58 寂寥と誘惑
「アイツ……ッ」
そう吐き捨てると、シリルが入り口にいた男を突き飛ばし、外に駆けて行ってしまう。
シャーロットはおろおろとしながら、とりあえず店主とシリルが突き飛ばした男に頭を下げた。
そして十分に頭を下げた後、彼女も店を出て弟を追った。
店を出たシャーロットは、運よく人込みに立ち往生しているシリルを見つけることができた。
呼び止めようと慌てて声を掛けるが、喧騒にまぎれて聞えなかったのだろう。人波を塗って、シリルが再び走り出す。
シャーロットは、精一杯それを追った。
スカートだけれど、追いつけないとは思わなかった。
だって子供の頃、シリルとかけっこをしてもシャーロットが勝つことの方が多かったからだ。
シャーロットはおっとりとした性格だが、薬草取りなどの山歩きで足腰が強かった。
シリルを背負って家路についたことも、一度や二度ではない。
その度に、シリルはひどく悔しがったけれど。
(なのに……いつの間に、こんなに足が速くなったの?)
その豆粒ほどの背中を見ながら、シャーロットははあはあと息をついた。
彼女が喉の苦しさに足を止めても、シリルはスピードすら落ちない。
やがてその背中が、人混みに紛れて消えてしまう。
どんなに頑張って走っても、もうシリルには追いつけないだろう。
そう、追いつけないのだ。
息を整えながら、シャーロットは途方もない気持ちになった。
セイブルは森を出て行った。
結婚するのならばジェラルドも、出ていくのかもしれない。
アーサーやシリルだとて、結婚すれば今のままというわけにはいかない。
そしていつかは、ラクスだって―――……。
老いた時、自分はあの森に一人で取り残されるのか。
頬を、汗が滑り落ちる。
目尻から流れるそれを、シャーロットは拭うこともできなかった。
***
コツコツと、苛立たしげに足を踏み鳴らす音がする。
礼儀を重んじるジェラルドが、王の前でこれほど苛立ちを露わにするのは珍しいことだ。
「一体どういうことですか?」
もう何度目かになる問答を、ジェラルドは再び繰り返した。
「ですから、隣国サンジェルスより、殿下をぜひマルグリット女王の夫として迎えしたいとの仰せで―――」
「お前には聞いていない!」
怒鳴りつけられ、侍従長のトーマスが黙り込んだ。
国王と比べれば大人しい性格のジェラルドが、これほど声を荒げるなど今までになかったことだ。
謁見の間にいる全ての臣は、書記係まで例外なく目を剥いた。
「何をそんなに荒ぶることがある。これはお前にとって悪い話じゃないだろう? このまま辺境の弱小国で飼い殺しにされるより、大国の王配として生きる方がどれほどましだと思う?」
誰もが敢えて口にしないことを、兄である国王は声に出していった。
しかしその表情は、ジェラルドの態度を不思議がっているようには見えない。
どちらかといえば面白がって、獲物を嬲る獣のようだ。
「陛下っ! 私はこの国で、飼い殺しにされているなど思ったこともない。むしろ骨を埋める覚悟で、今まで誠心誠意お仕えしてまいりました。その忠誠をお疑いになるなど……」
「ああ、建前はよい」
王笏を振りかざし、王はジェラルドの口上を遮った。
「余は、お前の真実の願いのみ聞き入れる。それ以外には聞く耳持たん」
そう言い捨てるや否や、馬鹿馬鹿しいとでも言わんばかりに王は王座を下りた。そしてカツカツと音を立て、足早に奥の間へと去っていく。
隣に座っていた王妃が、黙ってそれに続いた。
「待ってください。兄上! 義姉上!」
王は振り返らない。立ち止まったのはマリエッタの方だ。
「ジェリー。本当に欲しいものはね、足掻かなければ手に入らないものなのよ。貴方は昔から、何も欲しがらない子だったから―――……」
「マリエッタ!」
義弟に助言しようとする妻の言葉を、王は遮った。
「それ以上の助言は必要ない。ジェラルド、お前も男なら、手に入れたい未来のために抗て見せろ。それがお前の言い分を聞く条件だ」
妻の細い手を握り、今度こそ王が謁見の間を出ていく。
しんと、広大な広間に気まずい沈黙が落ちた。
しばらくして、騎士団の長である男が広間を出ていく。
重い苦悩を背負ったその背中を、国王の臣下たちは黙って見送った。
***
城の外に出たジェラルドを、待ち構えていた人物があった。
流行の華やかな羽根飾り。サンジェルス風の細く絞ったキュロット。
その姿を認めた瞬間、ジェラルドの眉間の皺は余計に険しいものになった。
「お久しぶりです、ジェラルド殿下。我が女王の申し出、良きようにお考えいただけましたかな?」
ジェラルドの表情が見えないわけでもないだろうに、三枚舌の外交官は不敵にほほ笑んでいた。




