の住人たちであった。



 数日後、領主館の出頭要請に応じて部屋に現れたのは、当事者のコンスタではなく彼女の代理人として雇われた一人の弁護士であった。その男は一言ふた言喋るのにも酷く遠回りで、非常に回りくどい独特の口振りをしてはいたが、本件が『保護責任者遺棄致死罪』にいかに該当しないかを澱みない法律論でトマファとハルセリアの前に突きつけ、あっさりと喝破してみせたのである。


 彼が展開した、非の打ち所がない弁論の要約は以下の通りであった。


「第一に、コンスタ女史は夫ヨハンネ氏に対し、生前より再三にわたって『仕事を控えて休養するように』と強く訴えており、看病の意思は明白でした。確かにヨハンネ氏の死因は流行病ですが、彼は自身の足で公立診療所へ赴き、しかるべき薬を処方されています。その際、診療所の医師から『きっと数日で快復しますよ』との太鼓判を得ていたのですから、医学的知識のないコンスタ女史が夫の急激な重症化や死亡を『予見』することは極めて困難であり、安心して温泉の湯治へ出かけた行動に法的瑕疵はありません」


「第二に、仮に彼女が家で看病していたとしても本件は『予期せぬ病状の急変』であります。ヨハンネ氏はチェンバロに突っ伏した状態で発見されており、これは亡くなる直前まで極めて精力的に作曲活動を行っていた証左です。すなわち、これほどの急変であれば仮にコンスタ女史が自宅に居たとしても、素人たる彼女の力で死亡を防ぐことは不可能──法的には『不可抗力』と呼ぶほかありません」


「第三に、告発状に書かれていた『ヨハンネ氏が死の直前まで過酷な労働に縛られていた』という点ですが、これは彼自身が『小切手の取引システム』について致命的に無知であったため、勝手に恐怖して断らなかったに過ぎません。それにコンスタ女史が無理やり仕事を取ってきて押し付けた事実など皆無です。現に、彼は気の乗らない仕事……例えばとある男爵令嬢から依頼されたピアノ練習曲の譜面など、過去に自分が発表した楽曲をちょいちょいと使い回し、楽譜の余白にデカデカと『あほくさ』と書き殴る程度に精神的余裕すらあったのです。彼の死は痛ましい『不運の連続』の結末であります」


「それであってもなお、世論に流されてコンスタ女史に保護責任者遺棄致死罪を適用されるとおっしゃるのなら……今後、病院で入院中の患者や、養老院の利用者が不意に急死を遂げるたび、その場に居合わせただけの看護師や介護士を、片っ端から遺棄致死罪でしょっ引くつもりですか?」


「天才音楽家ヨハンネの死という劇的な悲劇が起きたからといって、妻としての義務をきちんと果たしていたコンスタ女史にその全責任を押し付けるのは、近代刑法が掲げる大原則──『自己責任の原則』に対する明らかな挑戦であります」


 ──完璧な法律論であった。


 トマファとハルセリアはこの回りくどい天才弁護士の反論を調書に纏めて署名し、今回の告発を正式に「不受理」と決定した。本来であれば領主館側が市井の人間に対して『告発状不受理の正当理由』を事細かに開示・交付する義務はなく、そこまでする義理もない。だがトマファはこの弁護士の許可を得た上で、彼が提示した完璧な反論を、そのままキュリクス三紙(日刊キュリクス・キュリクス日報・キュリクススポーツ)へ叩きつけるかのように発表した。


 事実に基づかない感情論で吠え立てる街の上流・中産階級の気取ったマダムたち。彼女たちの傲慢な口を完全に黙らせ、領主館への飛び火を防ぐには、この「近代刑法による説明」こそが最も美しく妥当な解決策であると文官長トマファが判断した結果であった。


 *


 ヨハンネがキュリクスの共同墓地へと静かに埋葬され、すべての葬儀一切を終えた後もコンスタはあの元倉庫の家を引き払うことなく、そのまま住み続けることにした。夫が命を散らすその瞬間まで向き合っていたチェンバロも、二人が寄り添って数々の夜を明かしたソファも、すべてあの日のままの場所にある。……ただ一つ違っていたのは、主を失ったはずのその家が以前にも増して騒がしく、そして活気に満ちた場所へと変貌を遂げていったことだった。


