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すべては幻

 レオンが辿り着いたサリュート侯爵邸は、美しさと不気味さが紙一重の境界で溶け合う、異様な空間と化していた。



 庭園を埋め尽くす淡い青の群生。その花々は、あたかも主人の正気を吸い取って咲き誇っているかのように、風もないのに細かく震えている。

 屋敷の中へ足を踏み入れれば、肺の奥までこびりつくような、甘ったるく、それでいて内臓を腐らせるような死の香気が鼻を突いた。




 屋敷の主、ジン・サリュートは、書斎の冷たい床に這いつくばっていた。


 かつての端正な貴族の面影はどこにもない。頬は削げ落ち、眼窩は深く落ち込み、その瞳はもはや現世の光を捉えてはいなかった。

 彼の傍らには、エリュシオンの怨みを煮詰めたような、昏い黄金色の蜂蜜の瓶が転がっている。




「……ああ、エリー。今日は一段と顔色がよくないな。あの冷たい修道院から君を連れ出すのは、本当に骨が折れたよ……。でも、もう大丈夫だ。ここは君が好きな花でいっぱいだ。誰にも邪魔させない。君をあんな目に遭わせた連中からも、僕が一生かけて守ってあげるからね……」


 ジンは虚空に向かって、震える手で優しく語りかけていた。

 見えない髪を撫でる指先は、実際には自分の爪で床を激しく掻きむしり、剥がれた爪の隙間からどろりとした血が溢れている。




 彼は、あの蜂蜜を口にした時から、己の臆病さが招いた「あの日」の惨劇を塗り替えるような甘やかな偽物の記憶に夢中になった。

 怨念の滴る黄金を口にするたび、脳内には都合の良い鏡の国が築き上げられていった。


 あの日、エリュシオンが石に頭を打ちつけ、泥を掴みながら無様に跳ねていた絶命の瞬間を、彼は「修道院から救い出した後の幸せな新婚生活」という、吐き気のするような虚像で上書きし続けていたのだ。




「ジン、何を見ている。エリュシオンの幻想か」


 レオンの凍てつくような声が、静寂を切り裂いた。


 

ジンは緩慢な動作で顔を上げたが、その口元には、蜂蜜に塗れた、正気を捨てた者特有の恍惚とした笑みが張り付いたままだ。



「……おや、お義兄様じゃないか。そんなに大声を出さないでくれ、エリーが怯えるだろう。ほらこちらにおいで、エリー、お兄様が会いに来てくれたよ……」


「エリュシオンは死んだ。お前たちが殺したんだ!」


 レオンは一歩踏み込み、ジンの胸ぐらを掴み上げて無理やり鏡の前に引きずり出した。



「見ろ、そこに映っているのが真実だ。お前は彼女を救ってなどいない。告発する勇気も、止める気概もなかった臆病者が、今もその罪悪感に耐えきれず、死体泥棒のように彼女の死を利用して悦に浸っているだけだ!」


 レオンの言葉は、鋭利な刃となってジンの精神の核を抉り取った。



 一瞬、ジンの濁った瞳に正気という名の地獄が戻る。蜂蜜によって強制的に見せられていた夢が剥がれ落ち、彼は見てしまった。

 自分の隣で微笑んでいるはずの美しい妻が、後頭部を割られ、泥にまみれて手足を跳ねさせている「あの日」の残像を。



「……ああ、……あああ……! 違う、俺は、俺だけは彼女を……っ!あの音を止めてくれ……っ……二度と聴きたくないんだ、今すぐに止めてくれえぇ……!」


 ジンは自分の耳を潰さんばかりの勢いで両手で覆い、獣のような叫びを上げた。






 本当は、ジンも理解していた。

 自分が救世主などではなく、単なる傍観者に過ぎなかったことを。


 蜂蜜がもたらす極彩色の妄想に縋り、真実から目を逸らし続け、虚構を積み上げた報いとして、彼の心はもはや修復不可能なほどにバラバラに砕け散っていた。






 レオンは、もはやこの男が「人間」としての形を保っていないことを察した。


 あと数日のうちに、彼は自らが育てた青い花の毒に脳を焼かれ、内側から腐り果てて命を落とすだろう。


 その死に際、彼が望む救済——エリュシオンの赦しが得られることは、万に一つも、ない。




「……意気地なしに相応しい、惨めな末路だな」


 レオンは、狂乱の中で自分自身の喉を掻きむしり始めたジンを冷たく見捨て、館を後にした。



 背後で響くジンの笑い声とも嗚咽ともつかぬ叫びは、不気味に凪いだ湖の底へと、静かに、重く吸い込まれていった。

 


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