10月20日-幕間-
-10月20日- 幕間
ゴォーン…ゴォーン…ゴォーン…ゴッ……ゴォーン!!
「妙法蓮華経~~~~、観世音菩薩普~門品第二十五~~~」
カァーーーンッ!
「「「「「爾~時~無尽意菩薩~即従座起~偏袒右肩~合掌向仏~~」」」」」
「「「「「衆中八万四千衆生~皆発無等等~阿~耨多羅三藐
三菩提…心~~」」」」」
「摩~訶~ 般若波羅蜜多心~~~経~~~」
カァーーーン!
「「「「「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時~~~」」」」」
「「「「「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心…経~」」」」」
「曩謨三滿哆~~~」
カァーーーンッ!
「「「「「母駄喃 阿盋囉底 賀哆舍 娑曩喃 怛姪他 唵~~~」」」」」
「「「「「娑發吒 娑發吒 扇底迦 室哩曳 娑~嚩~訶~」」」」」
「仰~惟三宝 咸賜証知~ 上~来諷誦 観音普門品経 般若心経 消災妙吉祥陀羅尼~」
ゴォーン…ゴォーン…ゴォーン…
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寺の朝は早い。それは一般的な寺院とは少し異なる様相を持つ、ここ朧露宗の丞善寺でも同じである。夏場なら3時半、冬ならば4時半が僧侶たちの起床時間であり、そこからすぐに朝の勤行が始まる。
一心不乱の読経の声が響く本堂に、およそ30人ほどの僧侶たちが居並ぶ。その中に、先の僧形の少女、御八尾 真都の姿もあった。
「「「「「法門無量誓願学 仏道無上誓願~成~~~」」」」」
カァーン…カァーン…カァーーーーン!!
読経のクライマックスに、修行僧や僧侶たちが小馨の音に合わせて袈裟から座具を取り、畳の上に広げて「拝」をする。一糸乱れぬその動きは、芸術的とさえ思わせるものがあった。
たっぷり1時間ほどの勤行が終わると、ようやく空が白み始めていた。近隣でも古刹として名高い、この丞善寺の住職「長谷河 玄聖」が退堂していくのを見送った僧侶たちは、すぐに各々の持ち場へと戻っていった。
「お願いいたします號…いえ寮頭、少しよろしいですか?」
「…なんや仙さん。ふわ…ウチまだ眠いんや…。粥座のあとじゃアカンか?」
あくびを噛み殺しながら本堂の隅で袈裟を解いている、寮頭と呼ばれた少女…御八尾 真都が、すぐ側まで来た大柄な僧侶の小声に、ぶっきらぼうな言葉を返す。
禅宗の流れをくむ朧露宗では、僧侶にはそれぞれの持ち場、役目がある。
通常の禅寺の修行寺院では「典座寮」「殿司寮」「副随寮」「副司寮」「知客寮」などがあるが、彼女が属するのはそのいずれでもない。
他の禅宗寺院には存在せず、そして存在が公にされてもいない特殊な部署、「忌門寮」が彼女、御八尾 真都の属する部署であり、彼女はここ丞善寺における「忌門寮」のトップである「寮頭」なのである。
「仙さん」と呼ばれた大柄で屈強そうな僧侶は、同じ「忌門寮」の、いわば彼女の「部下」であり、NO.2でもある。歳の程は20代後半だが、この場においては性別も年齢などは無意味なのだ。1秒でも先にこの世界に入った者が上、というものが、ここの絶対のルールなのである。
もっとも、彼女の不遜とも思える態度の理由はそれだけではない。
「出来ましたら今すぐに…」
「…分かった。ほな場所変えよか」
周りを振り返ると、遠巻きに自分たちを見ていた僧侶たちが、蜘蛛の子を散らすように去っていった。「忌門寮」の実態は、住職、副住職、そして寺の差配を任されている知客、副司寮といったごく一部の者しかその存在を知らない。一般の修行僧はおろか、常住と呼ばれる典座寮その他の役についている僧侶にさえ秘匿されているのである。
ゆえに「何をしているのか解らない連中」と思われている彼らは、多くの僧侶からこのような奇異の目で見られることは珍しくはない。
「…ふん。まぁエエけどな…」
これなら別に場所を変える必要もないかと一瞬彼女は思ったが、万が一ということもある。念のため、人気の少ない地蔵堂の裏に二人は移動した。
「ほいよ、仙さん」
「…有難うございます。頂きます」
衣の袂からアメを取り出し、男僧にそれを放り投げる。あまり甘いものが好きではない仙さん…「伊藤 太仙」ではあったが、太い指でちまちまと包みを解きながら、躊躇なくそれを口に放り込んだ。