 一人きりになったコンスタが生きていくためには自らの力で金を稼がなければならない。幸いなことに彼女には世間がまだ知らない才能が眠っていた。


 ──『声楽』である。


 実はコンスタ、かつて宮廷楽師を務めていた高名な実父や叔父に師事し、幼い頃から高度な声楽と楽典を完璧に叩き込まれた才女であった。ヨハンネと出会って結婚するまで周辺諸国の宮廷や歌劇場を渡り歩くといった、当代随一のソプラノ歌手として華々しく活躍していたのである。


 つまるところ、キュリクスのマダムたちは彼女の飾らない様子だけを見て『労働者階級の河原貧乏』だと排外的な視線を送っていたが、真実は真逆である。コンスタこそが生まれも育ちも東区の成金たちなど足元にも及ばない、本物の上流階級のお嬢様だったのだ。そしてもしヨハンネにあの下品で破滅的・刹那的な性格で、トランプ博打による狂った散財癖がなかったならば、彼の稼ぎだけででも東区の豪邸に居を構え、何不自由ない資産家として暮らせていたはずであった。


 しかしコンスタは、自由奔放に生きる夫のスタイルにあれこれと口を挟むことは決してしなかった。もし彼女が世間の常識を振りかざし、ヨハンネの意思を捻じ曲げるような真似をしていれば、彼の音楽ビジネスはあっという間に破綻していたか、あるいはストレスに耐えかねた彼から離婚を突きつけられていたに違いない。彼女は夫の天才を守るため、敢えて「呑気な専業主婦」として寄り添い続けていたのだ。


 街の辻音楽師たちは当然ながらコンスタのその恐るべき美声を知っていた。だからこそ生前のヨハンネに対し、「奥さんをぜひ僕らの楽団のメインボーカルにスカウトさせてくれ」と何度も熱烈な打診を繰り返していた。だがそのたびにヨハンネは、照れくさそうに頭を掻きながらこう断っていたのである。


『いやぁ、ダメだよ。彼女はさ、今は専業主婦として、のんびり自由な毎日を楽しんでるみたいだから。……できれば、そっとしておいてあげてほしいんだよね』


 それが天才が愛する妻に遺した、不器用で、けれど最大限の優しさに満ちた配慮であった。


 ──そして、ヨハンネが亡くなった今。生活費を稼がねばならないコンスタの懐事情、彼女の元に残された大人数が余裕でひしめき合える広い倉庫の家、そしてヨハンネが完璧に調律し続けた上質なチェンバロ。これだけのピースが揃って、辻音楽師たちが動かないはずがなかった。


「コンスタさん。ヨハンネのチェンバロとあんたのその極上のソプラノを、どうか僕たちに貸してくれないか!」


 いつしか彼女の自宅には、毎日のように街中の辻音楽師や楽士たちが楽器を抱えて集まるようになっていた。元倉庫の広い空間は、彼らの新たな「練習スタジオ」となり、コンスタの奏でるチェンバロのお茶目な響きと天井を突き抜けるような天使の美声が、ボンボル川の水面へと響き渡る。



 天才は逝った。けれど彼が遺した音楽の種は未亡人コンスタという偉大な歌姫の手によってキュリクスに新たな、そしてもっと力強い、誰もが踊り出すような旋律を咲かせようとしていたのである。


 *


 ──ヨハンネが逝ってから、しばらく後のこと。

 とある町で開催された、大盛況の演奏会での一幕である。


 ステージの中央、楽団の前に立つのは、かつての宮廷歌姫の輝きを完全に取り戻した、豪奢なドレス姿のコンスタであった。彼女のすぐ横には小さなアンティークのテーブルが一つ置かれている。その上にはどこか悪戯っぽく笑う生前のヨハンネの肖像画と一本の火酒瓶。そして琥珀色の液体が注がれたロックグラスが魔導スポットライトを浴びて静かに鎮座していた。


