5-12
苦くて、けれどどことなく甘い。間近で感じた香が、まだ頭の隅を漂っている。
「落ち着いたか?」
「すみませんでした……」
ひとまず細い道から外れ、石畳の遊歩道に出て。並木の下にポツポツ置かれていたベンチに座った雪路を、アントワーヌは小首を傾げて見下ろしてくる。
「ご迷惑お掛けしてしまって……」
「いや、俺もどうやら最悪の場面で余計な叱責をしたらしい。すまなかった」
ただ泣いていたばかりで、何を話したわけでもないけれど。どうやら、雪路が何か溜め込んでいたものを爆発させたのは悟ってくれたらしい。
責めるでもなく、自分の過失だと言って、アントワーヌは雪路の横に腰を下ろす。
帽子の鍔が作る影の下、隙間なく豊かな銀の睫毛の長さが際立つ横顔。世界中の女性が憧れるだろうその目元の美しさと、ある種裏腹に、全ての女性が胸をときめかすような、男らしい鋭角的な線を描く輪郭。
今は一メートルほど距離があるそれが、ついさっきまで、一生懸命爪先立ちすれば鼻先が触れそうなほどの近さにあったのだと思うと、ザラザラ、心臓が泡立ちそうな気分になる。
(身長、いくつあるんだろう?)
長身だとは思っていたけれど、抱き寄せられてみると改めて背が高いなと感じられる。細身で優美な印象はあるが、両腕で引き寄せられたら、この人の肩や首筋しか雪路には見えないのだ。抱き寄せる力すら、優しく扱ってくれていたのに、それでも友達とじゃれて抱き合う時よりも遥かに強く感じた。
「……男の人なんだな」
ポツリと無意識に言葉が漏れて、ぎょっと自分の口を抑える。
当たり前の事なのに、何故か不意に実感してしまった。
今更ながら強烈に意識してしまい、真っ赤になるのが自覚出来て、どうしよう、どうしようと慌てていると。
「なんだ?」
ごく小さな出し抜けの独り言は、よく聞き取れなかったらしい。目をパチリと瞬いたアントワーヌは、怪訝そうに雪路を振り向いた。
「聞き取れなかった」
「あ、いえ、その」
慌てて雪路は笑って誤魔化した。
「ええと、あの……その、あ、煙草。煙草、吸わないのかな、って」
怪訝そうな視線を誤魔化すように、ようやくと浮かんだ言い訳はそれだった。ほろ苦さと、微かな甘さの混ざった匂いを思い出し、ふふ、と、少し落ち着く。
「あの、いつも吸ってるのって、この世界の銘柄ですか?私のお父さんが、昔吸ってたのと、全然、匂いが違うんです」
「銘柄は魔法界のものだが……。匂い?」
アントワーヌの目が再び瞬いた。
「煙草のか?」
「あの、近付いた時、ほんのり。苦くて甘くて。煙草かな、って思ってたんですけど……。あ、もしかして、何か香水みたいなの付けてるんですか?」
あるいは、苦いのは煙草、甘いのは香水の類だったのだろうかと呟く雪路の前。
「……どちらも服に匂いが付かないように気を使っていたはずなんだが……」
思いがけず、アントワーヌは困った表情で自分の服の袖を見下ろした。
「失礼を、マドモアゼル。不快な思いをさせた」
「あ、いえ!いい匂いって意味ですよ!」
雪路は面食らって首を左右に振った。
(この人でも、こんな顔するんだ)
雪路のフォローにも、釈然としない気まずげな表情で首を傾げる姿。
きゅう、と、雪路の肺の真ん中辺りが縮んで、そのくせパンパンに何かを溜め込んだ。それを誤魔化すように、雪路は両手で自分の顔を挟む。
「雪路?」
キョトンと首を傾げるアントワーヌに、フルフルと両手で頬を抑えたまま首を左右に振って見せる。
「なんでも、ないです」
きゅうきゅうと肺の辺りが鳴いているのを意識の隅に追いやって、雪路は誤魔化し笑いを浮かべた。
「魔法界から、煙草って輸入してるんですね」
話題を逸らすと、ああ、と特にそれ以上追求することも無くアントワーヌは頷く。
「嗜好品の上、あまり喫煙者の人口が多くないからな。わざわざ栽培から加工まで人手を割く物でもない」
「そういえば、あまり吸っている人見掛けませんね」
大衆食堂に行った時、数名だけ、吸っている鉱夫を目にしたが、思い返せばそれくらいしか見掛けていない。
「吸わないに越したことは無い。まともな人間にとっては間違いなく毒だ」
アントワーヌは帽子を外して軽く首を左右に振った。夕日が銀の髪を照らして、影が取れた金の瞳は鮮やかさを増す。
くしゃりと、帽子の癖を散らすように前髪に触れる仕草をボウッと雪路は見詰めた。
