↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/12

第8話 京への上洛と、野戦病院トリアージの奇跡

第8話です! 第3幕突入!

足利義昭を奉じて京へ上洛する織田軍三万。敵の刃よりも恐ろしい「疫病」を、聡が科学の力で完全粉砕します!

永禄十一年、秋。尾張と美濃の兵を合わせた三万の大軍勢が、近江路を西へと進軍していた。

先頭には足利家の白地に二引き両の旗が翻り、その後ろに織田家の木瓜紋が整然と連なっている。

だが、この三万の行軍は、戦国のいかなる軍勢とも異様なまでに違っていた。

隊列の各所に配置された駄馬の背には、槍や矢束ではなく、巨大な鉄鍋と乾いた薪の束が山積みにされている。そして一里歩くごとに、鉦の音とともに各隊の小荷駄が湯気の立つ大鍋を下ろし、兵たちに熱湯を配給していた。


「おい、喉が渇いたからって川の水に口をつけるなよ! 軍師殿の厳命だ!」


「食事の前には、この灰汁と酢を混ぜた水で必ず手を洗え! 洗わぬ者には握り飯を出さんぞ!」


怒号を飛ばしながら陣列を見回っているのは、銀髪の眼鏡軍師・明智光秀だ。懐から取り出した竹皮綴じの帳面を片手に、衛生規律の遵守状況を一隊ごとに検分している。

黒川聡は手帳に筆を走らせながら、その様子を後方から見守っていた。


「ソウ、足軽どもが『なぜ川の清水を飲んではならんのか』と不満を漏らしておるぞ。喉を潤すのに、いちいち湯を沸かすのは手前がかかりすぎるのではないか?」


馬を並べてきた織田信長が、朱色の陣羽織を風になびかせて尋ねた。


「手間を惜しめば、命を落とします。戦国の遠征で兵を最も多く殺すのは、敵の槍ではなく目に見えない病魔――赤痢や疫痢です。川の水には上流の死骸や排泄物の毒が混じっている。煮沸した湯しか口にさせないだけで、行軍中の下痢と発熱は九割防げます」


「……煮沸、か。湯を沸かすだけで病魔が死ぬとは、信じがたい話だがな」


「さらに厠の徹底です。野営地の最下流に必ず深い溝を掘らせ、用を足すごとに生石灰を撒いて土を埋め戻す。これを怠れば、ハエが毒を運んで兵糧にたかり、一週間で軍が全滅しますよ」


聡の冷徹な科学的根拠に、信長は息を呑んだ。


「敵と刃を交える前から、見えぬ敵と戦っているのだな」


「兵站とは、兵を生かして前線に立たせる技術ですから」


だが、行軍が南近江の要衝・箕作城の麓に差し掛かった時、平穏は破られた。

近江守護・六角義賢が上洛軍の進路を阻むべく、要害に籠もり夜襲を仕掛けてきたのだ。

暗闇を裂く喚声と、激しい鉄砲の轟音。

柴田勝家率いる織田の先鋒隊が、大槍を振るって崖をよじ登り、敵の陣地を強襲して見事に箕作城を陥落させた。

しかし、急峻な山肌での激戦は、織田軍にも多数の負傷者を出した。


「衛生隊、救護所の幕を上げろ! 負傷者を担ぎ込め!」


聡の指示で、麓の平坦地に大型の天幕が素早く設営された。

運ばれてくる足軽たちは、矢を射立てられ、槍で突かれ、苦痛に呻いている。従来の戦場であれば、傷口に泥や馬糞を塗りつけて止血を試み、そのまま破傷風や敗血症で命を落とすのが常だった。


「軍師殿! 重傷者が多すぎます! どなたから手当をすれば……!」


衛生兵の足軽が血まみれの陣中で混乱の声を上げた。


「落ち着け! 色紐による判別――トリアージを行う!」


聡の声が響いた。光秀が素早く四色の布紐を両手に掲げる。


「赤は、今すぐ手当すれば助かる重傷者! 黄色は、手当を待てる中等症! 緑は、自力で歩ける軽症者! 黒は……すでに息のない者だ!」


聡は自ら袖をまくり、高濃度の蒸留酒(焼酎)を浸した清浄な布を手にとった。


「傷口に泥を塗るな! 焼酎と煮沸した白湯で泥を洗い流し、清潔な木綿の布で強く圧迫して血を止めろ! 矢が刺さっている者は無理に抜くな、根元を切って固定しろ!」


聡の的確な指示と、光秀の素早いトリアージによって、阿鼻叫喚だった救護所は一瞬にして近代的な野戦病院へと変貌した。


「う、腕が……血が止まらねえ……!」


肩を槍で抉られた若者が蒼白な顔で震えていた。聡はその傷口の泥を焼酎で一気に洗い流す。激痛に若者が悲鳴を上げるが、聡は熱湯消毒済みの清潔な晒し布を傷口に当て、体重をかけて圧迫した。


