3 狩人オリオン
それからアルテミスはゼウスに会おうとしたが、連絡がつかなかった。
「パパが逃げてる……」
自宅の部屋でニンフからの報告を受け、むっとした顔でアルテミスは言った。
「もういい、パパの許可なんていらない!」
自棄になったように言い、アルテミスはオリオンに触れると、その服を脱がそうとする。
「だ……、ダメだ。ちゃんとゼウスから許可をもらって、それから……」
オリオンは服を必死に押さえる。
「オリオンは私としたくないわけ?」
アルテミスはますます不機嫌になった。その顔はどことなく双子の兄に似ている。
「そんなわけないだろ……。俺だって……」
消えそうに小さな声だった。
「もういい!」
アルテミスはそう言うと、弓と矢を持つ。
「狩りに行くのか?」
弱々しく聞くオリオンに、
「そう!」と乱暴に言い放つ。
「じゃあ、俺も……」
と言うオリオンに、
「ついてこないで!」
ピシャリと言い、アルテミスは出て行ってしまった。
***
アルテミスに置いて行かれたので、オリオンはひとりで狩りに来ていた。
(あんな顔、させるつもりは、なかったんだが……)
アルテミスは怒っていたが、悲しそうな目でオリオンを見ていた。
せめて狩りでアルテミスを喜ばせようと、懸命に獲物を探す。しかし、なぜかこの日に限って出会わなかった。そういう日もある。けれど、オリオンはいつになく焦ってしまった。
狩りの女神は立派な獲物を捕らえれば、喜んでくれるとオリオンは考えた。オリオンはアルテミスの笑った顔が好きだった。もちろん、アルテミスならどんな姿でも良いのだが、彼女に笑ってほしかった。だから、オリオンは焦ってしまった。
(森から出て、海でも行くか……)
オリオンは海神ポセイドンの息子である。海の上を歩いて渡ることもでき、森では捕まえられない獲物を捕らえることもできる。
(たまには、海の幸もいいかもしれない)
それはすごくいいアイディアに思えた。
オリオンはアルテミスに笑顔になってもらいたかった。自分が捕えた獲物で笑ってくれたらそれがどんなに嬉しいかわからない。
オリオンはどんどん進んでいく。
森の終わりに向かって。
森を抜け、しばらく行くと海に出た。 海に来たのは久しぶりで、というか森を出たのが久しぶりだった。
(前に来たのはいつだったか……)
オリオンは波打ち際に行き、海に身を沈める。海の水は、よく来たとばかりにオリオンの体を包み込み、その体内に入れるかのように、波が沖へと連れていく。
(ああ……、落ち着く……)
仰向けになり、顔だけ出して、穏やかな波の海にたゆたっていた。
(あと、少し、もう少しだけここにいて、そして、アルテミスの元に帰ろう)
オリオンは、そう思い、目を閉じた。
(海は好きだが、俺はアルテミスのことを愛している。だから、俺が帰るのは、アルテミスのところだ……)
そんなことを思いながら。
***
(なんであんなこと言っちゃったんだろ……。オリオンの方が正しいのに……。でも、はやくオリオンと一緒になりたかったんだ……)
アルテミスはニンフたちを遠くに行かせ、森の泉の縁に座ると足だけつけてぼんやりとしていた。
背後から聞こえた、コツンという足音に、
「オリオン?」
と顔を輝かせて振り返る。
「あの阿呆と間違えるでない」
アポロンだった。オリオンに間違えられ、かなり不満そうな顔をしていた。
「あ……、ゴメン……」
と、アルテミスは本気で謝った。
アルテミスの気持ちは、さらに沈んだ。オリオンにひどいことを言ってしまった上に、大事な双子の兄と間違えてしまった。アポロンにもオリオンにも申し訳ないと思った。
アポロンはアルテミスの顎を持ち上げ、後ろからキスをした。
「お前は私のものだよ」
美しい太陽神は、愛しい月の女神に微笑みかけた。
けれどアルテミスは、
「もうダメだよ。私はオリオンのものにならなきゃ……」
そう言って、アポロンの抱擁から逃れた。
アルテミスに拒否されたアポロンは、冷たい顔で笑った。
「気晴らしになればよいと思ったのだがな」
アポロンは妹に笑いかける。
「アポロンの気晴らし、おかしいし」
クスクスとアルテミスも笑った。久しぶりに笑ったような気がした。
「ならば、弓の腕前を試してみぬか?」
爽やかに太陽神は言った。
「なにそれ」
アルテミスの目がキラキラと輝く。
「私が難しい的を用意しよう。お前がそれを射るのだ」
アルテミスの機嫌を取るかのように、アポロンは笑っていた。
「難しい的? ちょっとやそっとの的なら外さないよ」