「ほんで? 例の件やったらもう師兄…副住職に報告しとるし、本山にも伝わっとるはずやで。今は向こうの返答待ちっちゅー感じなんやけど」
自分もアメを口に放り込みながら、御八尾 真都が先を促し、少しして太仙が口を開いた。
「…それとはまた別に、少々奇妙な報告が昨日ありました。呂號の者がたまたま見かけたというのですが……」
「……! まさか…また「あんなん」が見つかったんか?!」
ぎゃりっ、と真都の口に入れたばかりのアメが砕け散った。と同時に彼女の脳裏に、数日前の異様な光景が蘇る。異様、異常としか形容できない、数日前に目にした公園の惨状。すんでのところで踏み止まれたものの、あわや使命も立場も忘れて逃げ出しそうになったという、自分だけが知るあの日の失態を、まざまざと御八尾 真都は思い出していた。
「いえ、そうではありませんが…」
「…もったいぶらんとさっさと言ぃ。ウチの睡眠時間をこれ以上削る気か?」
違う、という男僧の言葉に安堵しかけたものの、なにか歯切れの悪い部下の言葉に、別の不安が真都の心によぎる。胸中を悟られまいと、冗談めかして真都が先を促す。
「その…会士らしき者が、『式紙』を倒していたというのです」
「…は? いや待ち、会士らしき、って…どういうことや? 会士やないんか?」
続く部下の言葉に、真都は一瞬言葉を失った。太仙の報告は、それほど意外で、なおかつ意味不明なものだったからだ。
彼らの常識では会士が式紙を倒す、などということはあり得ないことなのだ。
「話を聞く限り、会士と同様の力を持ってはいるようですが、なにか違和感があった…と。何より、式紙と戦っているということが…」
「…式紙を倒す会士らしきヤツ…か。確かにワケが判らんな…。もしかして…例の件となんか関係があるんか…?」
「そこまでは分かりませんが、ここ最近、かつてない勢いで式紙どもが活性化しておりますし、何か…何かが起きようとしているのかもしれません」
「それはウチも感じとるけど……、会士「らしき」とか、そいつが式紙を倒しとるとか、こんなあやふやでワケのわからんモン、上に報告する訳にもいかんで…」
太仙から目を背け、腕を組みながら真都がつぶやく。事態が不明瞭であることもそうだが、常識外のことを下手に報告しては、先の件の信憑性すら疑われてしまう。あの公園の異様さを直接知る者としては、それだけは避けねばならないのだ。
あれを引き起こした何者かは、絶対に倒さねばならない。朧露の総力を結集し、例え相打ちになろうとも。そうしなければ…「世界」そのものの危機ですらある、と真都は感じていた。
「承知しております。ですが、一応お耳に入れておこうと思いまして…」
「…分かった。内々に師兄にだけ報告しとく。ついでに今日は作務も晩課も懈怠願い出しとくわ。アンタらのもな」
「…はっ。ありがとうございます」
「礼なんかエエ。だいたいアンタもそれ期待して、いま言うてきたんやろ?」
にっ、と口の端を小さく歪ませた少女に、男僧もわずかに表情を崩す。
「…かないませんな。號帥には」
「アホ。お寺の中でその呼び方はやめ。誰が聞いてるか判らんのやで」
「は…っ。失礼致しました。寮頭」
それでは、と言い残し、バリバリと飴を噛み砕きながら太仙が衣を翻し、その場を後にした。独り地蔵堂の裏に残った真都は、再びあの日のことを思い返し、思考していた。
異様な公園の惨状と式紙たちの活性化。そして不可解な会士の出現。これらを結ぶ線はあるのか。
少なくとも現時点では、確たる物は何もない。しかし無関係だと切り捨てるだけの材料もまた、ない。
「ふん……下手な考え、休むに似たり…ってな」
過去も未来も『妄想』に過ぎない。『今、此処、自己』だけが真実なのだと、師から真都は何度となく教えられてきた。ゆえに彼女はそれ以上を考えるのをやめることにした。
結局はいつもどおりのことである。全力で、目の前の『仕事』に当たるしかないのだ。全力で『敵』を倒す。それだけが御八尾 真都の真実なのである。
「ともかく…今晩から忙しくなりそうやな。…ウチらのシマで…これ以上好き勝手はやらせへんで……!」
用語の補足です。
小馨→お経の際に使う小さいほうの鐘。「ゴォーン」という大きいほうは大馨。
拝→いわゆる五体投地。
粥座→朝ごはん。
典座寮→ごはんの支度をする部署。
殿司寮→本堂周りの管理をする部署。「維那」というお経の頭を読む係
でもあります。
副随寮→お寺の庶務を担当する部署。
副司寮→お寺の会計を担当する部署。
知客寮→来客の対応をする部署。
懈怠→サボりのこと。