2-25 ネルソン・マンデラと俺と未来は殺される
俺は八歳の少女に殺された。だが、死者の時間は俺を過去へと連れていく。
死者となった俺は、なぜ殺されたのか知るために、来た道を戻る少女を追うが、理不尽に終わった人生への怒りをぶつけるうち彼女に憑依していた。
しかし、取り憑いたのは一瞬だけで少女も見失ってしまう。
そのときに味わった生の感覚に焦がれ探し続けるが、見つからないまま何年も過去へと遡りは続いていく。巻き戻る時間がますます早くなる中で。
そんな中、同じ死者から奇妙なメッセージが届いた。
――おまえがみらいをころした。
その言葉のあと、俺の知っていた過去が食い違い始める。南アフリカの大統領ネルソン・マンデラが、暗殺されたという速報が流れたのだ。病気で死んだはずの男が、なぜか殺されている。ここは、俺の知っている過去ではなかった。
俺は戸惑いながらも、生への渇望を強めていった。
人は死ぬと魂は過去を遡る。
枯れ落ちた葉が宙に浮き上がり、枝に吸い付くと青緑に色づき始める。太陽は西から東に昇り、全ての生者は後ろ向きで歩き出す。まるで、動画を逆再生したかのように。そして、時間の流れは今もどんどん速くなっている。
JR渋谷駅の混雑した構内で、俺は一人座る。そして、後ろ向きで走ってくる山手線を眺めながら、今日も両手を見つめていた。過去への遡行は確実に速くなっている。死んだばかりの時は時間が止まっているのかと思ったが、少しずつ確実に戻り始めていく。電車に半分めり込み飛び散った血肉が、ゆっくりと体の中に戻り、傷が徐々に塞がっていく。それから、自分の体が山手線の線路からホームへと浮かび出す様を、嫌というほど見つめていた。押された俺の姿を見て叫ぶ野太い女の声が、永遠に続くかと思ったほどだ。
俺は死んだ日のことを考える。あの夏の日、ホームの重苦しく暑いラッシュアワーの空気の中で、遠くから聞こえた蝉の声をぼんやり聞いていた。そして、他の通勤客と一緒に生気の無い顔で並んでいた。薄い水色のポロシャツの襟に溜まった汗をハンドタオルで拭きながら。風が不意に流れてきて、線路のはるか先の暗がりから電車のライトが徐々に迫ってくる。
「あぁ、また仕事か……」
そんなことを呟いたかもしれない。そして、いつものように白線に足を一歩踏み出した。その時だ、誰かに背中をドンと押されたのは。そして、亀が砂浜でもがくように、手をばたつかせて線路に落ちた。生きていた時の最後の光景は、電車の光る目が迫る瞬間だった。そして、気がついたら時間が巻き戻り始めていた。
最初のうちは死んだという実感はなかった。きっと夢でも見ているに違いないと。だが、電車に轢かれる直前の俺の体を他人事のように見ていると、脳みそすら無い死者でも嫌というほど理解させられた。
「あぁ、俺は死んだんだ」
低音で響く蝉の声に飽きるくらい長い時間が過ぎ、俺の体を線路へ突き飛ばしたヤツに興味がわいた。突き飛ばしたのは八歳くらいの子どもだった。
俺を線路に突き飛ばした時、そいつは恐怖で顔を強張らせ、両手を口に当てていた。だからなのか、ランドセルにぶら下がる『イチゴの里』のキーホルダーが揺れていた。俺の体が逆戻りでホームに戻ってくると、少女が水色のTシャツの正面から突き出した両手を徐々に引いていく。俺を困惑させたのは、その表情だった。恐怖の顔から、戸惑いへと変わり、俺を突き飛ばす瞬間には一切の表情が消えていた。自分の行為が見えないかのように瞳孔が開く。そして、俺の背中から少女は手を引き、後ずさりしながら下がっていった。やはり、無表情のままで。
俺は知りたかった。少女に突き飛ばされたその理由を。だから、これから死んでいく自分の体ではなく、後ろ向きで戻っていく少女についていくことにした。少女はJR渋谷駅の改札へと引き返し、エスカレーターを逆向きに立って井の頭線へと戻っていく。全てが逆回りの世界の中、少女の顔を見ながら歩いていくと、少しずつだが時間が速くなっているような気がした。なぜなら、雑踏の音が鈍い低音から、聞き慣れた音へと変わっていったからだ。もっとも、逆再生の世界で聞こえる音は、俺には理解できない響きだったが。
少女と一緒に雑踏を進んでいくと、通行人に何度もぶつかった。だが、生きている連中は死者をすり抜けるだけだ。俺にとっても通行人は店に立つマネキンと同じで、少女にしか目に入らない。後ろ向きで進み続ける少女の顔を舐めるように見続けたが、無表情から一転して気持ち悪いくらい様々な感情が顔から溢れていた。ニヤニヤと笑いを浮かべたかと思えば、耳まで赤くなるような憤怒の表情を浮かべたり、唇を真一文字に結んで涙ぐんだりしていた。
こんなヤツのせいで俺の人生が終わりになったのかと、悔しさのあまりうめき声が漏れた。病気一つなかった退屈な人生だったが、理不尽に終わらせられたと思うと怒りが込み上げる。気がつけば、少女の顔を殴りつけていた。拳が手応えもなく何度も空を切り、苛立った俺は少女に体当たりをしていた。
その時だった。
俺は目を開けた。胸にざわつきを覚える。前をみると、八歳くらいの少女がガラス越しに映っていた。ここは井の頭線の車内だった。アナウンスが響き、逆再生されていない聞き慣れた音声が聞こえてくる。
