サクヤ・クオネ
二人と別れたサクヤとトウガは、地に足を踏まぬまま、黒くねじれた生き物のように動く木の枝に運ばれ、南側の石壁へと向かっていた。
風に逆らい伸びるその枝は、まるで主の意思に従う魔の触手のように、軋む音を森に響かせていた。
そこには、襲撃の際に忍び込んだ小さな穴がぽっかりと口を開けており、ぽつりと違和感のように存在していた。
やがて、石の隙間の前に立つ三人の男たちが、薄明かりの中に姿を現す。
彼らは手下。サクヤとトウガの到着を待ちわびていたが、その足元には焦りと緊張が静かに滲んでいた。
「ごめんね〜。ちょっと遅くなっちゃった。それで…成果は?」
サクヤの声は、まるで夜の霧のように柔らかく、けれど耳に触れるとひどく冷たい。
「こ、子ども二十人、女十三人捕らえました。もう船に乗っけてあります。どれも、状態は……悪くないかと」
右端に立つ男が、目を伏せたまま小さく報告を口にした。
その声には動揺があり、どこかで何かを恐れている気配がありありと滲んでいた。
「え〜、これだけ騒ぎ立てたのに、それだけ? ちょっと物足りないな〜」
サクヤは軽やかにそう言い、わざとらしく肩をすくめた。
「……ま、今回は僕ら模神機関には手を出すなって“警告”を送るのが目的だったし。それに――今日は良いことがあったからね」
サクヤは背後で両手を組み、体を横に向けた。
どこか遠くを見るようなその横顔には、妖しげな満足が滲んでいた。
その上機嫌ぶりに手下たちは一瞬驚いたが、すぐに互いに責任を押し付け合うような素振りを見せた。
その様子を見たトウガが、低く尋ねた。
「何かあったんか?」
手下たちは「お前が言え」「いや、お前が」と目配せしながら数秒間押し問答を続け、やがて両端の二人が、真ん中の男をぐいと前に押し出した。
押し出された男は、サクヤの顔色を伺いながら、震える声で口を開いた。
「え…その…さ、さっきの襲撃中に……八番と…九番が逃げたようで……」
手下はぎゅと軽く腰の服を掴む。
言葉の途中で声が途切れる。沈黙の中、冷気が一瞬場を支配した。
「……は?」
サクヤの表情がぴたりと止まる。
先ほどまで浮かべていた柔らかな笑みは霧散し、その目元に怒気が走った。
だが、すぐにまるで仮面を被るように、また微笑みに戻る。
けれどそれは、先ほどのような上機嫌とは違っていた。
空虚で、どこか歪んだ、恐怖を煮詰めたような笑みだった。
それを見た手下たちは、思わず身をこわばらせた。
「す、すみません……俺たちも周囲を探したんですが……見つからなくて…」
真ん中の男が俯いたまま、声を震わせて弁明する。
その言葉が終わらぬうちに、サクヤの手が男の髪を無造作につかみ、ぐいと顔を引き寄せた。
冷たい笑みを浮かべたまま、視線を真っ直ぐに重ねる。
「ねぇ…君、さっきまで何してたの?」
サクヤは微笑んだまま、男の顔を覗き込む。 その笑みは優しげに見えて、どこか裂けた人形のように不自然だった。
「必死に探したって言ってたよね。でも……君の体、全然ボロボロじゃないよ?
