第1話 うつけ姫の軍には、米が一粒もなかった
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武力ゼロの商社マンが、美少女だらけの戦国で兵站と帳簿を武器に成り上がる本格戦記、開幕です!
泥水を吸ったスーツの襟首が、首筋に冷たくへばりついていた。
じっとりとした生ぬるい風。鼻腔を突くのは、腐葉土と青臭い草、そしてわずかに混じる獣の脂の匂い。
黒川聡は激しく咳き込みながら、ぬかるんだ赤土の上に両手をついた。
『ここは、どこだ……?』
昨夜の記憶を手繰り寄せる。大手商社の食糧物資調達部で、南米航路の穀物輸送枠と為替の乱高下に頭を抱え、オフィスの自席でエナジードリンクを飲み干したところまでは覚えている。だが、今、聡の視界に広がるのは無機質なオフィスビルではなく、鬱蒼と生い茂る竹林と、踏み荒らされた街道だった。
ドッ、ドッ、ドッ――!
突如、鼓膜を揺らす地響きが走った。複数の馬蹄が泥を跳ね上げる重低音。
聡が顔を上げた瞬間、灰色の空を背負うようにして、一頭の黒馬が急制動をかけた。
「……動くな」
凛と張り詰めた、涼やかな美声。だが、そこに込められた殺気は本物だった。
馬上に跨がっていたのは、息を呑むほど苛烈な美貌を持つ少女だった。
燃えるような緋色の南蛮胴に身を包み、艶やかな黒髪を高い位置でポニーテールに束ねている。白皙の肌に浮かぶ双眸は琥珀のように澄み渡り、腰には長大な野太刀を佩いていた。年齢は十六かそこら。だが、その華奢な肩から漂う威圧感は、並の商談相手など足元にも及ばない。背後には、竹槍や火縄銃を抱えた数十名の武者たちが街道を埋め尽くしていた。
「南蛮の奇妙な衣服を着た男か。野盗の類か、それとも今川の素破か?」
少女は冷ややかに聡を見下ろした。手綱を引く指先には、確かな武術の胼胝がある。
「申し上げます、吉法師様! 怪しき者は即刻、首を刎ねて捨て置きましょうぞ!」
馬の脇から進み出た武者が、抜き身の大槍を聡の喉元へ突きつける。
声の主を見て、聡の思考が凍りついた。
黄金色の髪を太い三つ編みに結い、鍛え抜かれた肉体美を革鎧で包んだ、長身の少女武者。胸元の膨らみを押し包む晒の隙間から、歴戦の刃傷が覗いている。
『吉法師……織田信長!? それに、あの筋骨隆々の金髪少女は誰だ? 武将が全員女の子の世界なのか!?』
刃先が触れ、首筋から一筋の血が滲んだ。ここで呆然としていれば首が飛ぶ。聡は泥に伏したまま、腹の底から声を張り上げた。
「待ってください! 私は間者ではありません! ただのしがない物資の調達人です!」
「調達人だと? 怪異な身なりをしおって。余の進軍を妨げる者は、誰であろうと容赦はせぬ」
信長が腰の大刀の柄に手をかけた。
だがその時、聡の目は少女の背後――街道に並ぶ荷駄隊を正確に捉えていた。
荷駄馬の背に積まれた米俵の縄が緩んでいる。俵の膨らみに対して、馬の脚の沈み込みが浅すぎる。中身がほとんど入っていないのだ。さらに、槍を構える足軽たちの唇は紫色に変色し、皮膚は乾燥して土気色に沈んでいた。肩で息をし、膝がかすかに震えている。
「信長様! 首を刎ねるのは構いませんが、その前にご自身の軍をご覧になりなさい!」
聡の鋭い叫びに、信長の眉が跳ね上がった。
「……何だと?」
「その軍、あと半日で足軽全員が動けなくなります! 兵糧が完全に底をついているでしょう!」
「なっ……!?」
周囲の武士たちから動揺のざわめきが広がった。信長の美しい瞳に、鋭い狼狽が交錯する。
「戯言を抜かすな! 兵糧など、この先の敵砦を落とし、奪い取ればよいだけの話! 疾風の如く駆け抜け、敵首を挙げれば腹など満たされるわ!」
「砦までどれだけありますか? このぬかるんだ道で、おそらく三里はあるはずだ! 今の足取りでは四刻(約四時間)はかかる!」
聡は泥の中から立ち上がり、荷駄馬を指差した。
「人間は絶食でも水があれば動けますが、重い甲冑を着てぬかるみを歩けば、一刻で水瓶一杯の汗と塩が体から抜け落ちます! 兵たちの唇を見てください! 水と塩が足りず、筋肉が引き攣り始めている! 砦に着く前に半分が倒れ、戦う前に全滅します!」
「黙れ! 口先だけの町人が、余の軍略に口を挟むな!」
信長が一喝し、馬を前進させようとした。
だがその瞬間――信長自身がふっと息を詰め、眉間に痛ましげな皺を寄せて鞍の上で身体を強張らせた。右手が、無意識にみぞおちの辺りをきつく押さえている。