(フワフワしてそう)
柔らかそうな少し癖のある髪。緩く結われたそれに触れてみたい衝動に駆られていると、ふい、と、金の瞳が振り向いた。
「どうした?」
穏やかに問う夕日の中の姿。それが急に、今までと少し違うように見えて。
「あ、いえ」
雪路は首を左右に振り、小首を傾げて誤魔化した。
「帽子を取って、くしゃって、前髪を散らすの、誠さんと同じ仕草だなって」
するとアントワーヌは目を瞬いて、それから、その目を少し細める。
「……誠とは、親しくなれたらしいな」
「あ、はい!」
ハッとして、ニコリと雪路は笑った。
「いきなり竹刀渡されて、一本勝負とか言われて、もう、どうしようかと思いましたけど……」
それ以来、うまくいきました、と声が弾む。
「それで、剣道教えてくれるって」
思わず少し身を乗り出して経緯を語り出す間、アントワーヌは言葉少なく、けれど端々に相槌を打ちながら聞いていた。
「誠さん、怒ると怖いですけれど、凄く頼りになるというか、頼もしい人ですね」
ニコニコと笑って話終える雪路に、アントワーヌは静かに頷く。そうして、少しだけ慎重さを感じさせる声で、雪路の名を呼んだ。
「……雪路、では、誠と何かあったわけではないな?」
「あ……」
当然、いきなり泣き出して、その理由を気にしないわけはなかったか、と。雪路はちょっと言葉に詰まる。
(イザベラや、カレンや……これからのこと……)
カレンを助けられない自分、イザベラに逆らえない自分。そのくせ、そんな自分が嫌で、そんな自己嫌悪から逃げたくて、家に帰りたくて泣き出して。
そう思い返して、雪路は数秒、逡巡した。
(……本当に一番嫌な目にあったのはカレンのはず)
自分は誰に直接苦しめられたわけでもなく、ただ自分だけで苦しんでいるだけなのだ。
(私がイザベラを悪く言うのは卑怯だ)
たとえば決闘前にカレンを助ける為に言ったのならともかく、もう全てが終わってしまってから言うのは、ただ雪路が救われたいからだけの他にない。
イザベラの行動が苛烈過ぎたのは事実かもしれなくても、イザベラがそれだけの事が出来る力を自分の努力で掴み取ってきたのも事実なら。その悪口を、自分が優しくして貰う為だけに誰かに言って良い人間なんて、百歩譲ってもカレンしかいないはずなのだ。
少なくとも、ただ横から怯えて見ていただけの雪路には、その資格はない。
だから、不安を誰かに聞いて欲しくて、けれども、それすら自分の情けないエゴに思えて、雪路はモヤモヤと口を噤んだまま、視線だけを怖々にアントワーヌに向けた。
すると、彼は静かに、首を傾げて雪路を見返す。
「言いたくないことなら言わなくてもいい。あるいは、話したい事なら聞こう。……一番、お前が楽になるようにしてくれ」
ただ案じてくれているのだと、雪路は気付いた。アントワーヌは、雪路が泣き出した理由を知りたいのではなくて、ただ、雪路がもう泣かないように、どうするべきなのか思案しているのだと。
雪路は数秒、間をおいた。
それから。
「……私」
ぽつり、と声は落ちた。
「……私、逃げちゃったんです」
そう、雪路は呟いた。
「私、自分の身が可愛くて、逃げちゃって……。何とかできたかもしれないのに……。ううん、何とかできなくても、ただ一言だけでも上げれば、きっと、少しだけでも、慰めには、なったかもしれないのに。何とかできるわけないって、言い訳して……」
言えるところだけ、誰かを悪役にしたり、理由にしたりしないところだけ。そんな説明にもならない独り言のような言葉でも、聞いてくれると言うのなら。
やっぱり、ひとりで考え続けるのは不安で、たとえ解決にはならないとしても、誰かに聞いて欲しくて、雪路はポツリポツリと、そう話す。
「しかも、こうやって反省してることで、ちょっとホッとしちゃってるんです。私、臆病かもしれないけど、酷い奴ではないな、って。免罪符みたいに、頭の奥底の方で、そう思ってる」
自分の声がそれを口にすると、ズシンズシンと、心臓に突き刺さってくるような罪悪感がある。けれども、それは口に出せないまま、漠然と頭の中をモヤモヤさせていた何かよりは、いくらかマシな気がした。
「それで、これからずっと、こんな風に不安な日が続くのかと思うと……逃げたくて……。帰りたくて、でも、帰れないかもしれないって、思って……」
雪路は首を左右に振った。
