6-5
深夜。
屋敷に足を踏み入れた瞬間から、嫌な魔法の気配は感じていたのだ。
「うっわー、酷いね。これは」
書斎のドアを開いた時、横のエリックは笑った。いつも通りの軽薄そうな表情で、そのくせに、声の温度はほぼ底辺とも言えるほどには低く。
「落ち着け」
誠はエリックを一瞥した。
「まだ何も言ってないじゃないか?」
エリックはヘラリと笑った表情のまま振り向く。
「俺より、せっかちで短気な誰かさんの方が内心穏やかではいられないんじゃないの?」
「鏡を見ろ、この阿呆。声どころか、目も笑えていないぞ」
呆れて答え、視線を再び室内に向ける。
ズタボロになったカーテンは床に落ちていた。剥き出しになった窓から差す月星の光は、焼け焦げ、切り裂かれた室内の惨状を照らし出している。
「酷い有様だな」
「ああ」
暖炉の斜め前、1人掛けのソファに座ったアントワーヌは短く答えた。
肘掛に頬杖を付き、足を組んでゆったりと背凭れに身を預けている姿は、どうやら無傷。その横顔は、月明かりの降る廃墟じみた部屋の中でいよいよ幻のように現実味がない。
あるいは、その周囲一メートル四方ほどだけが、綺麗に一切の傷無く残っているのも、その存在感の非現実性を高めているのかもしれなかった。
「……嫌な呪いの気配がこびり付いている。この有様のまま、片付けんのか?」
近付きながら声を掛けると、金の双眸は一度ゆっくり瞬いた。
「少し休んでから直すつもりだった」
その手がソファの横の小机から紙箱を取り上げ、一本、煙草を取り出す。
「この瘴気の中でか。悠長な奴だ」
誠は室内を見回した。そうして、スルリと魔法を組み上げる。
スルスルと、巻き戻しされる記録映像のように、荒れていた室内を元の姿に整えていく。毛足の長いモスグリーンの絨毯、磨き込まれた木製の書棚や執務机と、綺麗に収められた書籍達。厚手のカーテンに、家具と合わせたデザインの照明、赤々と燃える暖炉。
同時に、ビリビリと肌を刺すような強力な呪いの魔法の気配も消えていった。
火を噴く怪物でも暴れたのかという様相だった部屋は、ようやくといつもの、静かだが、居心地の良さそうな空間に帰る。
「……魔法界の奴の仕業?」
まだ部屋の入口にいるエリックが、そう訊いた。
「暖炉を〝繋げて〟話してたみたいだね」
「ああ。先日の件で」
アントワーヌは煙草にライターで火を付け、煙を揺らせて頷いた。
「第三特使機関次長殿は、部下を可愛がっているようだ。……そして、相当の癇癪持ちだな」
「癇癪を通り越して、これ、明らかに殺す気だろう?」
完全に温度の無い声で、エリックは笑いを漏らす。
「器が知れるね。自分の部下の暴走も止められなかったくせに、責任を追及されたら攻撃かい?」
「丁重に〝返答〟して、引き下がって頂いた。迷惑料に関しては、次に〝商人〟が買い付けに来た際、それなりに取引関係で融通して貰うとしよう」
肩を竦めたアントワーヌは、軽く小首を傾げた。
「終わったことだ、エリック」
「終わってないでしょ。だいたい、あの〝商人〟も本当に気に食わないんだよねぇ。そもそも、今回のことだってさ」
「エリック」
僅かに刺々しさを増したエリックの声を、誠は遮る。
「お前は子供か。心配しているくせに、その当人に不満をぶつけて困らせるな」
途端、エリックの顔に驚きが閃き、次の瞬間には、ほんの少し気まずげな半笑いになった。
「……誠は、そういう事を普通に言っちゃうから困るよね……」
「どういう意味だ?」
「いや、まぁ、当たってるんだけどさ。当たってるし、別に隠す気もないんだけど……。でも明確に口にされちゃうとねぇ……」
毒気を抜かれたように、エリックはドア枠に左の肩を当てて寄りかかる。
「まったく、まさか上のお兄ちゃんへの愛を、下のお兄ちゃんにデッカイ声で暴露されるとはね」
「だそうだ。お前、一応心配されている自覚はあるか?」
誠はアントワーヌを振り向いた。
「自覚があるかは知らんが、お前は精神的に疲弊すると煙の量が増える。最近、多いぞ」
対して、アントワーヌは答えなかった。視線だけがスゥと逃げるようにどこか暗闇に向いて、黙り込む。
「おい」
誠は腕組みした。
「自覚している」
ようやくとアントワーヌは答える。
「だが、おそらく、お前の思っているほど疲弊しているわけではない」
声はいつも通りだった。歌うように優雅で、余裕を感じさせる落ち着いた声色。
「俺はお前を信頼している」
誠は静かに、そう答えた。
「お前がそう言うのならば心配はせん。だが、今日はもう、仕事はやめて休むべきだと、進言しよう」
「ああ、そのつもりだ」
アントワーヌは頷いて、煙草を消し去った。そうして立ち上がり、まだ入口にいるエリックに視線を向ける。
「入ったらどうだ?」
「お腹減ったなぁ」
エリックはドア枠に寄りかかったままヘラリと笑った。
