11月1日-6
「・・・・・・くん。しゅ・・・・・・ん・・・」
「………」
「瞬くん、起きて。もうこんな時間だよ……」
「んん……?」
……どこからか聞こえてきた声に、ぼうっとしたまま、まぶたを開くと、僕の顔を覗き込むようにしている誰かの顔が目に入ってきた。
「ん……んん? あ、綾?」
「もぅ、そうだよ。まだ寝ぼけてるの? くすくす……」
「………?」
ふと僕は、自分の頭が固い床ではなく、なにか妙に心地いい…柔らかいものの上に置かれていることに気がついた。
「…あ、床のままだと痛いかなって…。嫌……だった?」
ぼんやりした視界のままでも、掛けと敷の両方に使っていたシーツは床に敷かれ、掛け布団は綾の制服の上着に代わっているのが分かった。
おまけにありがたいことに、いつの間にか僕の頭を、綾が自分の太ももの上に置いてくれていたらしい。まったく良く出来た「妹」である。
「とんでもないよ。ありがとう、おかげでよく寝れ…ん…?」
身体を起こしてメガネもかけたものの、まだ意識がはっきりしない。ふと窓を見ると、外はわずかに薄暗くなりかけている。あれからかなり時間が経っているようだった。
「うわぁ…そっか。そんなに寝てたのか…僕…」
「…うん。ぶつぶつ寝言まで言ってたよ? こんなところでぐーぐー寝られるなんて…瞬くんってホントお気楽っていうか、まるでの○太くんだよね」
ツンデレ喫茶の影響なんだろうか。素に戻ってるはずなのに、妙に綾の言動が辛辣だ…。
「…ごめん。っていうか綾、そういえばなんで…僕がここにいるって……?」
上着を綾に返しながら言いかけて、僕は…ふと違和感を…疑問を感じた。
……いつから、いや、それよりも、どうして綾は僕がここにいるって分かったんだ……?
「えっと…一時間ぐらい前かな。先輩が少し休んでいいって言ってくれたから、瞬くんを探しにここに来たの。ちゃんと見ててって言ったのに、いつの間にか消えちゃったんだもん」
「う……、ご、ごめん。朝から絵依子に振り回されて、ちょっと疲れちゃったんだよ…」
「きっとそんな感じじゃないかなぁと思ったよ。だから瞬くんが居そうな場所…ここに来たの。瞬くん、前はここにずっと入り浸りだったもの」
聞いてみれば不思議でもなんでもなかった。確かに僕のことをよく知ってる人なら、僕がここにいることぐらいは簡単に予想できるだろう。
綾の答えは納得の行くものだった。……でも、なぜか僕を見る綾の表情に、なにか言い知れない不穏な色が…見えた。
「いちおうね、何回も起こしたのに全然起きてくれないんだもん。だからずっと瞬くんの寝顔を観察してたんだよ。そしたらね、ふふふっ……」
…くすくすと笑っているはずの綾の顔が……なぜか堅く、ぎこちない。顔は笑っているのに、目だけは笑っていない。
まるで作り物のような…無機質な笑顔に…じわりと僕の背中に汗が滲んだ。
「……ね、瞬くん。寝言で何て言ってたか……教えてあげようか?」
「…いや、いいよ。起こしてくれてありがと。じゃあ戻ろうか……」
「…絵依子」
「え……?」
「絵依子って。瞬くん、寝てる間、ずっと言ってたんだよ。絵依子、絵依子って。ふふふっ……」
言いながら僕を見つめる綾の表情は硬く、くすくすと笑う声には、かすかな悪意のような色が…混じっているように感じた。
なにか…綾の様子というか雰囲気が…明らかに変だ。胸の奥が大きく…ざわざわとざわめく。
「…とにかく教室に戻ろう。あんまり遅いと谷口くんたちも心配して…」
立ち上がり、僕は美術室の扉に向かおうとした。その時。
ぱさり。
「………?」
何かが床に落ちる音がした。
思わず振り向いた僕は……目の前で起きている事態がとっさに理解できなかった。
……綾が僕のすぐ目の前…に……立っていた。制服を投げ捨て、シャツのボタンを外しながら…。
「あ……綾……? な…何を……」
シャツからのぞく白い肌と淡いピンクの下着に、思わず目が釘付けになりそうになる。
あわてて目をそらそうとした瞬間、綾の声が響いた。
「ふふふっ……。膝枕は効かなかったみたいけど、やっぱり瞬くんも男の子なんだね。ちょっと安心しちゃった。ふふふっ」
胸元を大きくはだけた綾が、まるで熱にうかされたような表情でつぶやいた。
こんな…こんな綾を見たことは今まで一度もない。
いったい…急に何がどうなってるんだ……!?
「ね? 私…胸おおきいでしょ? クラスでもたぶん一番なんだよ? エコちゃんなんかより…ずっとずっと大きいんだよ……」
「な…、お、おまえ…何…言ってるんだよ……?」
口からとっさに、反論とも疑問ともつかない声が出た。でも…まるで綾の胸からは磁力でも出ているかのように、僕はそこから視線を外すことが出来なかった。
確かに制服の上からでは想像もつかないほど、大きく豊かな胸は、絵依子なんかとは比較にならない。
でも。
「え……絵依子は関係ないだろ!! あいつは…妹なんだぞ……!」
まだ何かをぶつぶつとつぶやいていた綾の声を、僕は自分でも驚くぐらい大きな声でさえぎった。でも、その声などまったく聞こえていないかのように、表情を少しも変えずに綾がゆっくりと僕に近づく。
「ほら…もっと見て。私を見て。エコちゃんじゃなくて…私を…」
再びの綾の意味不明な言葉に、思わずカッと頭に血が上る。でも、そのおかげで僕はようやく綾の磁力から逃れられた。
「いい加減にしろ!! 絵依子を……妹を引き合いになんか出すな!」
なかば叫ぶように言葉を叩きつけたものの、表情は微動だにしないまま、僕に近づく綾の足は止まらない。余りの異様さに、また僕の背中にじわりと汗がにじむ…。
……何が理由かは分からない。でも、今の綾は……明らかに変だ。
どうしたらいい…? どうすれば綾を正気に戻せる?
