2 幸せな恋人
窓は開け放たれ、外には優しい緑があふれている。
心地よい風が通り、そこは光に満ちた場所だった。
森にひっそりとある家の、一番奥の部屋にある長椅子で、アルテミスは眠っていた。朝方にオリオンと狩りに行き、森と動物たちの様子を見て、昼過ぎに帰ってくると、うたた寝をしてしまった。
昼の光が女神を照らし、白い肌が輝いていた。
恋人のオリオンは、腕を組んで彼女の部屋のドアに寄りかかり、愛おしそうに、無邪気に眠るアルテミスを見つめている。小さく聞こえる彼女の寝息を聞きながら、
オリオンは、その姿を永遠に見ていたいと思った。
アルテミスは他の神々のように、豪華な宮殿に住んではいなかった。神々の住まうオリンポス山に彼女の立派な家もあるが、そちらにはめったに行かず、森になじんでいるこぢんまりとした家に恋人のオリオンと暮らしていた。
彼女が寝返りをうち、うっすらと目を開けた。気だるそうに起き上がると、ドアの方に視線を向ける。
「オリオン……?」
小さく、自分を呼ぶ声がして、オリオンは、そっとため息をつく。永遠に続けばいいと思っていた時間が終ってしまった。
「起きたか?」
少し残念そうな顔をした。けれど、まったく嘆く必要はない。数歩あるけば、愛しい恋人の元へ行けるのだから。
「ん……、寝ちゃった?」
寝ぼけた顔で、自分のところへやってくる恋人を待っている。
「疲れているのだろう。キミは働きすぎだ」
長椅子に座り、寄りかかって来るアルテミスの肩を抱く。そして、自分を見てこぼれるような笑顔になる恋人を、オリオンは眩しそうに見つめた。
「この後、月の運行を見に行かないと……」
疲れたように言い、アルテミスは体を起こす。
「まだ時間があるだろう? しばらく俺に寄りかかっていろ」
オリオンの言葉に、アルテミスは驚いたような顔をした。
そして、「うん」と嬉しそうにうなずくと、オリオンの肩に寄りかかる。オリオンはアルテミスを抱き寄せる。
しばらく黙って座っていた。
けれど、アルテミスがそっとオリオンを見上げる。
「ねえ、着替えてもいい?」
邪気のない、子供のような瞳だった。オリオンはドキっとした。
「え? あ、ああ……、そうか。この後は着替えねばならないのだったな」
慌てたようにオリオンは言う。月の女神の時は、丈の長いキトンを着ることが多い。
「じゃ……、じゃあ、俺は部屋の外に出ているから、着替えが終ったら呼んでくれ」
そう言って、立ち上がろうとすると、アルテミスはオリオンの腕に触れる。
「行かなくていいよ。オリオンは私の恋人だもの。ここで待っていて」
「こ……、ここで?」
「そう、ここで」
穏やかだが断れない口調でそう言うと、アルテミスはキトンを脱ぎ捨てる。照れも恥じらいもなく、着ていた服が床に落ち、彼女の白い肌が陽の光にまぶしく輝いた。
彼女の形のよい足はとても綺麗で、オリオンはそれに触れたいと思うが、その願いはいまだ叶えられずにいた。
(スレンダーボディも、悪くない……)
アルテミスを見て、オリオンは自然に思っていた。
オリオンは女性に言い寄られることも少なくない。しかもそういう女性は、オリオンとの関係が発覚すると、だいたい大男のオリオンを悪者にする。
そして、オリンポス十二神ではないオリオンは立場が弱く、大男で女好きというレッテルを貼られてしまった。そういうことをする女性のほとんどが、豊満な胸を持っていた。すべての巨乳がそうだとは言わないが、オリオンは豊満な胸に恐怖を感じていた。
(アルテミスなら、どっちでも……)
そう思ってハッとする。自分の邪な考えが恥ずかしくなった。
(アルテミスは、俺の大事な恋人。しかし、恋人であることが奇跡のような存在だ。俺なんかが軽々しく触れて良い相手ではない)
オリオンがボーっとしてアルテミスを見ていると、アルテミスはオリオンににっこりと笑いかけた。
(かわいい……)
オリオンは直視に耐え兼ね、横を向いた。
アルテミスはそれを無言で見つめる。
(深い意味は、ないのだろう)
オリオンは自尊心を目いっぱい働かせアルテミスから目をそらした。
(アルテミスは、まだ寝ぼけているのかもしれない。この思い切りの良さは、まったくもって誘っているアレではない)
未婚でお年頃の女神が、何も着ずに自室を歩いている。他意があるようには見えなかった。元気な子供が走り回っているような感じだ。
(勘違いをして襲って嫌われでもしたら、立ち直れる自信がない……)
アルテミスはその美しさから、求婚したいと望む男は星の数ほどいる。けれど、恐ろしい目に遭いたくないので皆それを断念していた。
アクタイオンという若者は女神の裸を見ただけで、50匹の飼い犬に食い殺された。オリオンが恋人になれたのは奇跡だと言われている。
噂では、男が嫌いで見ただけで攻撃してくる女神だと言われていた。けれど、会って話すと、持っていたイメージと全く違っていた。
アルテミスはオリオンを恋人と言い、オリオンに優しく接した。
(男を憎んでいるようには見えない。それとも俺だけは例外なのか?)
