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第11話 天正十年、病みかけた光秀のメンタルケア

第11話、クライマックス突入です!

天正十年五月。天下統一の重圧でバーンアウト寸前となった明智光秀。

聡は歴史最大の悲劇「本能寺の変」を、労務管理と温かい手料理で防ぐことができるのか?

天正十年五月下旬。安土城を包む初夏の夜気は穏やかだったが、勘定所の一室だけは凍りつくような冷気に閉ざされていた。

部屋の四方にうずたかく積まれた帳面の山。行灯の頼りない灯火の下で、明智光秀は筆を握りしめたまま、微動だにせず震えていた。

丸眼鏡の奥の瞳には、血走った赤い糸が無数に走り、黒い隈が青白い頬を覆っている。


「備中高松への兵糧三万石……家康様の接待膳の魚の調達……四国攻めの弾薬配備……間に合わない……計算が合わない……」


乾ききった唇から漏れるのは、掠れた譫言のような呟きだった。

光秀の右手の親指からは、爪を噛みすぎたせいで滲んだ血が滴り、白紙の帳面を赤く汚していた。


「信長様に叱責される……また無能と罵られる……失敗すれば、私は……私は捨てられる……。いっそ……いっそ、敵は……」


「光秀殿」


背後から掛けられた穏やかな声に、少女の肩がびくりと跳ね上がった。

振り返った光秀の瞳には、狂気と絶望が入り混じっていた。

そこに立っていたのは、黒川聡だった。


「……聡、様……? 入ってこないでください……! 私はいま、大事な計算を……信長様のご期待に応えねば……!」


「筆を置きなさい」


聡は静かに歩み寄り、光秀の手から血のついた筆と算盤を取り上げた。


「離してください! 私がやらねば誰がやるのです! 私が倒れれば、織田の政が止まってしまう!」


「止まりません」


聡は光秀の両肩をしっかりと掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あなたは重度の過労状態――バーンアウト(燃え尽き症候群)です。今すぐ全業務を停止します」


     ◇◇◇


翌朝、安土城天守の広間。

聡は信長の前に立ち、一枚の書状を突きつけていた。


「十兵衛殿に、三日間の完全休養――強制有給休暇を与えてください」


「何だと?」


上座に座る信長が、琥珀色の瞳を鋭く尖らせた。


「毛利攻めの大詰め、家康の饗応、天下統一の正念場なのだぞ! この大事な時に、勘定方の要である十兵衛を休ませろと言うのか!?」


「ええ、言います」


聡は一歩も引かなかった。


「一人の人間に過大な業務を集中させる『属人化』は、兵站における最大の悪手です。十兵衛殿は今、極度の睡眠不足と精神的重圧で鬱状態に陥っています。このまま放置すれば、彼女は過労死するか、あるいは精神に異常をきたして組織を破滅させる致命的な行動に走りますよ」


聡の冷徹な指摘に、信長は息を呑んだ。


「……破滅的な、行動……?」


「彼女が倒れれば、それこそ天下統一の政が崩壊します。業務は分散(デリゲーション)させます。家康様の饗応は堺の茶人・今井宗久と津田宗及に一任し、秀吉への兵糧補給は柴田勝家殿の補給隊と帰蝶様の商業ルートに割り振ります。仕組みを作れば、十兵衛殿が一人で抱え込む必要などないんです」