「……私、どうしようもなく、かっこ悪いなって……」
何もかもが不安で自分に苛立っていて、その事実に余計に不安が膨らんで。悪循環に嵌ってしまったのだと。小さく息を吐いた雪路に、そうか、と、アントワーヌの声が掛けられた。
「……お前が我が身可愛さで逃げたのは事実なのかもしれない。あるいは、それを後悔している自分を酷い奴ではないと正当化しようとしているのも事実なのかもしれない」
アントワーヌは静かに、そう言った。
「だが、それを自覚して、泣くほど足掻いているのも、紛れもない事実だろう、雪路」
その声に、雪路は目を瞬いた。
それは優しいのに、ごく静かで淡々としていたから。ただ優しいだけではなく、きっと正しく公正に考えている人の声だったから。
たぶんきっと、それは今の雪路にとって、この上ない赦しに近い声で。
「……そうやって足掻くお前を、俺は評価するし、おそらく誠も、そういう所を見込んでいる」
だから思い詰めるなと。それはまた泣きたくなるくらい、雪路が今一番、欲しい言葉だった。
けれど、だからこそ。
「……だめです!」
その瞬間、あっけないくらいに、簡単に、答えは出た気がした。
「だめです、私、だめなんです、それじゃ」
バッと顔を上げて、身を乗り出した。
ギュッと、目の前にある帽子を持った黒い手袋の片手、その袖口を掴む。
「今わかりました、私、ダメなんです。今、そうやって優しくして貰って、元気になっちゃ」
ヒリヒリ痛み出した喉と目の奥を、ギュッと、全身に力を入れて麻痺させる。
「だって、そうやって元気になるのは、きっと、誠さんやアントワーヌさんに褒められる私じゃない」
この人に、優しくして貰うのは嬉しい。でも、嬉しいからこそ、その優しさを今飲んじゃいけないと、雪路は真っ直ぐに金の目を見上げる。
(私、この人や誠さん、ウェンディ達に、好かれる私でいたい)
そう思う。そう思うから、逃げてはいけない。
(私が私でいるために、私が、ちゃんと顔を上げている為に。皆が好きだと言ってくれた、私自身が、かっこいいと思える私になるために)
逃げてはいけない理由なんて、本当は山のようにあったのだ。
それを放り出して逃げる方が賢いことも、正しいことも、知っていたから、今まで目を逸らしていたけれど。
(ちがう、賢くなんてない。正しくなんてない)
そもそもそこが間違っていたのだと、雪路は思った。
「辛くない方に逃げてるつもりだったくせに、結局、辛くて泣くくらいなら、それは間違ってる」
それは正しくなかったのだと、言い切れる。
きっと正解なんて無かった。間違いすらなかった。
どちらを選んだって、きっと辛いのだ。
「それなら、私は私が誇れる私でいたいです」
言い切った瞬間に胃の中に蟠っていた不快感を確かに掴んだ。掴んで、思い切り遠くにぶん投げた。
そうして雪路が真っ直ぐに見上げている先、銀の髪と金の双眸を持った人は、やがて、静かに目を細める。
「……そうか」
静かに、いつも通りに優雅な響きの声でそう言って、雪路が袖を掴んでいない方の手を、雪路の手に重ねた。
「あ、ご、ごめんなさい」
握り締めていた袖を慌てて放すと、黒い手袋の左手が、雪路の頭を優しく撫でた。
「いい子だ」
きゅうと、雪路の心臓は縮んだ気がした。パチッと弾けてしまいそうなくらいに膨らむ何かの衝動に、一瞬、声を失う。
(私、この人に、相応しい人になりたい)
閃くように刹那に、強くそう思った。この人に好かれる自分でありたい、この人に誇れる自分でありたい、この人の、隣にいられる自分になりたい、と。
だからこそ、きっと、これでいいのだと、自分の中で出た結論に自信が、覚悟が持てる。
そっと、雪路の髪を耳に掛けた手に、自分の手を重ねた。黒い手袋をした大きな手は、布越しでも、穏やかに温かい。
「私、いい子で頑張ります。いい子なんだって、自分で胸を張れるように」
だから、と、雪路は見上げたまま言った。
「また、きっと、次に会う時、頑張れていたら……。あの……」
少し視線を迷わせてから、雪路は、控えめに、照れを誤魔化すように笑う。
「……あの……、ほめて、くださいね?」
首を傾げた瞬間に、すり、と頬が掠めた手は、刹那小さく揺れた。金の瞳は一瞬だけ見開いて、それから、フッと細くなる。
「……ああ、約束しよう」
優雅で、歌うように甘い声で。確かに、アントワーヌはそう答えて微笑んだ。