「誠がさっき、厨房に日本酒置いてるの見ちゃったんだよねぇ。あと、この前フロールがワインセラーに赤ワイン追加しに来てたのも見たし」
「あれは手土産だ。お前用じゃない」
誠が視線を向けて顔を顰めれば、ええ、と眉を片方上げて。
「アントワーヌが一人じゃ日本酒飲まないの知ってるくせに」
クスクス笑い、エリックは顎に手を当てる。
「手土産……と言いつつ、酒のアテ作って貰うのが目当てかな?」
む、と思わず誠は口元を歪めた。
「……貴様と一緒にするな」
「あ、俺は肉が食べたいな。調理法はお任せで、何か作ってくれないかなぁ、なんて?」
抗議も受け流し、チャッカリと注文を付ける姿に、おい、と、再度声を上げかけたところで。
「……酒にしても肉にしても、今、何時だと思っている」
アントワーヌが至極冷静に口を開いた。
ハッと黙り込むエリックと誠。
「……甘やかすなと俺が叱られる。ヘイダルやメルヴィンには口外しないように」
一瞬の間を置いて、アントワーヌは手振りで一階に行けと促した。
「凝った物は出さないぞ」
「OK!やっぱり話が分かるなぁ!優しいお兄様、愛してる!」
途端にパチンと手を叩いて、エリックは意気揚々と階段に向けて歩き出す。
ほら早く、と笑う声が少し遠ざかるのを待って。
「……魔女は何と言っているんだ?」
金髪が階段を降りて行くのを確認してから、誠は問うた。
「魔法界全体の企みではなさそうだが。しかし、ここ数年、こういったことが多くなってきている。……何か、お前や魔女は理由を知っているのか?」
「……何故エリックの前で訊かない?」
「あれは、お前を心配している。お前はそれを良くも悪くも自覚している」
目を眇め、誠は僅かに声を低くした。
「俺は心配せんと先ほど言った。よって安心して吐け」
対して、数秒沈黙があった。
「……今回の件は、俺に一任するとだけ仰った」
答えたアントワーヌの声に、眉を寄せる。
「……吐くほどのこともない、か。なるほど、いつもそうだな」
「ああ」
頷く顔には特に大きな感情の起伏は無いように見えた。よく見知った、どこか物憂げで気難しげにも見える、人形のような美貌。
「しかし、魔法界との接触権限がお前のみに集中しているのは、些か負担が大きいと考えている。本来、外部からの攻撃に対しての守りは俺の領分だが……。迷い込む竜やら形容し難い化物やらは俺に相手をさせる割に、人間となると、お前のみにしか接触も対処も許さんのはどういう了見だ?」
再び、やや声を低くすれば、金の目は少し憂鬱さを帯びる。
「……マダムはそれが最適解だと考えている」
「……それもいつも通りの返答だな」
誠は溜息を吐いた。何故、魔女が魔法界との接触権限をアントワーヌ一人に集中させたいのか、その理由が薄々悟れる程度には誠も鈍くない。
魔女は、魔法界のことを、この世界の外のことを、出来る限りこの世界の住人に……息子達にすら、知らせたくないのだ。
そこに不穏は感じている。魔女が何を考え、何を警戒しているのか、確かに誠は不穏を感じ続けて来た。
「そろそろ行かねばエリックが訝しむ」
アントワーヌは音も無く扉の方へ歩き出した。
誰より長くこの世界にいる男が、果たしてどこまで何を知っているのか、誠は知らない。
魔女が何も言わないというのは本当なのだろうと思う。あるいは、魔法界の異常の理由を知らないという言葉にも嘘はないと読んでいる。長く近くにいれば、それくらいの嘘は見抜ける。
しかし同時に、この男はおそらく、それが〝本当に正解なのかを知らない〟だけで、知らないなりに〝正解を予想できている〟のだろうとも、確信があった。誰よりも、きっと事の核心に迫るだけの仮定や予測を持っていて、そしてあえて、それを口に出さないのだと。
口に出さないなら問わないと、誠は決めている。不穏は感じているが、きっと、この長兄は誠やエリックや、この世界に連れ去られて来た人々にとって、悪い方に進む判断だけはしなかろう、と、信頼してる。
「……お前の判断を、俺は全面的に信じる」
この男が言わないのならば、きっと知る必要はない、問うべきではないのだと。信じている。
しかし、魔女から権限を過剰に集中させられている結果、物理的に限界が来るのではないかというのは、時たま頭を掠める問題ではあった。
(とっとと飲ませて潰して、書斎の仕事は俺が持って帰るか)
うむ、と、心中で密かに策を立て、はぁ、と再び息を吐く。
「……俺もお前も、少しエリックかニコロ辺りを見習うべきかもしれん」
「……頭を打ったか?それとも、疲れているのか?」
「……口に出して、俺も自分でそう思った」
思わず漏れた呟きから、軽口を叩いて。
廊下に出る直前、見回した室内には既に何事かの争いの形跡もなく、階下からはエリックの催促の呼び声が上がり始めていた。




