第2話 清洲城の台所と、血塗られた帳簿
第2話です。前話では飢餓寸前の織田軍を救った聡。
今回は清洲城に連行された聡が、織田家の破綻寸前の台所事情と横領にメスを入れます!
◇◇◇
翌朝、黒川聡の目を覚まさせたのは、湿った板間の冷たさと、耳を劈くような怒声だった。
「払えぬとは何事じゃ! 尾張守護代たる織田家が、商人ごときに舐められてたまるか!」
清洲城本丸の板敷き広間。
朝日が斜めに射し込む板の間に、山のような木簡と和紙の束が散らばっていた。
緋色の小袖を羽織った織田信長が、胡坐をかいたまま脇息を蹴倒している。昨夜の葛粥で血色は戻っていたものの、その眉間にはくっきりと苦悶の皺が刻まれ、右手はまたしてもみぞおちを強く押さえつけていた。
「吉法師様、怒鳴っても銭は湧きませぬ!」
仁王立ちで声を荒らげているのは、柴田勝家だ。黄金色の髪を太い三つ編みに結んだ長身の武者は、太い腕を組んで床を踏み鳴らした。
「那古野の油座と米問屋が『弾薬代のツケ百貫文を今すぐ耳を揃えて払わねば、明日の米も火薬も納めぬ』と城門前で座り込みを始めておりまする! 払う銭など、金蔵のどこを探しても一文もありませぬぞ!」
『朝から完全に破産寸前の修羅場だな……』
聡は寝癖のついた頭をかきながら、散乱する木簡の前に歩み寄った。
信長が射抜くような眼差しで聡を睨みつける。
「起きたか、ソウ! 余の財布を預かると申したな! ならばあの強欲商人どもを黙らせる算段を申せ! 手打ちにして首を刎ねてやりたいが、それでは余計に弾薬が入らぬ!」
「首を刎ねても借金は消えませんよ。……それより信長様、顔色が最悪です」
信長の唇は渇き、額には脂汗が滲んでいた。過労と極度のストレス、そして空腹による急性胃炎。商社時代、決算期の激務で胃潰瘍寸前まで追い込まれた同僚の顔と重なる。
「余の腹などどうでもよい! この帳簿を見よ!」
「どうでもよくありません。最高指揮官が倒れたら、その瞬間にこの城は終わりです」
聡は広間を抜け、城の台所と薬草蔵へと足を運んだ。
台所の土間に転がっていた薬草棚から、乾燥した甘草の根と芍薬の根を素早く選び出す。
『芍薬甘草湯――漢方における胃痙攣と筋緊張の特効薬だ』
刻んだ生薬を土鍋で煮詰め、独特の甘く苦い香りが立つ煎じ薬を椀に注いで広間へ戻った。
「飲んでください、信長様。胃の痛みを止める薬です」
「毒など入っておるまいな……?」
「入ってたら昨日の時点で毒殺してますよ。口の中で転がすようにゆっくりどうぞ」
信長はおずおずと椀を受け取り、黒褐色の液体をすすった。
独特の甘みが後から追いついたのか、信長の強張っていた表情が微かに緩み、喉が小さく動く。そのまま一気に椀を干した。
一分と経たぬうちに、信長の喉元から強張りが消えた。荒かった呼吸が深くなり、みぞおちを押さえていた指先がふわりと膝の上に落ちる。
「……痛みが、引いた……? 腹の中で暴れていた鬼が、すうと消えていくような……」
信長は信じられないものを見るように、空の椀と聡の顔を交互に見つめた。琥珀色の瞳が驚愕と安堵に潤んでいる。
「鎮痛と筋肉の痙攣を抑える生薬です。これで少しは頭が冷えたでしょう」
聡は床に散らばる木簡の山を手に取った。
そこに墨で書かれていたのは、出納を単に一行ずつ書き連ねただけの単式帳簿だった。
「さて、本題の借金ですが……勝家、この帳簿をつけている勘定方は誰ですか?」
「あ、ああ……勘定方は、重臣の林佐渡守の配下、服部某という男だが」
「信長様、この帳簿、デタラメですよ」
「何だと!?」
聡は手帳の白紙に一本の十字を引き、左右に項目を分けた。
「『複式簿記』という記帳法です。左側に資産、右側に支出の原因を同時に記します。この帳簿では、先月『油百壺、塩三十俵』を買い付けたとあります。代金は百貫文のツケ」
聡は台所から持ってきた別の紙片を広げた。
「ですが、台所の受領札を調べると、実際に運び込まれたのは『油二十壺、塩五俵』しかありません。残りは受領の裏書きすらない架空の請求です」
広間に、冷え切った沈黙が落ちた。信長の双眸から柔らかな安堵が消え、研ぎ澄まされた刃のような殺気が蘇る。
「……品を納めずに代金だけを二重取りしておるというのか?」