「──ええ、それでね? そこでクラリネットを吹いている我が楽団の『サナダムシ』こと……シュタドラさんがね、こともあろうにヴァルトア辺境伯様から頂いた最高級の火酒を、一人で全部飲み干しちゃったのよ」


 コンスタが茶目っ気たっぷりにステージの端に立つサナダムシを指差すと、客席からは割れんばかりの爆笑が沸き起こった。曲と曲の合間、彼女は生前の夫ヨハンネの破天荒なエピソードを面白おかしく語り、観客たちの空気をこれ以上ないほど温めていたのだ。


「その時、領主様から直々に頂いたのが銘酒『サーグリッド・フォレアル十八年』でした。ですが実は夫も私も、同じ蒸留所が作っている『フォレアル』という銘柄の火酒が大好きだったんですよ。ですから……ええ、少し失礼して」


 コンスタは美しい所作でテーブルのボトルを掴むと、ロックグラスにトトト、と琥珀色の液体を注ぎ足した。ちなみに彼女が今しがたボトルから注いだのはエンノーラ蒸留所から販売されているノンエイジの格安ブレンデッド火酒──酒販店へ行けば白銅貨たった一枚で手に入る大衆酒『フォレアル』であった。


 豪奢なドレスを揺らしながらコンスタは手にしたグラスを客席と後ろの奏者たちへ向けて誇らしげに掲げ、そのまま極上の喉越しを味わうようにグイと一口、小気味よく煽ってみせた。


「ふう……美味しい。良かったら皆様も帰りに酒場で如何です? ──さあ楽しいお喋りはここまで、続いての曲は皆さまお待ちかねの……ヨハンネが遺した不朽の愛の賛歌!」


 歌姫はいたずらっぽくウインクをしてみせると、天井を突き抜けるような、あまりにも美しく澄み渡るソプラノの声でその歴史的迷曲のタイトルを堂々と叫んだ。


「──『俺の尻を舐めろ、隅々までな!』」


 コンスタの合図とともにシュタドラのクラリネットが、そして辻音楽師たちの楽器が狂ったような、しかし最高に楽しげな爆音の旋律を奏で始める。ステージの中心で安酒の香りに包まれたヨハンネの肖像画が、心底満足そうにニヤリと笑ったような気がしたのだった。


 *


 街から街への演奏会で未亡人コンスタが豪奢なドレス姿で大衆酒『フォレアル』を煽ってみせた──。ただそれだけなら下町風味のちょっとした愉快なパフォーマンスだったが、まさか世界を揺るがす巨大な経済の歯車を回し始めることになるとは、当の本人すら予想していなかったに違いない。


 キュリクスから少し離れた緑豊かな広大な農村、クリル村。その村の中心に構えるエンノーラ蒸留所へと続く一本道には見たこともないほどの数の荷馬車が文字通り長蛇の列をなして並んでいた。馬車の手綱を握るのは近隣の町や村を廻る商人だけではない。はるばる国境を越えてやってきたルツェル公国やロバスティア王国の行商人たちまでもが血眼になって列に加わっているのだ。


「ええっ、あなたも『フォレアル』の追加注文ですか!? ですが本当に申し訳ありません、これ以上は予約分までしかご用意できないんです!」


「そこを何とかお願いしますよ、レミリア夫人!」


「ウチの店も山ほどの注文を抱えちまったんだ! 瓶詰めが間に合わないなら、裏の木樽バレルごとそのまま買い取るぜ?」


「お前ずるいぞ! こちらは男爵ラミン卿直々のオーダーなんだ! 頼む、一本でもいいから分けてくれ、首が飛んじまうッ!」


 殺気立つ行商人たちを相手に看板娘よろしく毅然と立ち向かっているのは、この蒸留所へ嫁いできたばかりの若き妻レミリアであった。彼女の左薬指には銀色の環が小さく光る。ちなみに彼女は領主館で騒動ばかりを巻き散らしているメイド隊プリスカの実姉だ。


 彼らがなりふり構わず求めているのは、歌姫コンスタがステージで宣伝しまくった火酒『フォレアル』だった。かつてのフランク・シナトラのように火酒のグラスを片手に極上のソプラノを響かせる彼女の姿は、流行に敏感な者たちの心を完全に撃ち抜いたのだ。


