5-4
誠の鉱山とは違った意味で大変な一日を終え、屋敷に戻った夕刻。
イザベラ達に小馬鹿にされるのは嫌なので、仕事用の軍服スタイルから、フワッとした七分丈のスカートにカーディガンに着替えての帰宅。
手早くシャワーを浴びて、今日は食堂で夕食を取ろうと考えていた雪路は、スカートを片手で摘んで裾を少し上げ、もう片手を手摺に当てると階段を駆け登った。
(夕飯何かなぁ)
ウェンディがいる加工所は、どうやら今週は忙しいらしい。しばらく帰りの待ち合わせは出来そうにないとの事だったので、今週は必然的に食堂で夕食を取ることが多くなりそうだった。
(外の屋台と違って食べたい物は選べないけど)
寮や借家暮らしで、あまり設備の良くない小さな台所を共有しているという鉱夫や工女達は、だいたい、夜は彼等向けの格安の大衆食堂か屋台で済ませていた。彼等と仲良くしている雪路も、必然的に先週まではそういった所でウェンディ達と食べる事が多かったのだけれど。
(食堂の夕食は夕食で、好きなんだよね)
特権階級である花嫁候補達のために用意される食事は、相応に豪華だ。屋台や食堂の料理とて、味では甲乙付け難い、食べ物に上下はない、という主義の雪路だけれど、それでも、真っ白で優美な食器に美しく盛り付けられる食堂の料理には、お姫様気分になるのも事実。
(今日はどんなのかなぁ?デザートは何かなあ?)
ウキウキと鼻歌交じりに階段を登り切って、自室に向けて小走りに向かおうとした矢先。
ガシャン、という甲高い音に、ビクリ、と飛び上がって足を止めた。
「え?」
振り向くと、階段の右側。雪路の部屋がある廊下とは反対の廊下で、何やら事件が起きている。
「本当に、貴方、馬鹿ね」
イザベラが両腕を組んで顎を上げ、そう居丈高に言い放つ声が響く。
五人ほどの花嫁候補を引き連れたイザベラの前には、突き飛ばされたような格好で座り込んだ花嫁候補が一人。
(あの子、この前の……)
イザベラと階段ですれ違った夜、荷物を掻き集めていた人だと、雪路は目を瞬いた。
今日、その彼女はずぶ濡れで、床にはバケツが転がっている。
(え、まさかアレで水かけられたの?)
何だかきな臭いところに出くわしてしまったぞ、と、雪路は嫌な予感に顔を顰めた。関わらない方が良いと勘が働くけれど、しかし、見て見ぬ振りで自室に引っ込むには、とうに立ち止まってから長い時間が過ぎてしまっている。
(あの子名前なんだっけ……?ええと……)
今更遅いのだけれどひとまず気配は消しつつ。雪路は座り込んでいる相手の名前を思い出そうとしてみる。なにしろ二十人もいて、しかも多国籍な花嫁候補達だ。馴染みのない外国人名である事に加え、日中は仕事で顔を合わせる機会がないのも手伝って、正直、雪路は全員の顔と名前がいまだに一致しない。
うんうんと記憶を辿っているうちに、イザベラがダンッと片足で床を踏み鳴らす。
「カレン、アンタ前から思ってたけど、本当に頭おかしいんじゃないの」
「イザベラ、あの、私は」
「そうやって人の話の途中で話し出すとか。そういうとこよ。ウザイし腹立つし、非常識」
ピシャリと言い放つイザベラに、本当にそれ、と周りが同意を示して、カレンと呼ばれた焦茶の髪の彼女は慌てたように周りを見回す。
「でも」
「だから、最後まで人の話聞けって言ってるでしょ!」
見回した先に誰も味方はいなくて。焦った表情で再び口を開くカレンに、イザベラが更に怒声を上げる。
「虫が出るから部屋の鉢植え捨てろって、この前言ったじゃないの!」