「大丈夫だ。太い血管は外れている。布を強く縛り、腕を心臓より高く上げろ。お前は死なない」


聡の迷いのない眼差しと力強い手の温もりに、若者の荒い呼吸が次第に落ち着いていく。

一晩で運び込まれた負傷者は二百余名。

従来の戦であれば半数以上が破傷風や失血で命を落としていたはずの負傷兵が、聡の野戦病院によって九割以上が生還を果たしたのだった。


     ◇◇◇


翌朝、箕作城の陥落と織田軍の驚異的な損害の少なさを知った六角義賢は、戦意を喪失して本拠の観音寺城を捨てて甲賀の山中へと逃亡した。

さらに、近江の崩壊を耳にした京の三好三人衆は、織田軍三万の精強さに恐れをなし、一戦も交えることなく阿波へと海を渡って退却していった。

障害は、完全に消え去った。

永禄十一年九月二十六日。

秋晴れの京洛に、織田軍三万の整然たる大隊列が足を踏み入れた。

東寺から二条へと続く目抜き通りの両脇には、物珍しそうに群衆が押し寄せていた。

町衆の誰もが目を見張っていた。

尾張の田舎武者の軍勢と侮っていた織田軍は、略奪も狼藉も一切行わず、軍服は泥一つなく清潔に保たれ、兵たちの足取りは力強く、肌艶が良い。


「おい、見ろよ……長旅の軍勢だというのに、誰一人として咳もしておらんぞ」


「三好の軍勢がいた頃は、城下に赤痢が蔓延して死体が山積みだったというのに……」


「織田の殿様は、病魔を調伏する神仏の軍勢を率いておられるのか……!」


囁き合う町衆の賛嘆が、波のように広がっていく。

豪奢な輿の上で得意げに扇を揺らす次期将軍・足利義昭の後方で、信長は馬上から城下の賑わいを見下ろしていた。


「見事なものだな、ソウ。一人の病人も出さず、京の民を戦慄させるとは」


「清潔であることは、最強の軍事力ですから」


聡は馬の轡を取りながら、静かに息を吐いた。

だが、その夜。二条の宿所で地図を広げていた聡のもとへ、光秀が険しい表情で駆け込んできた。


「聡様、不穏な動きがございます」


「義昭公ですか」


「はい。義昭公は将軍職に就くや否や、信長様が勝手な軍令を出せぬよう、裏で諸国の大名へ御内書をばら撒いております。……特に、甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政へ」


聡の手帳のペンが止まった。

史実における最大の危機――『信長包囲網』の歯車が、音を立てて噛み合い始めていた。


「浅井長政殿は、信長様の妹・お市の方様の嫁ぎ先です。だが、朝倉攻めを行えば、浅井は織田の背後を突く……」


光秀の声が震える。

さらに東からは、戦国最強と恐れられる武田の赤備え騎馬軍団が、虎視眈々と上洛の機を伺っている。


「四方を敵に囲まれます。このままでは、織田家は東西から挟撃され、圧殺されてしまう……!」


だが、聡は動じることなく、日本地図の甲斐から東海道へと続く山岳地帯に指を滑らせた。


「大丈夫です、光秀殿。どれほど無敵を誇る騎馬軍団であろうと、馬も兵も飯を食わなければ一歩も進めません」


聡の冷徹な瞳が、暗闇の先を見据えた。


「武田軍の補給線は、長すぎる。そこが、虎の唯一にして最大の急所です」


迫り来る包囲網の足音を背に、聡の頭脳はすでに次なる戦場の兵站を計算し始めていた。

【兵站ミニ解説:軍陣医学とトリアージ】

近世以前の戦争における最大の死因は、戦死ではなくチフスや赤痢、破傷風などの感染症でした。ナポレオン軍の軍医ドミニク・ジャン・ラレーが考案した「身分に関わらず重症度で治療順を決めるトリアージ」は、近代野戦医療の夜明けとなりました。


次回『第9話 浅井・朝倉・武田包囲網、三方ヶ原の補給線死守』は明日18:00更新予定です!


――――――――――――――――――――

★本作を「面白い!」「続きが気になる!」と感じていただけましたら、

ページ下部の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援いただけますと、大変励みになります!

ブックマーク登録もぜひよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。