3-10
朱色の空を移した川面は、けれどまだ弱々しい夕暮れの星よりもキラキラと眩しい、銀の水光を湛えている。
その銀と朱色が混じった水面の上、すいすいと宙を歩いて寄る雪路に、金の目は軽く一度瞬いた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
硬い地面を踏んで隣に立つ。早鐘というほどでもなく、けれど、いつもよりぎこちない気がする心臓を意図して意識の端に追いやり、雪路はちょっとだけ微笑む。
「あの、この前は、ありがとうございました」
「いや。送りもせずに悪かった」
「いえいえいえ!こちらこそ、食べるだけ食べて帰っちゃって!」
慌てて雪路が首を振ると、アントワーヌは小さく口角を上げて視線を川面に戻す。
「それが正しい客の振る舞いだ」
「でも、ほら帽子もですね……」
そうだ本題はそれだと、雪路は呻く。
「あの、すみません。本来ならちゃんと自分でお返しすべきだったんですが」
オロオロと上げた雪路の視線の先、アントワーヌは、今日、帽子を被っていなかった。
夕陽の中、柔らかそうな癖のある銀の髪は、そのまま晒されている。
「あの……ちゃんと」
「心配ない。偶然被っていないだけで、ちゃんと受け取った」
紫煙を揺らしながら、すぅ、と金の視線だけが振り向いた。
「何があって直接持って来なかったかも、だいたい分かる」
「ありがとうございます」
流石だ、と思わず心底感謝する。
「本当にごめんなさい。もう、私、あの時は焦り過ぎてて帽子掴んだまま帰っちゃって……」
心底息を吐くと心臓はいつもの調子を取り戻しはじめ、ようやくと、少し気安い声が出せた。
「藤埜大尉がいる!と思った瞬間、退却!退却!って感じになっちゃったから……」
「なんだ、そんなに誠が苦手か?」
小さく喉を鳴らして笑う姿に、やっぱり高級品種の猫っぽいなぁ、とちょっと思う。
「苦手というか……正直、ちょっと、怖い、です……」
「なるほど」
短くなった煙草はフッと燃え上がり、塵も残さず消え尽きた。
「確かに誠は怒ると迫力があるからな」
そう言って、笑った時に伏せていた視線を再び雪路に向け、アントワーヌは小さく口元を歪める。
「しかし、アレがエリックのように愛想良くしていたら、その方がゾッとするだろうよ」
「藤埜大尉が、エリックさんみたいに……ぅぁ」
一瞬想像して、思わず雪路は奇妙な声を喉から発した。
「なんて事を想像させるんですか!?夢に出たらどうしてくれるんです!?」
怖い怖い、怖過ぎる、と抗議すると、アントワーヌは再び笑った。
「想像以上に酷い言い草だな。愛想の良い誠は、お前の中では悪夢か」
「じゃぁ、アントワーヌさんはエリックさんみたいな藤埜大尉が目の前にいても平気なんですか!?」
途端、金の目はパチクリと瞬いた。そして一瞬の間を置いて、逸らされる。
「……なるほど、鳥肌ものだ。笑えない冗談だったな」
「私より酷い言い草ですよ、それ」
「そうか?」
抗議する雪路に肩を竦め、また愉快そうに低く笑って。
けれど、アントワーヌはそこで視線を川とは反対方向に向けた。
「……そろそろ仕事に戻る必要があるようだ」
「あ」
あちこちの鉱山から、魔法の鐘の音が聞こえて来る。平日ならば鉱山の終業を、休日ならば、夕飯時を報せる音色。
「すみません、貴重な休憩時に」
慌てて言う雪路に、いいや、とアントワーヌは首を振った。
「いいや、有意義だった」
ふっと笑って挙げたその手には、どこからか、いつもの帽子が現れて。
「今夜は少し、厄介な仕事がある。しかも長丁場になりそうでな。気が滅入り掛けていた」
話していて気が紛れたと、そう笑いながら、深まり出した闇に紛れるように黒い帽子で銀の髪を隠して。
「長丁場……徹夜とかに?」
雪路の問には、曖昧に首を振った。
「そうはならないよう努力するつもりだ」
忙しいのだな、と雪路は少し眉を寄せた。イザベラが言っていた、忙しい人、というのは、確かに本当らしい。
「あの、夕飯とかは?」
「隙を見て、そのうち」
「良かったら、どうぞ」
差し出したのは、抱えたままだった紙袋のひとつ。
「甘い物だし、夕飯にはならないと思いますけど……」
小腹のツナギくらいにはなるだろうと、首を傾げる。
「あ、甘い物、ダメな人ですか?」
「……いいや」
少し面食らったように間を持ってから、アントワーヌは首を左右に振り、ひとつ、紙袋を受け取った。
「Merci」
穏やかな謝辞。そして、そうだ、と付け加える。
「……俺も甘い物は嫌いではないが、誠は、アレでかなりの甘党だ」
「え!?」
意外過ぎると目を見張る雪路に、フッと口角を上げ、アントワーヌは言った。
「金平糖に芋羊羹、それからカステラとマロングラッセ……。誠が特に好きなのは、そんなところか」
「へぇぇ……」
「これは怒るぞと思った時は、甘い物でも投げ付けて、逃げてしまえば良い」
「へ!?」
「誠は確かに癖がある男だが、決して捻じれてはいない。慣れれば実に誠実で頼もしい人となりだ」
そう言って、器用に片目を閉じてみせて。
「お前が真摯に戦う限り、誠はそれに敬意を払う。だから金平糖でもぶつけるくらいに、アイツにはむしろ強気でいけ」
「そんな、鬼に豆撒くみたいな……」
目を見張っているうちに、愉快そうな顔のアントワーヌの周りには霧が生じて。
「良い夜を、雪路。会えて良かった」
歌うように優雅な声だけを残し、霧が晴れたそこから、当の本人は消えていた。
「……最後にポロッと、心臓に悪いこと言うんだからなぁ、もう……」
相も変わらず、ずるい人、と雪路は思わず顔を抑える。