そう思って、慌てて首を振る。
(アルテミスは、誰にでも優しく振る舞うから、そう思えるだけだ……。俺が特別なわけではない)
オリオンが見ていたアルテミスは、生きとし生けるもの全てに愛情を注いでいた。
掴もうとしてもつかめない、月のような存在。オリオンは、アルテミスがあまりにも愛らしく、あまりにも無邪気で、自分が触れると、その顔が恐怖に歪んでしまうのではないかと思ってしまった。
過去に何度かそういうことがあった。オリオンは、神々の中でも大きい姿をしている。狩りのしかたもこん棒でガンガン殴るので、弓で獲物を射るアルテミスのように優雅とは言い難い。
アルテミスならそれでも受け入れてくれるとは思っているが、恐怖を与えてまで、自分の欲望を満たしてしまってもよいのかわからなかった。
(アルテミスに嫌われたら、どうしていいかわからない。彼女は純潔の女神。男をそういう目で見ていないのかもしれない)
「オリオン」
銀の鈴を鳴らすような声でアルテミスが呼ぶ。オリオンはアルテミスを見上げた。
そこには真新しい踝までの女神らしいキトンを着たアルテミスがいた。胸元の白い襞は彼女を輝かせる。
肌を出していた時は子供のように愛らしかったが、踝までのキトンを着ると、崇拝するのにふさわしい女神になった。
「綺麗だよ、アルテミス」
オリオンはホッとしたように言った。すると、アルテミスは不機嫌な顔をして隣に座る。そして不機嫌な顔のまま、何も言わない。
「俺は……、口下手で……、もっとアルテミスが喜ぶような言葉が言えればいいのだが……」
機嫌を損ねたことの言い訳をした。けれどアルテミスはムッとした顔をしている。
「ねえ、私って、魅力ない?」
しばらくして彼女が言った言葉がそれだった。
「アルテミスが魅力ないなど、どこの誰が言ったんだ?」
オリオンは癇癪を起したように言った。体が大きいので彼は声も大きい。それに驚く神々も少なくはない。
「だって、私が誘惑しても、オリオン、ちっとも嬉しそうじゃない」
「誘惑?」
オリオンは首を傾げた。愛らしかったが、『誘惑』という言葉は合わない。太陽の光の下、健康的に走り回っていた。
「オリオンは、やっぱり私のこと、キライ?」
悲しそうにアルテミスは言う。
(こんなに好きなのに、どうしてそんなことを思うんだ?)