ガチャン、と、イザベラが蹴り飛ばしたバケツがけたたましい音を立て、雪路は思わず飛び跳ねた。
「なのに、何まだ水遣りとかしようとしてんの?ねえ、アンタ馬鹿なの?皆に迷惑かけてんの分かんないの!?」
「……皆って……、なによ、皆じゃないでしょ!」
怒鳴りたてるイザベラに、とうとう、カレンも怒声を上げて立ち上がる。
「押し花作るから頂戴って、言いに来たくせに!」
取り巻きの数人を睨んだカレンに、あら、とイザベラは甲高く驚いて見せる。
「その時と今じゃ状況が違うでしょうよ!虫が出るなら捨てるべきでしょ!」
「たった三日で状況が変わる!?私の部屋には虫なんか出たことない!貴方の部屋に虫が出たなら、それは貴方が掃除してなかったからじゃないの!?」
「はぁ!?」
ドン、とイザベラはカレンの肩を突き飛ばす。
「信じらんない!何、逆ギレ!?アンタのせいで皆が嫌な思いしてるのに、言うに事欠いて、私の部屋が汚いみたいな!?」
最低、と取り巻き達が次々にイザベラに追随して批難の声を上げ、アワアワと雪路は無言で顔を歪めるしかない。
(あー……一番やっちゃいけない事しちゃったよ……)
カレンの気持ちは分かるが、ここで怒鳴り返してはいけなかったのだ。だってどう考えたって味方はいない。ここは穏便にひたすら謝っておいて、最悪、鉢植えは女中の工女にでも引き取って貰うべきだった。
(ほとぼり冷めた頃にコッソリ工女から返して貰うとか、もしくは、イザベラのご機嫌取って温室でなら育てて良いって許可貰うとか……)
面倒ではあるけれど、こうしてイザベラやその取り巻きを完全に敵に回す事に比べれば、そうやって妥協して頭を下げておいた方が総合的には面倒が少ないはずだったのである。
ハラハラと見ている雪路の前で、カレン自身、完全に自分が穏便に済ませる道を逸れた事は理解しているのだろう。濡れた前髪から覗くダークブルーの目は今にも泣きそうだったし、顔色は蒼白になっている。
こんな逃げ場のない集団生活の場で、〝誰も逆らえない〟と形容される、こんな性格の女王様を敵に回すのがどういうことか、年頃の女子なら容易に想像できるはず。
(これは絶対、いじめられるって……)
フォローしてあげたい気持ちはあるけれど、この場では何を言っても巻き添えを食って自分もイザベラの怒りのターゲットになるだけなのが間違いない。雪路は何も出来ないまま気まずく気配を殺していた。
「本当に、馬鹿なだけならまだしも、アンタ、どうしようもない自分勝手なのね」
吐き捨てるようにイザベラは言って、蒼白な顔で自分を睨み付けるカレンに向け、フンと鼻を鳴らす。
「あのね、その顔、きっとアンタが思ってる以上にブサイクだから、やめたら?しかも濡れてて汚いから、余計に惨めっぽくて見苦しいし」
それに対して答えずに、ギュッと拳を握るカレンを、クスクスと周りの取り巻きが笑う。
雪路は何ともいたたまれなくて無意識に視線を逸らした。
「何?自分が悪いくせに泣くの?アンタが自分勝手したから、皆に怒られたんでしょうよ?被害者ぶらないでくれる?」
イザベラの声が突き刺さって来て、そして、カレンは何も答えない。
「泣く前に謝りなさいよ」
その声に返答はない。
その沈黙が、カレンの最後のプライドなのだと思うと、視線を逸らしたまま雪路はたまらなく居心地が悪かった。
そうして、この上なく嫌な無言があってから、いいわ、とイザベラが不意に楽しげに笑った。
「あっそ。口で言っても分かんないほど馬鹿なのね、貴方」
じゃぁいいわ、と言う声に、おそるおそる雪路が視線を戻したところで、イザベラはカレンの肩をもう一度、ドンと突き飛ばした。