「それだけじゃありません。城内の勘定方が商人と結託して横領を見逃し、差額を山分けしている。でなければ、こんな杜撰な数字が通るはずがない」
「服部……あの蛆虫めがぁぁっ!」
勝家が怒髪天を衝く勢いで立ち上がり、腰の刀を鳴らした。
「今すぐあの腐れ勘定方の屋敷に踏み込み、叩っ斬ってまいりまする!」
「待ちなさい勝家! 斬ったら銭が回収できません!」
聡は叫んで勝家の腕を掴んだ。
「手打ちにするのではなく、この複式帳簿の証拠を突きつけて、座の商人と勘定方を同時に締め上げるんです。『架空請求の詐欺を公表されたくなければ、過去の過大請求分を相殺し、鉄砲の火薬百斤と兵糧米二百俵を即刻城へ無償で納入しろ』と脅し返すんですよ。商人にとって、信用の失墜は死より重い」
信長は目を見張り、やがて喉を鳴らして笑い出した。
「くくっ……あはははは! 痛快よ! 力で奪うのではなく、帳簿の数字で商人どもの喉笛を締め上げるか! 権六、直ちに兵を動かせ! ソウの申す通りに証文を突きつけ、米と火薬を根こそぎ吐き出させよ!」
「ははっ! 軍師殿、見事な知恵にござる!」
勝家が目を輝かせて駆け出していった。
半刻後、城門前で座り込んでいた商人たちは真っ青になって平伏し、清洲城の蔵には証文通り二百俵の米俵と火薬樽が次々と運び込まれた。
蔵の前で検品を終えた聡の背中を、信長が背後から軽く小突いた。
「見事であったぞ、ソウ。……腹の痛みも、銭の憂いも、そなたにかかれば瞬く間に片付くのだな」
「商社では日常茶飯事の監査ですよ。これで当面の米と弾薬は確保できました」
金と米が巡り、絶望に沈んでいた城内に生気が満ち始めている。
『これなら、守りを固めて戦えるかもしれない』
聡がそう安堵しかけた、その瞬間だった。
ドォォォォン――!
大手門の太鼓が、狂乱の早打ちを響かせた。
砂煙を巻き上げ、血を吐くように馬を走らせてきた早馬の伝令が、広間の前へと転がり込む。
「も、申し上げますッ! 駿河の今川治部大輔義元様、四万の大軍を率いて駿府を発向! 先鋒・松平元康の三河勢、すでに境川を越え、大高城への兵糧搬入を開始いたしましたッ!」
広間の空気が、一瞬で凍りついた。
「……四万だと!?」
駆け戻ってきた勝家の顔から血の気が引く。清洲城の兵力は、かき集めても三千。四十倍の戦力差。
「いよいよ来たか……!」
信長が腰の大刀を握り締め、獰猛な闘志を瞳に宿して立ち上がった。
「余自ら打って出る! 全軍に出陣を命じよ!」
「待て信長! 三千で四万に突撃したら踏み潰されるだけだ!」
聡は叫んで信長の前に立ちはだかった。
「退けソウ! 籠城したところで干殺しにされるだけだ! 敵の首魁・今川義元の首を討ち取るしか、織田が生き残る道はない!」
「討ち取るにしてもやり方がある! 四万の大軍には、大軍ゆえの致命的な弱点があるんだ!」
「弱点だと……!?」
信長が足を止め、鋭い視線を聡に据えた。
聡の脳裏には、叩き込まれたロジスティクスの絶対の鉄則が浮かんでいた。
『兵が四万なら、一日に必要な米だけでも二百四十石。人夫や荷駄の馬を含めればその数倍だ。大軍が動ける街道は限られている。山間の細い道へ進軍すれば、補給線は一本の細い糸のように伸び切る……!』
「今川軍の補給線を断ち、四万の胃袋を完全に締め上げる。あの隘路――桶狭間で、飢えるのは奴らの方だ!」
息を呑んで聡を見つめ返した信長は、やがて獰猛な不敵の笑みを浮かべた。
「面白い……! やってみせよ、余の軍師!」
尾張の運命を決する決戦の火蓋が、いま切って落とされようとしていた。
【兵站ミニ解説:複式簿記の歴史】
世界最古の複式簿記の記録は14世紀イタリア(ルネサンス期)と言われていますが、当時の日本は一本書きの単式簿記が主流でした。貸借対照表により、負債と資産の総量を可視化する技術は、現代企業経営の根幹をなす技術です。
次回『第3話 桶狭間の前哨戦、道なき道に兵糧を通せ』は明日18:00更新予定です!
――――――――――――――――――――
★本作を「面白い!」「続きが気になる!」と感じていただけましたら、
ページ下部の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援いただけますと、大変励みになります!
ブックマーク登録もぜひよろしくお願いいたします!




