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断罪の日

 青白い顔のアレクサンダー王太子が呟く。


「何もなかった。——わかったな」


 二十年前のその日、学園の中庭を茜色に染め上げる陽光は、あまりにも残酷なほど穏やかだった。





 マリアンの描いた筋書きは、至って単純な「罠」に過ぎなかった。


 エリュシオンが珍しく学園に登校する日は事前に調査済みだった。

 マリアンはエリュシオンに対し、アレクサンダー王太子に関して内密に二人で話したいことがあると囁き、夕刻の中庭の隅へと呼び出した。

 その指定した時刻には、必ず王太子とその友人たちが通りかかると、彼女は知っていた。




「話とは一体なんでしょうか、マリアン様」


「エリュシオン様、王妃の座をわたくしにくださらない? アレク様はわたくしを愛していると、そうおっしゃっていましたわ」


「——なんですって? それはどういう……」



 突然、マリアンはエリュシオンに掴みかかり、一人喚き始めた。



「……やめてください、エリュシオン様! いや! 痛い、離してください!」


「!?あなた、何をっ……」


 エリュシオンが困惑に唇を震わせ、その不可解な言動を問いかけようとした瞬間だった。

 彼女の視界の端に、燃えるような怒りを宿したアレクサンダーの姿が映り込む。虐げられる愛しき女性を守るという、陶酔にも似た正義感。


 アレクサンダーは闘志を露わに、エリュシオンたちとの距離を瞬時に詰めた。



「エリュシオン! 何をしている!」


 アレクサンダーの瞳には、盲信的な怒りの裏側で、エリュシオンという存在を貶めることへの醜い優越感が顔を覗かせていた。


 彼はマリアンを庇うように、勢い任せにその体を二人の間にねじ込んだ。


 力任せに突き飛ばされたエリュシオンの身体は、枯れ葉のように、あまりにも容易く平衡を失い、後方へと倒れ込んでいった。




 ゆっくりと流れる視界の中で、エリュシオンの視界に抜けるような青空と、自分を突き飛ばした婚約者の顔が流れていく。

 そこにはいびつな愉悦と、予期せぬ事態への驚愕が滲んでいた。



 (どうして……私は、何も……)


 その問いが形を成す前に、彼女の意識は不条理にも闇へと溶けた。


 なすすべもなく後ろ向きに倒れ込んだ彼女の頭部を、庭園の縁を装飾していた石の角が、逃さず捉えた。



 ドサリ、という柔らかな音ではなかった。


 乾燥した硬い何かが砕けるような、鈍く重い音が中庭の静寂を切り裂いた。


 エリュシオンの身体が、衝撃で地面から小さく弾ける。見開かれた瞳からは、瑞々しい光が急速に吸い出され、濁っていく。


 だが、若く健やかな彼女の肉体は、魂の離脱を拒むかのように生にしがみついた。地面に投げ出された手足が、何度も何度も不自然な痙攣を繰り返す。

 喉の奥からは、言葉にならない空気の漏れる音が、喘鳴となって漏れ出した。




 マリアンの計画では、あくまで「傲慢な公爵令嬢に虐げられる悲劇のヒロイン」を演じ、エリュシオンを陥れて王太子の婚約者という眩い地位から引きずり下ろす、それだけのはずだった。


 エリュシオンを殺すつもりなど、微塵もなかったのだ。


 マリアンの悲鳴は、今度は本物の恐怖となって喉の奥で凍りついた。計画にはなかった無残な光景。エリュシオンの止まらない痙攣。


 アレクサンダーたちは血の気の引いた真っ白な顔で、自らの掌を凝視したまま、一歩も動けずに立ち尽くした。


 数分、あるいは永遠にも思える地獄のような沈黙の後、エリュシオンの身体から力が抜け、静まり返った。

 その美しい顔は、二度と表情を宿すことのない、蒼白い仮面へと変貌した。



「……死んだ……? 嘘よ、そんなこと…………いいえ、エリュシオン様が、わたくしを呼び出したのです。わたくしを脅したのです……怖かった……っ」


 マリアンの歯の根が合わない震える呟きを、その場に居合わせたジグルドの冷徹な一言が、無慈悲に遮った。



「とんでもないことになりましたね。殿下。このことが露呈すれば、殿下の王座は諦めねばなりません。……ですから、このことは『なかったこと』にせねばなりません。……わかりますね?」




 そこから始まったのは、権力という名のどす黒い絵の具を塗り重ねる、死者への冒涜だった。


 アレクサンダーは己の輝かしい将来と王家の威信を守るため、付き従わせていた王家の「影」を震える手で呼び寄せ、即座に対処した。

 王家には、隠したい事を葬れる「特別な場所」があると父王から聞いたことがあった。



 夕闇に沈む学園の静寂の中、まだ微かな体温の残るエリュシオンの亡骸は、粗末な布に包まれ、まるで汚物でも処理するかのように裏門から運び出された。


 さらに王家の威光という名の暴力を振るい、エリュシオンの両親であるコルトレイク公爵夫妻さえも、膨大な金と利権で黙らせた。


 ジグルドとギルバートは、その汚れた取引の証人となり、同時に地位という分け前を預かることで、魂を売った共犯者となったのである。



 『エリュシオンはマリアンを中庭に呼び出し、刃物で脅した。王太子はその場を仲介したが、エリュシオンが激昂して害そうとしたため早急に連行。北の修道院へ向かったが、運悪く病死』


 その完璧に塗り潰された一片の隙もない筋書きの下で、彼らと、そして私欲のために動いた大人たちは、永遠に逃れられない共犯の鎖で繋がれた。


 そうして魂の尊厳すら剥ぎ取られ、無惨にも歴史から消し去られたエリュシオンの遺体は、人々の目に触れぬよう、深い霧に包まれた禁足地「ニズール山」の冷たく暗い土の中へと、誰にも知られず埋められたのだった。




 二十年の歳月を経て、その絶望を養分とした「青い花」が、狂おしいほどに美しく芽吹くことなど、その時の彼らには想像することすらできなかった。



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