…いっそ2、3発でも引っぱたいてみるか? それとも保健室から先生を呼んでくるか…?
ぼうとした綾の目を睨みながら考え続けていると、突然その足が止まった。そして……ゆるいカーブを描いていた綾の唇が…ぱくりと割れた。
「妹……? 何…いってるの? エコちゃんは瞬くんの妹なんかじゃない。忘れたの? 絵依子ちゃんはもう…いないんだよ…?」
「・・・・・・・・・・・・!!??」
綾の言葉に……頭に昇りかけていた血が、一瞬で落ちていくような感覚に…僕は襲われた。
なにを…何を言ってるんだ?! こいつは……!
「な…何を訳の分からないこと…。絵依子は…さっきだって一緒だっただろ!」
「…うん。そうだよ。でもね、やっぱり絵依子ちゃんはもういないんだよ。くすくす……」
おかしそうに笑い声を上げる綾の顔には、今も氷のような笑顔が貼り付いている。その様に…いったんは下がった血が再び頭に昇る…!
「ふ…ふざけてるのかっ! 絵依子は……絵依子は死んでなんかないッッ!!」
ドンッ!!
思わず僕は綾の両肩を掴み、そのまま壁に押し付けた。それでも僕の目の前…息がかかるほど間近な綾の顔には、焦点がまるで合っていない目のままの、凍ったような笑いが張り付いている。
…何かがおかしい。何かが…狂っている。それはもう間違いない。
「………ッッッ!!!」
目の前の狂気が感染したのか、僕の思考もじょじょに狂気めいたものになっていくのが感じられる。
だけど狂っているのは綾なのか、僕なのか、それとも…この世界そのものなのか。
いつからなのか。今朝からなのか、昨日からなのか、それとももうずっと…最初から狂っていたのか。
いくら考えても…分かるはずがない……!
「…お前は……誰だ?」
ふいに…口からそんな言葉が漏れた。いま、目の前にいる女の子は…綾じゃない。
少なくとも…僕の知っている綾じゃない!
「くすくす……、おかしな瞬くん。私は私だよ。私は瞬くんの「幼馴染」の……加賀谷 綾だよ?」
「ウソだっ! 本当の綾をどこにやった! 返せよ!」
そんな訳があるはずがないことぐらい自分でも自覚している。それでも…それでも僕は叫ばずにはいられなかった。
「…ねぇ瞬くん…。本当の私って………何?」
「え…? な、何って…それは……」
突然の意味不明な言葉に、一瞬言葉に詰まった僕を見る綾の表情は……さっきとは一転して悲しげで、目にはなぜか怒りの色さえ湛えていた。
「瞬くんは私の何を知ってたの? 何も知らない……うぅん、知ろうともしなかったくせに……! 瞬くんが見ていた方が偽物で、今の私が本物だとしたら……どうするの?! ねぇ!!」
「………!!??」
……叩きつけるような綾の声に…思わず僕は言葉を失った。こんな風に綾が激しく感情をぶつけてくるなんて、今まで一度も無かったことだ。
もう10年以上にもなる付き合いの中で、ただの一度も…こんなことは無かった。
「……瞬くん、前に言ってたよね。私と瞬くんは兄妹みたいなものだって」
「そ、そうだよ。僕にとっては…おまえも絵依子と同じ…妹みたいに大切に思ってきたんだ」
血のつながりこそ無いけれど、これまで一緒に過ごしてきた時間は、そんなことなんか関係ないぐらい、僕たちの絆を深めてきたはずだ。
…たまに話に聞くような、カタチだけの家族なんかよりも、ずっとずっと確かな絆だと僕は信じてきた。だから……。
「ふぅん……。でも瞬くんはエコちゃんのことが…好きなんだよ? 私じゃなくて…エコちゃんのことを」
「……ッ???!!!」
「私のことなんか何とも思ってないくせに、瞬くんはね、エコちゃんのことが好きなの。違う…?」
…突拍子もないことを言いながら、またくすくすと可笑しそうに綾が笑う。
その表情は…さっきの時と同じだ。
のっぺりと顔に貼り付けただけのような……得体の知れない恐怖すら感じる…あの……!
「だから……絵依子は妹だ! あいつを引き合いに出すなって言ってるだろ!
「あぁ…じゃあもし…エコちゃんが『妹』じゃなかったらどうするの? 赤の他人だったら…ちゃんと好きって言えるのかな?」
「………!!!!!!!」
押し寄せてくる恐怖を振り払うように、僕は思わず叫んだ。でも、その言葉に返ってきた綾のセリフに……僕は絶句してしまった。
絵依子が死んでいる、というふざけた言葉に続いて、今度は…あいつが妹じゃない、他人だと?!
「お…おまえ…いったい……なにを……」
僕はそれだけを喉から絞り出すのがやっとだった。
「くすくす……くすくす……」
「わ…笑うなぁッ!! いい加減にしろっ! 綾ッッ!!!」
瞬間、僕の声がようやく届いたのか、綾の笑い声が……ぴたりと止んだ。