10月31日
-10/31-
「じゃあお先に失礼します。お疲れ様でしたーー」
「おーぅ。お疲れさーん!!」
夜10時を少し回った頃、ようやく今日のバイトが終わり、店を出てから僕はようやく一息をついた。ありがたいことに、先日の飲み会の分は何とか3日間のタダ働きで済んだ。
「さーて……。コンビニでカリガリくんでも買って帰りますかぁ…」
労働の後のアイスは実に美味しい。もうそんな季節でもないけれど、バイトの後のカリガリくんは、そんなことなど関係ない。大きく伸びをしながら、僕はしばし、この後の至福の時間に思いを馳せた。
…なんとも安上がりに出来てる自分がちょっぴりだけ悲しい。
駅前の辺りまで戻ってきた時、ふいに何か妙なものが目に留まった。
まだあちこちネオンが輝いてるとはいえ、ビルとビルの間には光の届かない「隙間」もたくさんある。その影の部分に…何やら白っぽいものが動いたのが見えた。
「…………?」
とっさに目を凝らしてよく見てみると、その物体は…人のようだった。壁に手をつき、背中をかすかに上下させているのが、メガネをかけても1.0ない僕にも何となく見えた。
「…やれやれ。飲みすぎちゃったのかな」
今日も店でぐでんぐでんになるまで大学生が飲みまくっていたことを思い出し、僕はバッグからいつもの水筒を取り出した。
「大丈夫ですか? これ、お茶です。良かったら…」
「……ッッ!!!」
飲みすぎて気分が悪くなった時は、何よりまず水分を補給するのがいいらしい。お茶を注いだコップを手にしながら、壁を向いてうずくまったままのその人に、僕は出来るだけソフトに声をかけた。かけたつもりだった。
なのに、その人の背中が…まるで幽霊にでも声をかけられたように、大きくびくり、跳ねた。
「あ、す、すいません! お、おどかすつもりじゃ…」
あまりにびっくりした様子に、あわてて僕は謝った。でも、ゆっくりと振り向いたその人の顔が見えた瞬間…今度は僕が息を呑んだ。
「…え…… 絵……依子!?」
…振り向いたその人は…女の子だった。
でもその「顔」に僕は…声を失った。
振り向いたその顔は……絵依子と………同じ顔…?!
「……あの…?」
「……あ…っ…」
少しの間、僕の中の時間は完全に止まっていた。それほど呆然としていた僕は、ふいにかけられた声にやっと我に返った。
「…あの、どなたかとお間違えですか…?」
「……え…? ……あ……」
「………?……」
「え…あ、いや、その…、だ、大丈夫……ですか?」
思わず声がひっくり返りながらも、何とかそれだけを絞り出せた。
絵依子そっくりの女の子は……いつの間にか落としてしまっていたコップを拾い上げてから静かに立ち上がり、小さく笑った。
「…はい。ありがとうございます。もう大丈夫ですから」
そう言ってコップを差し出してきた女の子の顔を見た時、僕はまた驚いた。
…いや、よくよく見ると……この人はまるっきり絵依子と似ていない。さっきは…見た瞬間は絵依子にそっくりだと思ったのに、
歳はたぶん…絵依子とそうは違わないように見える。でも、髪型や服装が全然違うし、何より…雰囲気がものすごく上品というか気品があるというか、とにかく大人っぽい。少なくとも僕より年上なのは間違いないだろう。
なのに…いったい何だったんだ? さっきのは……。
「…あの? どうか…しましたか…?」
思わず目をゴシゴシとこすっていると、怪訝そうな表情で女の子が僕をじっと見つめていた。
あわててコップを受け取りながらも、また僕は我を忘れていたことに…改めて気づかされた。
「ぁ、い、いえ、別に何でも……。そ、それよりホントに大丈夫ですか? 気分が悪そうに見えたので…つい…」
「はい。少し休んだので…もう平気です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
