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コンコンと、ドアをノックする右手は震えている。サンドイッチとジュースを入れた籠を持った左手も、やはり引き攣っていた。
何しろ、これはとんでもなく今更、手遅れとも言える段階で恥ずかしげもなく始めたこと。捉えようによっては逆に相手を激怒させるかもしれない行為なのは、百も承知だから。
「おはよう、カレン」
それでも、やらねばならないと、雪路はここに立っている。
緊張で引き攣りそうな声を無理矢理整えて、返事のないドアの向こうに声を掛けた。
「朝ごはん、どこか行くの?」
それに対して、返事はない。月曜日の朝、カレンからは一切、返事は無かった。
あの決闘の後、あの懺悔の夕方の後。それから土曜日、日曜日と、食事時には声を掛け続けても、一切、カレンから返事は返って来ていない。
「カレン」
それでも、雪路はここに立って言うべきだと判断している。
「もし、ご飯、行かないようなら、ドアノブにサンドイッチだけ吊るしておくね」
土曜の決闘以来二日。イザベラ本人が、直接カレンへ嫌がらせする事はなかった。けれどその他の花嫁候補が、いまだイザベラの指示した諸々の嫌がらせを継続しているのである。
カレンが風呂に入る際の邪魔は続いているし、食堂にカレンが現れれば、コップの水を被せたり、カレンの料理に埃を落としたり、そういう嫌がらせも継続していた。
従ってカレンは、もはや深夜に皆が寝静まった頃、水風呂に入るしかなかったし、食事は諦めるか外に食べに行くかしかない。ところが元々花嫁候補のカレンが大衆食堂に行き慣れているわけもなく、更に土曜の決闘で鉱夫や工女達の前で晒し者になったこともあってか、外食に出ようという仕草は見られなかったのだ。
だから雪路は食事に行かないかと声を掛けた。それを無視されたから、ドアノブに食事の籠を掛けたのだ。今更遅すぎると、偽善者と思われるかもしれないと、内心ビクビクしながら。
それでも、もう逃げは打たないと決めたから。
「ねぇカレン、今日、夕方、一緒に銭湯に行かない?私、何度か行ったけど、そんなに悪くないよ」
つとめて軽い調子で言っても、やはり、沈黙。
(……だめかぁ)
あまりしつこくしても、親切の押し売り、余計なお世話になる気がして、今日はここが引き時だと判断する。
「じゃあ、私、行くね」
「……自己満足」
ピシャリ、と、ドアの向こうから初めて聞こえた声に、反射で肩が跳ね上がる。
「カレン」
「あの時、あの決闘の前、何も言わなかったくせに!イザベラの御機嫌取りしてたのに、全部終わった途端、なに、いい人の振りしてるの?」
心臓が嫌な音を立てて軋んだ。怒鳴るように唸るようにドアの向こうから聞こえるカレンの言葉は、間違いなく雪路自身が思っている事だった。
「今更いい人のふりして!自分だけ御機嫌取りして、いじめられっ子にはならなかったくせに、どうしても、いじめっ子にはなりたくないわけ?私に、ありがとう、貴方だけは友達ね!とか、言わせたいの!?あのね、それ、一番、ムカつく!」
無意識に、雪路は自分の服の胸元を掴んだ。酸素が薄くなったような気がして、心臓も、急に動きが鈍くなったような気がする。
「臆病者!卑怯者!」
バツン、バツンと呼吸器にホチキスでも打ち込まれているような息苦しさの衝撃。
覚悟はしていた。カレンがそう考えるかもしれないことなんて、明らかだった。逆の立場だったら、雪路だって同じように思ったかもしれない。
でも。
「……でも、カレン、お腹は空くでしょ?」
声は少し震えてしまったけれど、雪路は何とか、そう言った。
「水のシャワーじゃ、風邪ひくよ」
そうなのだ、それは真実なのだと、雪路は思ったのだ。自分が臆病者で卑怯者で、何もかも今更なのが真実だとしても。
カレンが置かれている状況が険しいことも、その状況を変えねばならないことも、同じくらい、真実なのだ。
ならば、臆病者であることにも、卑怯者であることにも、今更であることにも、意味がないわけではない。臆病者だとか卑怯者だとか今更だとか言われる事を恐れて、あるいは言い訳にして、無視して逃げてはいけないくらいには、そこに意味はある。