アポロンの挑戦に、アルテミスは喜々として答えた。
「オリオンとくだらない逢引きばかりして、鍛錬を怠っているであろう?」
「確かにサボってはいるけど……」
「お前は愚かな女に成下がっているのではないか?」
兄の言葉に、アルテミスは不敵な笑みを浮かべる。
「それは聞き捨てならない」
と、生き生きと立ち上がる。
「違うってことを、証明してあげる」
狩りの女神は凛々しく言った。
「そうしてくれ」
アポロンはアルテミスと同じように笑った。
***
そして、アポロンは、アルテミスを森から一番近い海まで連れてきた。砂浜ではなく崖の上で、眼下に青い海が広がっていた。
「こんなとこまでくる必要とかってあるわけ?」
兄に言われるままについてきて、一面の青い海を見ながらアルテミスは言う。
「お前に面白い獲物を与えようと思ったんだよ」
アポロンは綺麗な笑みを浮かべていた。これ以上ない程、美しい笑顔だった。
「面白い獲物?」
見慣れているアルテミスは、それが特別だとは思わなかった。
「ほら、あれだ」
アポロンが指さす方、沖の方に、何かがある。けれど、太陽の光がまぶしくて、それが何だかわからない。
「けっこう遠いね」
アルテミスは背中の矢筒から矢を取る。だいたいの場所がわかれば、アルテミスなら命中させることができる。
「お前にあれは射れぬであろう」
アポロンは綺麗な顔でそう言った。
「何言ってるわけ? これくらいの距離なら楽勝だよ」
好戦的にアルテミスは言った。
「ならば射てみよ」
けれど、いつになく太陽の光が眩しくて、それが何かを確認することはできなかった。
(見えなくても、だいたいの場所はわかるから難しくないのにな)
アルテミスはそう思いながら、弓に矢をつがえ、アポロンの示すものを狙う。
(あれ?)
なんだか嫌な予感がした。
「どうした? 射れぬか」
アポロンの声がする。
(アポロンが言うんだから、射らなきゃ……)
そう思い、矢を引き絞るが、射てはいけないような気がした。アルテミスは弓を下ろす。
「ねえ、アポロン、あれは……」
そう言いかけてアポロンを見ると、彼は金の弓に矢をつがえていた。とても美しいフォームだった。
アルテミスがそれに見惚れていると、アポロンが矢を放った。
「え?」
矢は放物線を描き、アルテミスに示していたものに向かっていく。
「アポロン?」
瞬く間もなく、それは命中した。アルテミスは兄を見つめる。
「ねえ、あれは何? 何を射たの?」
不安な思いを抱え、アルテミスは兄にすがりつく。
アポロンは、冷たい瞳で彼女を見つめていた。
***
波打ち際に、物を言わなくなったオリオンの姿があった。
「オリオン! オリオン!」
アルテミスはそれを抱きしめ、泣き叫ぶ。
「なんで! どうしてこんなことを?」
彼女は兄を責めた。アポロンは、先ほどからアルテミスを見つめ続けていた。
「大切なアルテミス、こちらへおいで」
アルテミスは涙を拭き、オリオンを置くと兄の元へ向かう。手の届くところまで来ると、アポロンはアルテミスを抱きしめキスをした。
「いや! やめて! アポロンのバカ!」
思いの限り、アルテミスは叫んだ。
「バカはお前だ」
荒げることのない、アポロンの静かな声。しかし、怒りが伝わってくる。いつもは優しい兄が、怒っている。アルテミスは、言葉が出てこなかった。
「お前は、私のものだと、何度言ったらわかるのだ?」
今まで感じたことがない、恐怖。アルテミスは首を振る。
「幼いころから、純潔を守れと言い聞かせてきたのに……」
アルテミスは思い出した。自分がなぜ、父にそれを願ったのかを。
彼に言われたからだ。誰に抱かれてもいけないと、生まれる前から言われていたからだ。
アルテミスは逃げようとするが、逃げられない。
「やめて……、オリオン、助けて……」
しかし、もう恋人は彼女に触れることもできない。
***
夜も更けていた。
仰向けになって見えた空に、星が輝いている。
アポロンは、オリオンの遺体の前にいた。アルテミスは岩の上に横たわり、生気のない目でそれを見ていた。
アポロンが手をかざすとオリオンは消え、天に昇る。それができるのは大神ゼウスだけだった。けれど、アポロンもそれをやってのけた。
こん棒を構え、狩りをしているオリオンの姿。アルテミスがいつも間近で見ていた姿が、大きな夜空に見えていた。
「オリオン」
大きな大きな星座ができた。大きいだけでなく、輝きも他の星座より強い。
「オリオン……」