『前世の記録が確かなら、この頃の織田家は身内の謀反が相次いでいたはずだ。重圧と飢えによる、激しい胃痛か……!』
「信長様、これを」
聡はスーツの内ポケットから、ハードケースを取り出した。
中に入っていたのは、徹夜仕事の友だったブドウ糖タブレットと天日塩のタブレット。そして、腰に下げていたステンレスボトルの電解質水だ。
「毒見なら私がします」
聡はボトルの水を一口飲み、タブレットを噛み砕いて見せた。信長は鋭い警戒を崩さなかったが、喉を鳴らすのを隠せなかった。
「……よこせ」
信長はボトルの水と白い粒を奪い取るように受け取ると、一気に口へ放り込んだ。
ゴクリ、と喉仏が小さく上下する。
次の瞬間、信長の琥珀色の瞳が見開かれた。
荒かった呼吸がみるみる整い、青白かった頬に微かな朱が差していく。みぞおちを押さえていた強張りが、目に見えて解けていった。
「……な、何だ、この水は。甘く、微かに塩の味がする。腹の激痛が……引いてゆく……?」
「疲労した体に最も速く効く水と養分です。ですが、これはあなた一人の分しかありません」
聡は街道脇の湿地帯へと歩み寄った。そこには、青々とした大きな三出複葉のツル植物が斜面一面に群生していた。
「あれは……葛か? ただの山野草ではないか」
大槍を構えていた金髪の少女武者が、不審そうに眉根を寄せる。
「葛の根には、極めて良質な滋養(澱粉)が詰まっています! 掘り出して叩き、水に晒して煮込めば、腹持ちのいい極上の葛粥になる! 竹林の竹を割って鍋にし、泥水を砂と炭で濾して沸かせば、半刻で全軍の飯が作れます!」
聡の澱みない指図に、信長は息を呑んだ。少女は泥まみれの聡をまじまじと見つめ、やがてその形のいい唇を吊り上げた。
「権六! 槍を引け! 全軍に命じろ、街道脇の葛の根を根こそぎ掘り出せ! この男の指図に従い、湯を沸かすのだ!」
「は、ははっ!」
金髪の豪傑少女――柴田権六勝家が深々と頭を下げ、兵たちへ怒号を飛ばした。
街道沿いに焚き火が並び、竹筒で煮立てられた葛粥が配られると、飢えていた兵たちから歓声が上がった。温かい粥を啜り、塩を舐めた足軽たちの目に、みるみるうちに生気の光が戻っていく。
信長は竹筒の粥を静かに平らげると、ふうと長い息を吐き出した。その横顔には、先ほどまでの刺々しい殺気は消え、年相応の柔らかな安堵が浮かんでいた。
「……美味かったぞ、調達人」
信長は黒馬を下り、聡の前へと歩み寄ってきた。
身長は百六十センチほど。聡よりも頭一つ分低い。だが、間近で見上げるその顔立ちの美しさと凛々しさに、聡は思わず気圧された。
「そなた、名を何と申す?」
「……黒川聡と申します」
「クロカワ・ソウか。ふん、奇妙な名だな」
信長はフッと不敵に笑うと、聡の胸倉をぐいと掴み、至近距離まで顔を近づけてきた。甘い白檀の香りと、少女の体温が聡の鼻腔をくすぐる。
「拾ったぞ、余の兵站頭」
「……はい?」
「今日より貴様は、余の懐刀(財布)だ。余の軍の飯と銭、その全てを貴様に預ける。清洲城へ参るぞ」
「えっ、ちょっ、私はただの調達人で――」
「拒否は許さん! 余の胃袋を掴んでおいて、逃げられると思うな!」
信長は有無を言わせず聡の腕を引くと、予備の馬の鞍の上へと力任せに押し上げた。
だが、安堵したのも束の間だった。馬上で聡の隣に並んだ信長は、再びみぞおちをぎゅっと押さえ、悪戯っぽく口の端を歪めて告げたのだ。
「まあ、城へ連れてゆくと言うてもな、ソウ。……清洲の城の米蔵も、金蔵も、とっくに底をついて空っぽだがな!」
「はあぁぁぁっ!? 破産してるんですか!?」
「うむ! だから貴様がどうにかせよ!」
清々しいまでの開き直りに、聡の脳裏が真っ白に染まった。
さらに、東の空を見上げた信長の瞳に、冷たい緊張が走る。遥か駿河の空に、禍々しい巨雲が立ち込めていた。
――今川義元。
四万の大軍を率いる「海道一の弓取り」が尾張国境を越えるまで、あとわずか十日。
米も銭もない赤字だらけの城で、聡は前代未聞の防衛戦を背負わされることになった。
【兵站ミニ解説:戦国の兵糧事情】
当時の兵士1人あたりの標準支給量は1日「米6合(約900g)」。激しい行軍や戦闘では大量の糖分と塩分が失われ、低血糖症や脱水に陥ります。葛根に含まれる良質な澱粉は、現代でも漢方薬や葛湯として親しまれる滋養強壮の知恵です。
次回『第2話 清洲城の台所と、血塗られた帳簿』は明日18:00更新予定です。
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