「……あのね、謝りたいけど、正直、謝っていいのか凄く迷ってるんだ。だって謝って許して貰って楽になるのは、謝られたカレンじゃなく謝った私だし。もしくは、許さないって言われたとしても、それは私以上に、許せない奴から今更謝られたカレンの方が不愉快だろうし」
雪路はドアに片手を付いて、震える声を整えながらそう言った。
「……こう言うこと自体が卑怯なの、百も承知なんだけど、本当に、私、どうしたらいいか分からなくて」
オロオロと、自分でも情けなく声がひっくり返りそうだと思う。
「でもね、これだけは本当に、私、今までのこと卑怯だったと思うし、臆病者だったと思う……。だからもう、そういうの辞めるって決めたんだ」
ふぅ、と息を吐いて落ち着いて、雪路は言った。
「謝らせてくれるなら謝りたいです。謝罪なんか聞く価値もないと思うなら、謹んで黙ります。でも、どちらにしても私、もう前みたいなことはしないと、それだけは誓えます……!」
貴方の味方になりたいのだと、それを口にするには、今のカレンの怒りは大き過ぎたけれど。精一杯、ありったけの勇気をかき集めた誓い。
対して、再びカレンは沈黙した。
その沈黙が本当に激昴した故の沈黙なのか、何か、考えてくれた沈黙なのかは分からない。
「……じゃぁ、私、行くね」
やがて雪路はドアから手を離し、そう言った。
「またね」
まだちょっと衝撃に引き攣る呼吸器に、深く朝の空気を取り入れて。出来る限り確かな声でそう言って、雪路はドアに背を向けた。
そうして、階段を降りて行こうとした、矢先。
「雪路」
階下から登って来たのは、イザベラと数人の花嫁候補だった。
「アイツなんて放っておきなさい」
立ち止まったイザベラは、ジロリと雪路を見下ろした。身長は雪路よりイザベラの方が少しだけ高い。
「土日、カレンに構ってたみたいだけど、アイツ、完全に無視してたじゃない」
威圧するような低い声音で、イザベラは言った。
「あげくに、せっかく雪路が構ってあげたのに、卑怯者、だなんて怒鳴ってて」
「あれ、ホント、ないよね。最低」
うんうんと頷き合う取巻達。そうやって神妙に、雪路を罵ったカレンを恩知らずだと非難しながら。
しかし実質、これは雪路への警告なのだ。
カレンを非難していながら、その目はカレンの部屋の方なんてチラとも見ない。ただ、雪路を睨み付けている。余計な事はするな、大人しく謝って従え、と。
「雪路が優しいのは知ってるけど。優し過ぎるのって、言い方悪いけど、八方美人だよ?」
「カレンは優しくされても何とも思わないみたいだし、構うのやめなって」
「イザベラもさ、貴方のことはまだ友達だと思ってるから、心配してるんだよ?」
〝まだ〟、という言葉に、雪路は少し視線を落とした。
正直なところ、心臓はバクバク早鐘を打っていた。嫌な緊張感で胃は痛いし、食べたばかりの朝食を吐きたいくらい。ここで、謝って、媚の一つも売れば、まだ辛うじて後戻りは出来る。ここが最後の分かれ道なのだと、嫌でも理解している。
けれど。
「……そっか」
どうにか、雪路はしっかり声を押し出した。
顔を上げ、ニコリと微笑む。
「皆の意見は、ありがたく覚えておくね」
「ええ、雪路は優しいし、いい子だものね。あのバカと違って、言えば分かると思ってたわ」
満足気に微笑むイザベラや、その取巻き集団に、そのまま迎合したい自分を殺す、二秒。
(……私は、私が誇れる私でいたい)
キュッと、拳を握る。そうして、よし、と雪路はもう一度笑ってみせた。
「でもやっぱり、私は、私が良いと思うことをするから」
その瞬間、空気は凍り付いた。
「友達として、忠告をありがとう。でも、ごめんなさい。その忠告を聞いた上で、私はこうする」
眦をこれでもかと開いて雪路を凝視するイザベラを見上げ、雪路はそう言った。
「じゃ、そろそろ出ないといけないから。またね」
目を見開いて動けないでいる花嫁候補達の囲いをすり抜け、ふふ、と歩き出す朝。
(……思ったより、これ、気持ちいい)
もう後戻りは出来ないと。
やってしまえば驚くほど、それは清々しい朝だった。