…彼女の上品な言葉使いが耳に心地いい。仕立ての良さそうなグリーンのケープに薄い黄色い帽子をかぶったその子…いや、その人は、今はもうどこからどう見ても、絵依子とは別人にしか見えなかった。
ぺこり、とお辞儀をした女性からは、お酒の匂いはまったくしていなかった。ということは、何かの持病か…貧血とか…だったんだろうか。
「それでは失礼いたします。ごめんくださいませ」
「ちょ、ちょっと待って!」
また小さくお辞儀をした女性が、するりと横を通り過ぎていくのを、僕はあわてて呼び止めた。
「…まだ…何か?」
「こ、こんな時間に女の子が一人歩きするのは危ないですよ。家まで送りますよ」
この近辺の治安は、正直言ってあまり良くない。特に今ぐらいの時間はまだ人も多く、何かとトラブルが多いらしい。
そんな所に、さっきまで具合が悪くてうずくまっていたような女性…女の子を置いて知らんぷりなんて、いくらなんでも出来るわけがない。
…何より、僕の頭の中には例の「作 和夫」のことが浮かんでいた。昨日かなえさんが言っていた通りならいいけれど、あいつがまた動いているとも限らない。
もしそうなら僕一人でどうにかなる訳はないけれど、いよいよとなれば名刺にあったかなえさんの番号に電話すればいいし、メディウムぐらいなら家にいる絵依子を呼び出せばいい。
「いえ…お気遣い無く。宅はすぐ近くですので」
「あ……ちょ、ちょっと……」
あくまで僕の申し出を固辞し、またぺこりと頭を下げてから、不思議な雰囲気の女性がすっと横を通り過ぎて行った。言葉こそ丁寧なものの、そこには……はっきりとした拒絶の意思が感じられた。
思わず振り返り、後を追おうと一瞬思ったものの、どこか近寄りがたいオーラをまとった女性は、見る見るうちに夜の暗闇の向こうに消えていった。
「…いったい何だったんだろう……」
ぽつりと思わず独り言が口からこぼれた。追うべきかどうか迷ったものの、ああもはっきり拒絶されたにもかかわらず後をつけていったら、それこそストーカーか変質者だ。下手をしたら僕自身が通報されかねない。
仕方なく僕も足を家に向け、歩き始めた。
・
・
・
・
コンビニでヤングジャンヌと少年チャンポンを立ち読みし、カリガリくんをガリガリ食べながら、11時近く前にようやく僕は家に帰りついた。
「ふぅ…ただいまー」
「おかえんなさい。バイトはどう? もう慣れた?」
「…まぁ何となくは…かな。ところで…絵依子は?」
いつもなら玄関までばたばたと迎えてくれるはずの絵依子が姿を見せないことに、僕はちょっとだけ肩透かしを食らったような思いに囚われてしまった。
「あの子ならもう寝ちゃったわよ。ご飯は食べてきたんでしょ? お風呂沸いてるから、あんたもさっさと入って寝ちゃいなさい」
「…うん。分かったよ」
母さんの勧めに従い、今日の疲れを癒すべく、さっそく風呂場に向かおうとした時。
「あ、そうそう、さっき綾ちゃんから電話があったわよ。明日から学校に行くから、またよろしくって」
「え……、あ、綾が? そっか…!」
母さんからもたらされたニュースに、僕は少しだけ驚いた。
もっとも、何日か前にお見舞いに行った時にもあれだけ元気な様子だったわけで、近々復帰する、というような事をおばさんも言っていた。その日がついに来た、というだけのことだ。
もちろんそうは言っても、これでまた以前のように、3人で学校に通えるということが嬉しくないはずがない。僕は静かに喜びを心の奥で噛み締めた。
「……ようやくこれでいつも通りだなぁ。そういえば母さん、今日は仕事は?」
「もうちょっとしたら出るから、戸締りちゃんとお願いね。朝のおかずは冷蔵庫に入れてあるから」
「うん。了解」
吉報に足取りも気持ち軽くなりながら、改めて僕は風呂場に向かったのだった。
・・・ざあぁぁぁっ
「…ッッ~~~~~~っっ!!!」