目に涙を浮かべ、手を伸ばすが、もう届くことはない。
アルテミスの目からその星座を遮るように、アポロンが戻ってきた。天に伸ばしたアルテミスの手を握りしめる。
「お前が悪いのだ」
引き寄せながらアポロンは言った。アルテミスの瞳から涙がこぼれる。
「ごめんなさい……」
弱い小さな声。
「わかっているのなら、よい」
アポロンは、アルテミスを抱きしめる。
「お前は、私のものだ」
「うん……、ゴメン……」
オリオン……
私が好きにならなければ……
「何を考えている?」
アポロンがアルテミスに聞く。
「パパに、怒られちゃうよ……。純潔の女神なのに……」
アポロンは、アルテミスの白い足に触れ、太ももの内側にそっと口をつける。
「そんなもの、私が蹴散らしてくれよう」
「アポロンは、パパが怖くないの?」
「老害のエロジジイの何を恐れろと?」
アルテミスはそれを聞いて、クスっと笑った。
「アポロンはパパのこと、怖くないんだ……」
オリオンは大神ゼウスを畏れていた。
「お前を愛するためなら、ヤツを倒すこともいとわない」
キスをして、肌と肌を重ねる。
「やめてよ、それ……」
小さく、でも強く、彼女は言った。
「何がだ?」
「パパを倒すなんて……、アポロンとパパが戦うなんて、嫌だよ……」
アルテミスが流す涙を、アポロンはぬぐった。
「もう……。こんなこと、しないで……」
アルテミスは辛そうな顔で、涙を流す。いくらアポロンがぬぐっても、後から後からこぼれていく。
「お前しだいだ」
そう言って、アルテミスの髪を強い力でかき上げる。
「私?」
アルテミスはアポロンを見つめる。
「お前は私だけを見ていればよいのだ」
何も見ていない瞳で、アポロンは言った。
アルテミスはほんの少しの間だけ目を閉じ、そして、アポロンを見つめた。
一瞬で、彼女の迷いが消えていた。
「わかった……」
きゅっと唇を噛みしめ、そして、唇を重ねる。
「なぜ、そんなことを言うのだ?」
「何が?」
「『わかった』など……。お前は私が憎いであろう?」
そう言いながら、優しく愛撫する。
「どうして?」
アルテミスがアポロンを押し倒す。金色の髪が、サラサラと前に落ちてくる。
そして、自らキスをする。
「私がお前から愛する者を奪ったからだ」
アポロンは辛そうな顔をした。
「私が愛しているのは、あなただよ。憎むなんて、できない」
無機質な目で、アルテミスは言った。
「口では何とでも言える。お前はそうやって、私から周囲の者を守ろうとしているのだ」
「違うよ……、本当に……」
「違わないさ……。それがわかっているのに、お前を嫌うことができない……」
アポロンは苦しそうな顔でアルテミスに触れる。
「お前が欲しくて欲しくてたまらなくなる」
そう言い、強く抱きしめ、キスをする。
「他の者など、いくら傷つけてもいい。お前をこの手で抱くためなら……」
アルテミスはそんな兄を、愁いを含んだ眼差しで見つめ、優しく受け止めた。
「お前は自分を犠牲にしても、周りの人間を守ろうとする……」
それが耐えられないかのように顔をゆがめる。
「だから、私に抱かれるのだ……」
アルテミスよりも、辛そうにアポロンは言った。
「大好きなアポロン。あなたになら、何をされても構わない」
首を傾げ、いつものように柔らかな笑顔を兄に向ける。
「私は……、あなたに……」
泣きそうな顔で微笑んで、アルテミスはアポロンを見つめた。
「あなたは、頭がいいから、考えすぎて、おかしな方向に行っちゃう」
アルテミスは唇を重ねる。
「愛している、アルテミス。生まれるずっと前から……」
アポロンは、その誘惑に抗えず、アルテミスを抱きしめた。
「私も……、あなたを愛している……。本当に、愛してる……」
悲しみにくれながら、アルテミスは言った。
アポロンは、アルテミスの言うことを、信じることができなかった。
(こんなことをしてしまった私を、愛せるはずがない……)
それがわかっていながら、アポロンはオリオンを殺してしまった。
アルテミスの後ろで、オリオン座が輝いていた。
アルテミスを愛してやまない男の成れの果ての姿。
アポロンはそれを見るたび、苦しみを味わうことになるのだろう。
それでもアポロンはアルテミスを欲した。ダメだと思えば思うほど、彼は彼女を求めた。
「お前は、私のものだ……」
その言葉が、むなしく響くような気がした。
「うん……。私は、あなたのものだよ……」
彼女にそう言われても、心がやすまることはなかった。
二人は満天の星の下で、
《終》