01.お母さん、前世とサヨナラ
「わたしの人生、いったい何のためにあったんだろう」
市の健康診断で再検査の通知を受けた。六十一歳、年を考えればどこかしらガタはくるものと思っていた。年中、腰は痛いし、老眼で手元が見えづらい。ちょっと歩けば疲れるし、筋肉痛は三日後でも早い。そんなこと……どんなに気を付けていても年だからと思っていた。
けれど、再検査の結果は、年齢とは全く関係のないもので、先生からは家族の立ち合いをお願いされた。
「大腸がんです」
医師は淡々と説明する。血管がどうの。若いから進行が早いと説明を受けた。震えるわたしの手を握って一緒に診断結果を聞いてくれたのは嫁の愛子さんだった。
「余命は半年です」
重々しく告げられたその言葉は、まるで実感がなかった。
だって、十一月には孫の玲奈ちゃんの七五三がある。玲奈ちゃんのために着物と、ワンピースを縫う予定だった。孫の好きなアニメのキャラクターをリクエストされた。それに漬けた梅酒もまだ、氷砂糖の形が残っている。
愛子さんが、治療計画を聞いているあいだ、わたしは窓の外を見ていた。
商業高校を出て、短大に入り就職した。
そこで夫と出会い、二十三歳の時に……いまどきは授かり婚というらしい……をして。以来、専業主婦として家族のために頑張っていた。
朝ご飯、お弁当。掃除、洗濯。
子どもが学校に入ると、子ども会や学校行事。専業主婦だからとPTAの役員もやってきた。婦人会のボランティアや、消防団の婦人会。夫は近所の人とはあまり話さないから、わたしがすべてやってきた。
家族が困らないように。
家族が恥をかかないように。
家族が快適に過ごせるように。
先回りして、段取りをして。何不自由のない生活が送れるように、心を砕いてきた。
「定年したら、旅行にでも行こう」
夫がこの前そんなことを言っていた。
「行き先は真子ちゃんに相談しよう。いっぱい旅行に行っているみたいだし」
有馬温泉でカニが食べたいなんて、わたしの希望は聞いてはくれないのね。
真子はわたしの妹。独身で実家暮らし。昔から自由な子だった。
「結婚なんて、頭がおかしくなきゃできない」
そんなことをわたしに言ってくるような子だ。
「……お義母さん」
愛子さんが不安そうな顔でこちらを見ていた。わたしは安心させるように微笑んでみせる。
「今日は玲奈ちゃんの好きなチーズの入ったハンバーグでも作ろうかしら」
わたしはまた、明るい窓を見た。
「もうすぐ夏ね。半年だと……七五三と、クリスマスは一緒に過ごせそうね」
「……お義母さん」
愛子さんが泣き出してしまった。
「ありがとう。愛子さん」
わたしの代わりに泣いてくれて、なぜかわたしは泣けないの。
◆◇
調子の良くない日が少しずつ増えてきていた。
「さっさと、入院させろよ。俺は面倒みれないよ」
体調が悪くて、部屋で寝ていると息子の声が聞こえてきた。
「あなたはずっと見ていないじゃない。私が頑張るから」
「俺の世話は誰が見るんだよ。玲奈だって」
わたしのせいで夫婦げんかをしているようだった。わたしが「できるだけ、家で過ごしたい」とわがままを言ったからだ。
「父さんの嫁だろ。父さんが世話しろよ」
「俺には仕事がある。愛子さん、就職活動中で家にいるんだろ」
ああ、夫の声は不機嫌そうだった。
「莉子は?」
「あいつはやっと、就職できたんだ。家族の介護までできないだろう。彼氏との生活もあるだろうし」
莉子はこの前、彼氏と結婚するかもしれないと家を出ていった。わたしが病気のことを伝えた日だ。家のことをお願いねと言うと「無理」と言われてしまった。
「じゃあ、真子さん呼ぼうぜ」
「真子ちゃんだって、仕事があるだろ」
夫が真子をかばっている。この人はまだ……。
ずきりと胸が痛んだ。
夫は三十年前、わたしの妹と浮気をしていた。二度目の流産で気落ちしていたわたしを「鬱陶しい」と言って、家に帰ってくるのが遅くなった。
あの時も浮気のことで妹を責めると、夫は妹をかばった。
あの時のやるせなさや、憤りは今思い出しても呼吸が苦しくなる。
なのに、浮気が発覚して三年後、よりにもよって真子が妊娠した。
真子は子どもは育てられないから、施設に入れると言った。両親はそれを聞いてわたしに「お前の夫の不始末」と言い。「孫を施設には入れられない、淑子が育てろ」と言った。「他人の子をなぜ」と言えば、「他人ではない家族だ」と言い返された。
生まれたのは女の子。莉子と名付けて戸籍上でもわたしの娘にした。
涙が流れる。
ああ、大事に育てたつもりだった。甘やかさない。言いなりにならない。だけど、それが裏目に出た。
真子は勝手に許されて、我が家に出入りし無責任に莉子を甘やかした。
「ママ嫌い。真子ちゃん好き」
娘に何度言われたろう。そのたびに歯を食いしばった。
重い身体を起こして、話し合いをしている部屋に入った。
「お義母さん」
愛子さんがわたしを支えてくれた。
「わたし、緩和ケアに入るわ」
夫と、息子が明らかにほっとした顔をした。死に際くらい家族といたいというわたしの願いは彼らには負担だったようだ。
「そんな!」
愛子さんが悲痛な声を上げる。
「いいのよ。ありがとう、愛子さん……申し訳ないけど、うちのことよろしくね」
本当に素敵なお嫁さんをもらえた。
「ああ、それなら愛子に任せとけ」
息子が答える。
「たまに、真子ちゃんも寄ってくれるって」
夫がそう言う。
勝手に昔のことを水に流し、なにごともなかったかのように、ただの親戚として真子を扱う夫をつい睨んでしまった。
「わたしがいない家に真子を入れないで」
思わず強い言葉が出た。
夫は目を合わせず、ふいっと他所を向く。この人は最後までわたしの傷を軽く思っているんだわ。
それから。
やっと、七五三用のワンピースを縫い終えた頃、手が震えて針を持つこともままならなくなった。クリスマスを過ぎて、年始、家に帰ることを拒否され、愛子さんと、玲奈ちゃんと病院のベッドでおせちを食べた。
バレンタインの頃に突如として、目が見えなくなった。そこからは息をするのさえ苦しかった。起きているのか、寝ているのかもあいまいで。
ああ、家族のために生きてきたつもりだった。自分がそれを選んできたと思った。だけど、今残るこの寂しさと、虚しさは何だろう。
「わたしの人生、いったい何のためにあったんだろう」
ピ――――。
近くにあった機械から無機質な音が響いた。