オリオンにはアルテミスがそう言う理由がまったくわからなかった。
「いや、でも、さっきのは着替えていただけだろ?」
「違うよ」
ムッとしたようにアルテミスは言った。
「裸で歩く恋人を見て、なんかしようとかって、思わないの?」
拗ねたようにアルテミスは言う。
「そこを襲うなど、してはだめだろう?」
建前をとりあえず言う。
「……オリオンならって、思ってた」
「いや……、そうは言っても……」
オリオンは混乱した。
「無理してるのかなって……。私が強引に「恋人になろう」って言っちゃったから……」
アルテミスは悲しそうにうつむいた。
「ポセイドン伯父様に言われて、無理にここに来たみたいだし……」
オリオンの父ポセイドンはアルテミスの伯父に当たり、月と海で何かと親交もある。
たしかにオリオンはポセイドンに
「アルテミスのところへ行け。お前を受け入れられるのは、あの娘しかおらん」と言われて来た。
はじめはオリオンも
(純潔な月の女神など、どうせキイキイ騒ぐヒステリー女に違いない)
と思っていたのだが、
初めて会ったアルテミスは、
「あなたがオリオン?」
と、とても愛らしく微笑み、オリオンは一目で恋に落ちた。
言葉を交わしても、
(なんて純粋で清らかで美しい女神なんだ……。しかも、美しいだけではなく、愛嬌もあって可愛いって、すごすぎだろう?)
と思った。
オリオンが今まで会った女性が違う生き物ではないかと思えてしまう程だった。
しかし、無骨なオリオンは、それを表現するのは苦手だった。
「やっぱり、私みたいなのは、キライだよね」
アルテミスは悲しそうに言った。
「女らしくないし、みんなに好かれてかっこいいオリオンの恋人が私だなんて、恥ずかしいよね」
そう言って、泣きそうな顔でアルテミスは微笑んだ。
「ちがう! 俺は、お前のことが、好きだ」
オリオンはたまらず叫んだ。それを聞いたアルテミスはびっくりして彼を見つめた。
「あまりにも愛しすぎて、頭がおかしくなってしまいそうだ。俺が触れたら、お前を壊してしまうんじゃないかと……」
そう言って、オリオンはうつむいた。そんなことを言うつもりはなかった。けれど、悲しそうにしているアルテミスを見たら、思わず言ってしまった。
「何それ? 私は壊れたりしないよ」
アルテミスはそう言って、クスクス笑った。
「その……、みな、俺のことを恐れるのだ。体が大きく、力が強いから……」
大男が、体を小さくして、ほとんど聞き取れないくらい小さな声で。
「体が大きくて強いのは、自慢することだよ。それを怖がったらダメだよ」
アルテミスはそう言ってオリオンを抱きしめた。温かく、安心できる抱擁だった。
「そんな軟にできてないから。体力あるし。いつも一緒に狩りに行ってるから、わかるでしょ?」
オリオンに触れ、愛らしい女神は言った。
「アルテミス……」
やはり彼女には敵わないとオリオンは思った。他の女性とは違い、自分を受け入れてくれる女神。
「私は壊れないよ。オリオンを嫌ったりもしない」
アルテミスは綺麗に微笑んだ。
「い……、いいのか?」
アルテミスはコクンとうなずく。
「アルテミス……」
オリオンは、大切に大切に、恋人を抱きしめた。怖くならないように、幸せな気持ちになれるように。
そっとそっと、想いを込めて。
「オリオン、大好き」
幸せそうにアルテミスは言った。
「俺も、お前のことが……」
オリオンはアルテミスにキスをした。
はじめて直に触れる、華奢な身体。オリオンは長椅子に横たわったアルテミスのくびれたウェストを、そっとなぞった。
アルテミスは「んっ!」と声をもらし、身もだえしていたが、
「あ……」と言って一瞬、アルテミスの動きが止まった。
感じているというより、何かを思い出したようだ。オリオンはビクっとして、固まった。
「ど……、どうした? 嫌か? ホントは嫌なのか?」
体を起こしてオリオンが聞いた。
「ううん。そうじゃないんだけど……」
眉を寄せ、困ったような顔をしている。
「い……、嫌ならやめるぞ……?」
オリオンは弱々しく言った。
「オリオン……」
アルテミスは恋人の言葉を聞いて呆れたように言い、そして、クスクス笑った。