「決闘よ」
その言葉に、ハッとカレンが後退り、取り巻き達も一瞬凍り付く。
「今週末土曜の十四時。貴方に〝鏡の決闘〟を申し込むわ」
「……そんな」
「なに?自分が悪くないと思ってるから謝らないんでしょ?それとも、決闘となったら謝るの?」
煽るように笑うイザベラに、何か言い掛けたカレンは何も言えなくなって、ふらふらと、座り込んだ。
「申請は私がしといてあげる。アンタが勝てばアンタが正しかったって事にして、私が謝ってあげるわ」
そんな事はありえないと言わんばかりの顔で言って、イザベラはクルリと踵を返した。
「あら、雪路、おかえり」
こちらを振り向いたイザベラに声を掛けられ、ビクリと雪路は肩を跳ねさせる。
「た、だいま」
ぎこちなく、けれど無意識に笑いを顔に貼り付けていた。
「今からお風呂?」
「うん。着替えを取りに来たの」
「そう、お疲れ様。私は食堂に行こうと思って」
ニッコリと微笑むイザベラに、そうなんだ、と笑顔を貼り付けたまま雪路はいつも通りに答えた。
「イザベラも皆もお疲れ様」
「ええ、ありがと。また後でね」
そうして階段を降りて行くイザベラを見送って。
「……あの」
座り込んだままのカレンの方に、雪路はゆっくり近寄った。
「これ」
ずぶ濡れの彼女にハンカチを差し出した瞬間、パンッと、その手は払い除けられた。
「黙ってたくせに!」
怒声を上げて、カレンは立ち上がると、自分の部屋に駆け込んでしまう。
「あ」
「雪路!」
途端、階下でカレンの声を聞き付けたらしいイザベラが鋭い声を上げた。
「あんなの放っておきなさいよ」
「え」
「早く部屋に行ったら?なにしてるの?」
反射的に凍り付いた雪路を、階段下から見上げるイザベラは、値踏みするようにジッと見た。
「うん、でも、ほら」
ドキドキと、怯えで心臓が早鐘を打つのを、自覚している。
「床、濡れてるからさ。イザベラも皆も、ここ通るでしょ?拭いとかないと」
私やっとくよ、と自分の喉から出る笑い混じりの声を、雪路は聞いた。
すると、あら、とイザベラは満足そうに表情を緩める。
「あら、ごめんね、雪路。ありがとう。貴方って気が利くわね」
朗らかなイザベラの声に合わせて、ありがとう、とか、雪路優しい、なんて笑顔を向けてくる取り巻き達。
「ええ、褒めても何も出ないよー?ほら、皆、ご飯行ってきたら?」
適当に笑顔を貼り付けたまま、雪路の喉は勝手に軽い声を押し出している。
そうして、ガヤガヤと、すでについさっきの事なんて忘れたように食堂に向かうイザベラ達。
残された雪路は、彼女達を見送って、それから床の水溜りに視線を落とした。
そしてしばらく、そのまま、動けなかった。
「……わたし、かっこわる」
ようやくと呟きが出たのは何秒後か。
保身に走って、御機嫌取りまでして。プライドは酷く傷付いているし、モヤモヤと胃袋の辺りは気持ち悪い。
でも、これが正解だったのだと、頭は冷静に思ってもいた。
だってもしも、ここでプライドを捨てて御機嫌取りに徹しなければ、きっともっと、酷くプライドはへし折られて、そして、明日からの生活は途轍もなく悪い方に転がったのだから。
間違ってはいなかった、間違いなく正解だった。
でも、間違いなく自分は格好悪いと、雪路は思う。
「……なんか、もう疲れた。はやくお風呂入って、寝よう……」
夕飯を楽しみにしていた気持ちは萎み切ってしまって。
溜息を吐きながら、のろのろと、雪路は自棄糞気味に水溜りを片付け始める。