 実際のところ、この『フォレアル』の味わいはこの蒸留所で一般販売している『サーグリッド・フォレアル』に比べると熟成感はない。しかし非常に軽やかで、最初に鼻に抜ける香り(トップノート)は華やかなベリー系の果実香だ。そのあとを追いかけるかのようにフルーティーなニュアンスが鮮烈に弾けるという。水割りやロックにすると滅法飲みやすく、そしてお洒落で何より安い。


 瞬く間にキュリクス領内外で大ブームとなったのは必然であったが……ここで一つ致命的な問題があった。このエンノーラ蒸留所は文官長トマファの実家である。そして数年前、トマファの実父ニルベと不肖の実弟ドロテアが売上を倍増させようと『原料偽装』という最悪の不正を働き、結果として貯蔵庫に大量のダメ酒を量産してしまったのだ。そのツケが回り、現在の蒸留所は深刻な『原酒不足』のどん底に喘いでいるはずなのだが……。


「……わかりました! ですが騒いでもお酒は増えません! 現在、出荷できるバレルの数をこれまでの販売実績に合わせてこちらで【按分】し、大急ぎで瓶詰めします! ですから皆さん列を乱さずに待ってください!」


 帳簿を片手に鋭い観察眼と計算力で行商人たちを捌いていくレミリア。その背後の薄暗い工房では、トマファの実弟ドロテアが、冷や汗を流しながら貯蔵庫の樽を見つめていた──。


 大ヒット御礼、しかし手元の原酒はあと僅か! 果たしてドロテアとレミリアの若夫婦は、この未曽有の『フォレアル・バブル』をどう生き残るのか?


 ──物語の舞台はキュリクスからクリル村へと移り変わる。


 * * *


 ──はてさて、さらにさらにの余談である。


 稀代の天才音楽家ヨハンネが遺した、あの莫大な「借金」はどうなったのかという現実的なお話。


 生前の彼が膨らませた借金は、本来であれば遺産相続人である妻コンスタがすべてを背負うはずであった。しかし彼が抱えていた負債は、生前に銀行家ミトゥの手によって一本化されており、しかも周到にもきっちりと『担保』が設定されていたのだ。


 ヨハンネの死後、銀行家ミトゥは未亡人となったコンスタに「未払いの借金を返済する目途はあるかね?」と尋ねたところ、彼女が実にあっけらかんと「ありません!」と即答した。そのためミトゥは淡々と抵当権行使を実行し、設定されていた担保をそのまま差し押さえる手続きをとったのだった。


 ちなみにこの混乱に乗じて「お前の亭主の借用書だぞ」と未亡人から金を毟り取ろうとした闇金業者どもが湧いたが、コンスタが契約していた例の回りくどい天才弁護士によって叩きのめされている。


 ではミトゥが担保として差し押さえたものとは何だったのか。実はヨハンネが遺した膨大な作品の『楽曲使用料』であった。……いわば音楽著作権である。


 ヨハンネの作曲と言えば、幼少期に書き上げたピアノソナタに始まり、交響曲、協奏曲、数々のオペラから荘厳な宗教曲まで把握されているだけでも約600曲。さらに彼がノリで書き散らした辻音楽師用の俗曲、吟遊詩人へのゴーストライティング、貴族の子女たちが弾くための室内楽曲なども合わせると、その総数は810曲とも、1072曲にも達するとも言われている。


 とはいえ生前のヨハンネは極めて雑な性格でひらめいた旋律を譜面に走り書きする癖があったため、そのまま演奏者に送りつけても「暗号のようで読めない!」という苦情が絶えなかった。その悪筆な手書き楽譜を陰で夜な夜な美しい譜面へと清書し、実用可能な形に仕上げていたのが、幼い頃から高度な楽典を叩き込まれていた妻コンスタだったのだ。