「次は終点、渋谷」
俺は吊り革を強く握った。すると、か細い手からプラスチックの丸い輪の感触が伝わってくる。そして、ブレーキ音と共に電車が減速していくのがわかった。体が激しく揺れ、傷みが目立つランドセルがやけに重く感じる。
「なんだこれは」
喉から溢れる声は、鈴のように高かった。ハッとして口元を手で押さえると、ガラスに映った少女も同じ仕草をする。戸惑いながらも首をゆっくりと左右に動かすと、少女もそれに続く。しかし、井ノ頭線の乗客達は、無関心で少女の顔すら見ようとはしない。幽霊だった時には感じなかったエアコンの冷風が、肌を刺して身を震わせた。些細なことでも、興奮のあまり喉が震える。
「生きている」
少女の聞き慣れない軽やかな声が、電車の走行音にかき消されてゆく。生唾を飲むとゴクリという音、それと液体が食道をすり抜けていく感覚。俺は確かに少女の中で生きていた。だが、喜びも一瞬だった。目の前の視界が一気に白く濁っていく。頭が朦朧としていくと、車内アナウンスが奇妙に間延びして聞こえ始めた。
気がつくと、電車は後ろ向きに進んでいた。生者の時は終わり、時間が逆戻りを始めている。全ての感覚は消え去り、死者に戻った俺は床に座り込んでいた。乗客達からは散々踏みつけられるが痛くない。ただ、すり抜けるだけだ。目の前には井ノ頭線の終点である吉祥寺駅の文字が見えた。渋谷から吉祥寺までの時間は約二十分ちょっとだったはず。どうやら、それくらいの時間を遡っていたようだ。始発駅へと時が戻っていく電車の中で、少女を探した。だが、俺の希望はすでに消えていた。
あれから生きている時の感覚を求めて、自分を殺した少女を探し続けた。だが、見つけられないまま、時間が巻き戻るスピードが増していく。俺は生きたかった。たとえ誰かに取り憑くことになろうとも。だが、様々な通勤客に張り付いてみたが、少女のように体内に潜ることはできなかった。
そして、今日も渋谷駅のホームのベンチに座っている。無情にも、俺が死ぬ八年前の過去まで遡っていた。しかし、生者の時間の流れであれば、一ヶ月も経っていない気がする。それだけ、過去へと遡るスピードは速くなっていた。
半透明な両手から透かされた朧げな山ノ手線が、ホームに突っ込んできた。ホームに聞こえる音声や雑踏の音も、理解できない金切り声にしか聞こえない。
「おーーーーーーー」
ホームのベンチに腰掛けていると、突然、間延びした音が聞こえてきた。俺は無いはずの心臓が止まるかと思った。これは生者の世界の声じゃない。今の時間の流れだと、生きている人間の声はもっと甲高いはずだ。ベンチから立ち上がり、聞こえてきた方向に頭を向けた。渋谷駅の改札へと向かう下り階段の真ん中に、ガラスのような男が立っている。そいつに次々と乗客がぶつかるが、何事もなかったようにすり抜けていく。その様子を見て、死者だと気がついた。俺は話しかけようと駆け寄ったが、男は瞬く間に目の前から消えた。その日、渋谷周辺を駆けずり回ったが、男は見つからなかった。今まで考えてもいなかったが、死者が俺だけのはずがない。だが、死んでから一度も死者に会ったことはなかった。俺と男の時間の流れが違うのか? そして、同じ境遇の仲間にはもう二度と会えないのか? だが、その心配は無用だった。なぜなら、男はまた現れたからだ。
「まーーーーーー」
男はそう言うと、再び俺の前から消えた。ふざけているのかと思ったが、すぐに考え直した。あいつは俺より時間の流れが早い。俺よりも未来で死んだ奴ってことなのか。そして、何かを伝えようとしているかもしれない。何日も時間を遡りながら待ち続けて、男の発した全ての音を繋げた。
「おまえがみらいをころした」
「た」を最後に男は姿を見せていない。伝えようとしていた言葉はこれなのか。どういうことだ? 俺はあの少女に殺されたんだぞ。殺された理由さえもわからないままで。死者の俺が『みらいをころした』だと。
言葉の意味に戸惑いながらも、少女を探し続けた。あの少女は生まれていないだろうと絶望しながら。そんな中、南アフリカの大統領ネルソン・マンデラ暗殺がテレビの速報に流れてきた。馬鹿な! マンデラはもっと前に病気で死んだはずだ、しかも暗殺された!? そんな出来事はなかったはずだ。俺の知っている過去では無いのかと背筋が凍る。ここは一体どこなのかと恐怖で震えた。そして、逃れたいという気持ちは、いつしか生への執着へと変わっていった。
そして、その執着が俺を救急車へと引き寄せる。いつものように死にかけの生者に取り憑こうと狙っていると、格好の機会が訪れた。サイレンの音が山ノ手線のホームに近づいていき、後ろ向きに運ばれた担架が現れた。その担架には女が乗っている。若い女だ。救急隊員は女を担架から降ろす。そして、救急隊が後ろ向きで去る中、女はうずくまり腹を押さえていた。女のポーチにぶら下がる『トマトの里』キーホルダーが揺れる。俺はお菓子の『里』に奇妙な既視感を感じつつ、女に飛び込んだ。女は妊婦だった。胎児に潜り込むと無数の死者たちの「生きている」という言葉がこだまする。やがて時間は未来へと進み始めた。
女は少女の母親だった。そして、俺は俺を殺す。未来を少しずつ変えながら。