風呂場に入り、いつものようにかけ湯をした瞬間、僕は飛び上がりそうになってしまった。絵依子の後のせいか、信じられないほどお湯が熱かったのだ。
あいつはいつもこんなのに入ってたのかと、僕は怒るより先に呆れてしまった。ガス代だってバカにならないっていうのに。
「よし…こんなもんかな」
あわてて水を足してから、恐る恐る手を突っ込んだお湯は…ほぼいつも通りの温度になっていた。
いつもは絵依子が後に入るせいで、あまりぬるめにはできないけれど、今日はその心配もない。
久しぶりに僕は思う存分、身体をじっくり、とろ火で温める事にした。
「それにしても…さっきは驚いたな…」
バカ妹に心の中で毒づきながら、首までお湯に浸かりながら目を閉じていると、ふいにさっきの女の子の顔がぼんやり頭に浮かんできた。
初めこそ絵依子とそっくりに見えたものの、よくよく見れば丸っきり似ていなかったあの人は…いったい何だったんだろうか。
気品があるというか、どこかお姫様のような雰囲気すら漂わせていたところを考えると、もしかしたら良いところのお嬢さんなのかもしれない。
「…そんなお嬢様が、あんな時間まで夜遊びだなんて、まったく世も末だよな…」
我ながら柄にもなくこの国の行く末を案じていると、だんだんと頭がぼーっとしてきた。思いのほかバイトで疲れたのか、いつもよりのぼせるのが早い気がする。
「さて…そろそろ出よ」
じっくりことことと、とろ火で煮込んだおかげで、骨まで柔らかくなった気がする。
ゆっくりと立ち上がって、僕は風呂場を後にした。
寝巻きに着替えてダイニングに戻ると、お化粧も終えて準備万端な母さんが玄関に向かおうとしていたところに出くわした。
「あら、ちょうど良かったわ。母さんもう行くから、ちゃんと鍵閉めておいてちょうだいね」
「ふぅ…だから分かってるって」
冷蔵庫から牛乳を取り出し、注いだコップを片手に僕も玄関に向かう。
「じゃあいってきまーす!」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
…ばたん。
重々しい音を立てて、玄関のドアがゆっくりと閉じていった。階段を下りる足音が聞こえなくなったのを確認して、僕は鍵をかちゃりと回した。
ふと見ると、時計の針はもう1時近くを指していた。時間を確認したとたん、急に眠気が襲ってきた。
「ふわ…僕もそろそろ寝るか……」
空になったコップを水につけようと流し台に戻ると、少しだけ皿がたまっていたので、ついでに洗ってから僕はダイニングを後にした。
寝室に入り、くーくーと寝息をたてる絵依子の隣に座ると、ふとその寝顔に目が留まった。気持ちよさそうに枕をヨダレまみれにして寝こける姿は、まったく子供というか、まさにバカそのものだ。
思わず「キング・オブ・バカ」、もしくは「The・バカ」の称号を贈りたい衝動に駆られてしまう。
「…まったく。なんでこんなのとあの人を見間違えるかなぁ…」
「んぐ…むにゃむにゃ…肉…肉ぅ……」
…もはや似てるとか似てないという次元ですらない。観察力、洞察力にはそこそこ自信があっただけに、あれは僕の一生のトラウマになりそうだ…。
「んん……す、ステーキ丼…まだぁ…?」
「…うるさいうるさい。黙って寝てろ!」
少々八つ当たり気味なのを自覚しつつ、絵依子の布団をいったん引っぺがし、頭まで被せてやった。
…これで少しは静かになるだろう。
「……、・・・・・・~~、・・・…」
ぶつぶつとまだ何か寝言らしきものを言ってるものの、布団のおかげでほとんど聞き取れないボリュームになった。
電気を消し、真っ暗になったところで、僕も自分の布団に潜り込んだ。たちまちどこかに吸い込まれるように、ぼんやりと感覚が薄れていく。
…もう隣の絵依子の寝言も聞こえない。
そして僕の意識もそこでぷっつりと…途切れた。