 つまるところヨハンネの手書き原譜のほとんどが、今なおコンスタの生家や元倉庫に厳重に保管されている。本来なら借金の担保として『手書き楽譜そのもの』を差し押さえさせれば良さそうなものだ。しかし音楽にてんで疎いミトゥにしてみれば素人が読めない楽譜を握らされるより、世界中で演奏されるたびに転がり込んでくる『楽曲使用料』のシステムを管理する方が、遥かに堅実で旨みがあると踏んだわけだ。


 なおヨハンネの最晩年の交響曲のパート譜、伴奏や内声部分などに至ってはヨハンネの頭の中のイメージを元にかなりの割合をコンスタが代筆していたという噂があり、これについては後日『キュリクス・スポーツ』の紙面にて、


『あの夫婦、どっちが佐村河内守で、どっちが新垣隆なんだい?』


などという悪意に満ちたゴシップ記事で暴露され、領内を大いに騒がせたりもしている。


 何はともあれ、楽曲使用料という【利権】を銀行家ミトゥががっちりと保護し、楽譜の発行権や編曲権という【知的財産】をコンスタが死守したことで、ヨハンネの偉大な楽曲たちが歴史の闇に散逸するということも防げたのだ。これこそがコンスタが『最高の良妻』であった何よりの側面である。ただどうしても「夫の死の目に立ち会わず、優雅に温泉三昧を決め込んでいた」というスキャンダラスな一点のみが殊さら目立ってしまったため、後世の歴史書においても彼女が『希代の悪妻』として歪んで記録されてしまうのは仕方のないことかもしれない。


 ──だが。

 そんな賢明なコンスタの防衛網をすり抜けて、完全に失われてしまった最悪の例外がある。


 ヨハンネが最晩年、心からの親友に愛を込めて書き上げた至高の傑作『クラリネット協奏曲』である。その手書き原譜は、なんとシュタドラが演奏旅行中に飲み代や博打代を使い果たした挙句、あちこちの町の質屋へ行き当たりばったりに質入れしてしまったため、完全に世界中へ散逸してしまったのだ。


 賢明なる読者諸君。

 もしも貴方が、旅先の古道具屋や質屋の片隅でヨハンネの悪筆で書かれた『クラリネット協奏曲』の手書き原譜を見掛けたならば、どうか速やかにキュリクス西区の倉庫に住むコンスタ女史へ返却してあげてほしい。なぜなら現在この世界に残っているその名曲は──当時、彼の演奏を聴いた音楽仲間たちが必死の「耳コピ」で復元した記憶の旋律が元になっており、ヨハンネが本当に伝えたかった『原曲』の真の姿は、未だ誰にも分かっていないのだから。

【 作 者 註 】


・散逸した『クラリネット協奏曲 K.622』


ヨハンネのモデルはご存じの通りモーツァルトで、コンスタはその妻コンスタンツェ、クラリネット吹きの「サナダムシ」もシュタードラーという実在する人物です。


ちなみにモーツァルトの生涯については映画『アマデウス』で有名ですが、どうやらモーツァルトの死因は『溶連菌感染症』だったらしいんですね。今でも高熱や喉の腫れ、全身発疹を起こす流行性の病気ですが、抗生物質投与と充分な休養ですぐ治るそうです。しかし彼が生きてた時代は『瀉血治療』がガチ信仰されてた時代で、高熱ふらふらだった彼からたっぷりの血を奪い、結局それが原因で亡くなったそうです。


『アマデウス』みたいにサリエリが毒殺したわけではないっぽいですよ? まぁ作品内ででもサリエリの独白は誰からも相手にされてないし、史実ではサリエリの弟子イグナーツ・モシェレスのせいで毒殺説が独り歩きしたっぽいですが。


で、散逸したクラリネット協奏曲は本当の話でして、ロシアやポーランド辺りで散逸してるらしいので、誰か探しに行ってみてください(笑) ただ、昔見た『世界まるごとハウマッチ』って番組で、その楽譜が出てたような記憶があるんですよね。……大橋巨泉と島田紳助とビートたけしが出てた番組だったよなぁ、知ってる奴いたらオッサンどころじゃねぇぞ!?


(その『まるごとハウマッチ』に似た番組が21世紀になって『バリバリバリュー』って名前で復活してた記憶、しかも司会が島田紳助だったっけ)

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