「お前を、傷つけたくないんだ。俺は……、もちろんしたいが……。お前が少しでも嫌だと思うなら……、俺は……」
「ごめん。なんでもないよ」
しょんぼりしている恋人を見て、ますますアルテミスは楽しそうに笑う。
「謝らなくてもいい。俺は、お前が……」
「私は嫌じゃないから」
「でも、何か気になることがあるんじゃないか?」
オリオンの脳裏に、チラッとあのアポロンの顔が過る。オリオンには忌々しい、にっくきこの愛くるしいアルテミスの兄だ。
ことあるごとにちょっかいを出してくる、医療と音楽と芸術と預言の神で、皆に愛されて頼りにされる太陽神。イケメンなのがますます腹立たしい。
「う~ん」
アルテミスはバツが悪そうな顔をした。
「お前がそんな顔をしているのなら……、しない」
オリオンは苦渋に満ちた顔で辛うじて止まり、アルテミスの黄金色の髪を優しく撫でる。
そんな恋人を見て、アルテミスはくすっと笑った。そして、優しく微笑み、オリオンにそっと口づけをする。
「オリオンが嫌なわけじゃないんだ。ちょっと、パパに……」
彼女の声のトーンが一気に下がった。
オリオンは一瞬で起き上がり、背筋を伸ばして正座する。
「大神ゼウス……?」
アルテミスの父は神々の王だ。
アポロンより厄介かもしれないとオリオンは思った。
「言っちゃったんだよね、生涯純潔を守るって」
困ったようにアルテミスは言った。
「…………そんな約束を娘にさせたのか?」
いくら親で最高神だとしても、横暴すぎるとオリオンは思った。でも、そこまでしても、娘を嫁に出したくなかったのかもしれない。
このアルテミスなら無理もないことだとオリオンも思い直す。なにしろものすごくかわいらしい。
「違うよ。パパに言われたんじゃなくて、自分からそうしてってお願いしたんだ」
「なんでそんなことを?」
ビクビクしながらオリオンは言う。
「だって、男の人って、怖いし……」
「たいていの男はアルテミスの方に怯えているぞ」
「ひどいな、なんで? こんなに可愛らしいのに……」
アルテミスは自分で言った。
オリオンは狩りに行く時のアルテミスを思い出し、(そうか?)と思った。彼女は喜々として誰よりも先に走り回る。可愛らしいが女らしくない。
「まあ、いいよ。後で撤回してもらえば……」
そう言って、アルテミスはオリオンの背中に腕を回した。けれど、オリオンはピクリとも動かなくなった。
「どうしたの?」
アルテミスは不思議そうにオリオンを見つめる。
「いや、ダメだ。大神ゼウスには、きちんと話を通さなければ」
オリオンは、アルテミスを優しく離した。
「え~?」
アルテミスの機嫌がとたんに悪くなる。
「大丈夫だよ。パパだし」
そう言って、口をとがらせた。
「キミはそれでいいと思うかもしれないが、神々の王との契約なんだ。それを破ったら、どんな罰が下されるかわからない」
オリオンは厳しい顔で言う。
「パパなら大丈夫じゃない?」
ゼウスはアルテミスに甘々だった。
「キミは知らないんだ。大神ゼウスの恐ろしさを。大神ゼウスを怒らせたら、俺などひとたまりもない」
オリオンはアルテミスの頬に触れる。
「キミだって、どんな目に合わされるか……」
憂いを帯びた瞳でオリオンは言った。
「パパはそんなことしないよ。すんごく素敵な神様だもん」
明るくアルテミスは言った。
「いや、ちゃんと、許可を取ろう」
「え~」
アルテミスはかなり不満そうである。
「それで、結婚の許しを得よう」
オリオンはそう言ってアルテミスに笑いかけた。
「え?」
驚いたように、アルテミスは恋人を見つめた。
「こんな、欲望のままにするのではなく、皆から祝福されて、それで……」
オリオンはじっと恋人を見つめた。
「キミと結ばれたい」
穏やかな瞳でオリオンは言った。
「……オリオン」
アルテミスは恥ずかしそうに恋人に笑いかけた。
「オリオンがそう言うなら、それでいい……」
幸せそうにアルテミスは言った。
「オリオン、大好き」
アルテミスは、オリオンに抱きついた。
「あ……ああ。俺も、アルテミスが……、好きだ……」
二人は頬を染め、笑顔で見つめ合った。
***
そんな微笑ましい恋人たちの様子を、見ている者がいた。
窓の外からその様子を見ていた太陽神は、木陰に身をそっと隠した。




