月神
茜が横に並び、夜の異界を落ち着きなく見渡している。
空は墨を流し込んだように黒く、星の一つすら存在しない。
「ここが……月神の世界なんだよね?」
「あぁ、間違いない」
声は平静を装っているが、わずかな硬さが混じる。
さっきの削僧の言葉――“贄”。それが頭から離れない。
(生贄を求める神格……碌でもない類だな)
思考を巡らせた、その時だった。
ぐい、とコートの裾が引かれる。
「宝兄さん……あそこ」
「……?」
茜の指が空を指す。
何も無いはずの闇の中心。
そこに――“満月”が浮かんでいた。
だが。
それは、明らかに“おかしい”。
「月……?」
輪郭が歪んでいる。
静止していない。脈打っている。
そして次の瞬間――
膨張。
視界いっぱいに広がるほどに肥大化し、地上へと“落ちてくる”。
「来るぞ!」
「うん!」
空間が軋む。
圧縮された妖気が、空気を物理的に押し潰している。
(上位存在――間違いない)
月の表面が、ずるりと歪む。
三日月のように欠け、窪みが“顔”へと変形する。
そして――
ギロリ。
巨大な“眼”が、開いた。
《『特妖』|月神》
青白い瞳孔。
感情という概念を持たないはずの存在が、歪んだ愉悦だけを滲ませている。
口角が、裂けるように吊り上がった。
「贄を捧げよ……」
風の抜けるような、空洞じみた声。
音というより“現象”が鼓膜を撫でる。
その瞬間。
――ドゴォッ!!
茜の足元が爆ぜた。
「っ!?」
反射的に茜を蹴り飛ばす。
次の瞬間、地面が槍のように隆起し、彼女のいた座標を貫いた。
吹き飛ばされた茜は、砂利を滑りながらも武器を展開。
「うぅ……ありがと!」
「問題ない」
俺は炎を凝縮し、大剣を形成する。
蒼い炎が刃となり、空気を焦がす。
「完全に敵対だな」
「情報収集どころじゃないね……!」
(さっきのは地面操作……いや、もっと広い)
同時に、俺たちは動いた。
月神へ一直線。
だが――
意識は、完全に俺へ固定される。
[『重力妖術』縦帯]
空間が歪む。
次の瞬間、頭上に“質量”が発生。
――隕石。
圧縮された重力塊が、ピンポイントで降り注ぐ。
「なるほど……重力干渉か」
踏み込み、振り上げる。
――ズバァン!!
一刀で隕石を両断。
破砕された岩塊が、周囲に散弾のように降り注ぐ。
その隙に。
茜が背後へ回り込んでいた。
[『夕立妖術』夕蜘蛛]
光が紡がれ、網状の斬撃が展開。
空間ごと引き裂く無数の刃が、月神を包み込む。
直撃。
――だが。
「……え?」
無傷。
斬撃は確かに通ったはずなのに、表面に一切の変化がない。
その直後。
地面が唸る。
砂利が凝縮し、巨大な岩槍となって茜へ射出。
「それくらい読めてる!」
[『夕立妖術』夕立]
光弾が放たれ、岩槍を正面から貫通。
内部から崩壊し、粉砕。
衝撃波で視界が一瞬白く染まる。
その刹那。
俺はもう、間合いにいる。
光を置き去りにした加速。
地面がクレーター状に砕け散る。
「まずは一発だ」
蒼炎を圧縮。
拳大のエネルギー塊を、あの眼球へ叩き込む。
――ドォン!!
爆炎。衝撃波。
空気が焼け、砂利が蒸発する。
だが。
煙が晴れた先にあったのは――
「……無傷か」
同じ顔。
同じ笑み。
何一つ変わらない。
「贄を捧げよ……」
繰り返す。
壊れたレコードのように。
そこに意思は無い。
ただ“機能”として言葉を発しているだけ。
「なるほどな……」
(能力無効化じゃない)
俺は月神の周囲を高速周回する。
炎撃、斬撃、打撃。
コンマの時間で百を超える攻撃を叩き込む。
衝撃の連鎖で大気が震える。
だが……一切、効いていない。
「……どういうカラクリだ?」
何処かから、受けたダメージと全く同じ量の揚力が供給されている?
それとも、ダメージは受けているが無傷に見えているだけ?
月神の巨大な眼が、こちらを覗き込む。
理解した獲物を見下ろすように。
(気持ち悪いな……)
攻撃は命中する。
当たり判定もある。
しかし……ダメージが入らない無敵の神。
「面白いじゃねぇか」
口元が歪む。
「壊し甲斐がある」
攻略法は分からない。
だが……それは戦いの中で見つけていくものだ。
蒼炎がより深く、禍々しく燃え上がった。