信長は腕を組み、長い沈黙ののち、深いため息を吐き出した。


「……分かった。十兵衛を連れて行け、ソウ。お前の差配に任せる」


その日の夕暮れ。安土城下から少し離れた、琵琶湖の湖畔に建つ静かな別邸。

波の音だけが静かに寄せては返す座敷で、光秀は所在なさげに正座していた。


「聡様……本当に、私のような者が仕事を放り出して、こんなところにいてよいのでしょうか……」


「いいんです。仕事のことは一切忘れてください」


聡は湯気の立ち上る土鍋を運び込み、光秀の前に置いた。

蓋を開けると、出汁の効いた豊かな香りと、甘い葱の匂いが部屋いっぱいに広がった。


「これは……?」


「鶏肉と根菜の水炊きです。胃腸を温め、気力を補う生姜と葱をたっぷり入れました。さあ、食べて」


聡が木椀に取り分け、光秀の手元へ差し出す。

光秀はおずおずと箸を取り、柔らかく煮込まれた鶏肉を口に運んだ。

じわりと、鶏の滋味深い脂と出汁の旨味が舌の上に広がる。出汁を吸った大根の甘みが、乾ききっていた喉を優しく潤していく。


「……おいしい……」


「十兵衛殿、あなたは誰よりも優秀で、誰よりも真面目だ。だからこそ、周りの期待に応えようと、自分を限界まで追い詰めてしまう」


聡は穏やかな眼差しで光秀を見つめ、静かに言葉を重ねた。


「でもね、完璧じゃなくていいんです。人間は機械じゃない。失敗したっていいし、弱音を吐いたっていい。信長様だって、あなたを切り捨てたりは絶対にしませんよ」


「で、ですが……信長様はいつも私に怒鳴り散らし、無理難題ばかりを……!」


「信長様は、言葉足らずなだけです。彼女はあなたを誰よりも信頼し、頼りにしている。だからこそ、自分の背負う巨大な重圧をあなたにも分け与えてしまっていた。……信長様もまた、不器用な少女なんです」


聡はそっと光秀の銀髪に手を置き、優しく撫でた。


「あなたが抱えている重荷は、私が半分背負います。だから、もう一人で怯えなくていい」


その瞬間、光秀の目から大粒の涙が溢れ出した。

少女は丸眼鏡を外し、膝の上に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「うわぁぁぁん……! 怖かった……ずっと怖かったのです……! 信長様に捨てられるのが怖くて……聡様のお役に立てなくなるのが、死ぬほど怖かった……!」


聡は何も言わず、泣き続ける少女の背中を、優しくさすり続けた。

胸の奥底に澱のように溜まっていた暗い怨嗟と絶望が、温かい涙とともにすべて溶け去っていくようだった。


「……まったく、人聞きの悪いことを言うな」


ふいに、座敷の障子が静かに開いた。

そこに立っていたのは、供回りも連れず、質素な平服を纏った織田信長だった。手には、竹筒に入った銘酒が下げられている。


「の、信長様……!?」


慌てて涙を拭い、平伏しようとする光秀を、信長は手で制した。


「よい、頭を上げるな。……十兵衛、余の言葉が足らず、そなたをそこまで追い詰めていたとは知らなんだ。余が悪かった。すまぬ」


天下の覇王が、深々と頭を下げたのだ。

光秀は息を呑み、信長を見つめた。


「余はお前が優秀すぎるゆえ、甘えて甘えて、重荷を押し付けすぎておったのだ。……ソウの言う通り、余は天下のうつけだな」


信長は照れくさそうに笑い、鍋の前に腰を下ろした。


「十兵衛、三日休んだら戻ってまいれ。余にはお前が必要だ」


「信長様……! は、はいっ……!」


光秀の瞳には、かつての濁りは微塵もなく、澄み切った忠誠と敬愛の涙が輝いていた。

歴史の歯車は、完全に軌道を変えた。

天正十年六月二日――かつて本能寺を焼き尽くすはずだった怨嗟の炎は、いま完全に消滅したのだ。

信長は聡の注いだ酒を飲み干すと、満足そうに微笑んだ。


「六月二日、京の本能寺で大きな茶会を開く。毛利との和睦を取りまとめ、天下平定を祝う宴だ。ソウ、十兵衛、勝家、家康、帰蝶……皆を集めよ」


信長は悪戯っぽく琥珀色の瞳を細めた。


「そこで、余からソウへ、天下で最も重い『褒美』を授けるつもりだ」


「え……褒美ですか?」


聡が首を傾げると、信長は意味深に唇を吊り上げた。

炎の消えた本能寺。

そこで聡を待ち受けていたのは、戦国のいかなる合戦よりも凄まじい、乙女たちによる「最後の決戦」だった。

【兵站ミニ解説:バーンアウトと業務の属人化】

優秀な人材ほど責任感から業務を一人で抱え込み、過労死やメンタル崩壊に至る「属人化の罠」。近代マネジメントでは、権限委譲(デリゲーション)と業務のプロセス化、そして心理的安全性の確保が不可欠とされています。


次回いよいよ最終回!『第12話 天下泰平の帳簿、うつけ姫が誓う永遠』は明日18:00更新です!


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