それに八番と九番って、今回の“商品"の中でも、上等じゃない」
サクヤの声は穏やかだった。だがその裏に、剃刀のように薄く鋭い殺意が潜んでいた。
「ほ、本当に……必死に探したんです……嘘じゃ、ない……です……」
男は必死にサクヤに弁明する。
男は喉を震わせながら答える。目は怯えきり、全身 の毛穴が冷たい汗に濡れていた。
「……ふーん」
サクヤは、わずかに首をかしげる。
その直後――
「ぁ…」
男は右足に違和感を覚え、反射的に視線を向けた。足元には、這い上がってきた木の枝が巻きついていた。
それはまるで毒蛇のようにうねりながら、鋭く尖った先を男のふくらはぎに突き立てた。
「ぎ、ぎゃああああッ!」
凄絶な悲鳴が闇に破裂した。
痛みの信号が脳に届いた瞬間、意識ごと爆ぜそうになる。
骨を砕くような音が「ゴキン」と響き、枝が男の足から離れる。
サクヤは男の髪を無造作に放すと、まるで何も起きなかったかのように手を払った。
「う、あ……ぁ……」
男の体が震え、崩れ落ちた。
男は足を抱えて地面に倒れ込み、必死に声を押し殺して呻く。悲鳴をあげたら最後、自分の命が終わることを本能で理解していた。
他の二人の手下は、その地獄のような光景に完全に動きを止めていた。顔面は青ざめ、目は見開かれ、恐怖に縫い止められていた。
「ねぇ」
サクヤが再び口を開いた。
その声に、全身が冷水を浴びせられたように震える。
「は、はいっ!」
左端の男が反射的に返事をした。
「早く、探してきて」
「……え?」
呆けたような声が漏れる。
サクヤの笑みは変わらない。しかしその言葉の裏にある感情が、空気を濁らせていた。
「こいつを連れて、八番と九番を探しに行けって言ってるの。早く。
ああ、それと、僕たちは先に帰るから。小舟は一つ残しておくよ」
にこり、と笑ってサクヤは続ける。
「でもね、もし逃げたり、手ぶらで帰ってきたりしたら……次は、体の中に木を通して、首から咲かせてあげる」
その言葉は、まるで詩のように優しく、まるで呪いのように冷たかった。
男たちは、もう言葉を持たなかった。
命を掴まれたまま、恐怖に突き動かされて真ん中の男を支えながら森の中へと駆け出した。
彼らの背には、振り向くことすら許されない“死”の気配がずっと貼りついていた。
「船に乗ろうか」
サクヤはトウガに背中を向けたまま話す。
「ああ……」
トウガは短く、他人事のように返した。
けれど、その目は一瞬だけ、去っていく三人の背に向けられていた。
その視線の奥にあったものは
哀れみか、諦めか、それとも興味すらなかったか。
ーー足音に気づいた二人は、サクヤとトウガの姿を認めるや否や、慌てて整列し、深く頭を垂れる。
船には、また二人別に手下がいた。
「お疲れ様です。サクヤさん、トウガさん」
「うん、ただいま。遅くなってごめんね」
サクヤはにこやかに返し、軽く手を振った。
その声音に怒気も尖りもない。ただ、あまりにも自然すぎて、ぞっとするほどだった。
サクヤはゆっくりと船を見渡す。
視線が止まったのは、船の一角、網と縄に囲われた村人たちの方だった。
歳端もいかぬ子供、赤子を守ろうと身を寄せ合う母親。
彼らの手足はきつく縛られ、口には布が詰められている。
顔には涙と土がこびりつき、幾人かは震えながら目を伏せていた。
呻くような、喉の奥から絞り出される声が、かすかに船内に漂う。
けれどその声は、誰の耳にも届かない。
ここは村の南。避難所のない居住区。
悲鳴や足音が響いたところで、混乱に包まれた村の騒ぎの中にかき消される。
村人たちの誰もが、これが帰れぬ旅であることを、薄々理解していた。
そして、先ほどの"光景"を前列にいた何人かの村人は確かに目にしていた。
あの男が「ふーん」と笑った直後、ひとりが悲鳴を上げて足を貫かれた。
男の足を貫いたのは、ありえない軌道を描いた木の枝だった。
ーーなぜ、枝が動いたのか。
きっとあれは、村長やユサのように、神に選ばれ、血を分け与えられた者。神選者の力なのだろう。
だが、違う。
村人たちが知る神選者の力には、畏敬があった。
祈りに応じ、誰かを守るための力だった。
しかし、あの男はあまりに静かで、ぞっとするほど嬉しそうに笑っていた。
そこには慈悲もなく、葛藤もなく、ほんのひとかけらの“ためらい”すらなかった。
「あれは…人じゃない」
誰かの心が、恐怖に凍えながら、そう呟いた。
ふと、サクヤは二列目の真ん中に目が止まった。
そこには、どこかで見覚えのある少女の顔があった。静かに、まるで遊歩でもするかのようにサクヤは近づき、少女の前でしゃがみこむ。
「君……さっき青目ちゃんに助けてもらえなかった子だよね?」
サクヤはそう言うと、少女の顔を片手で掴み、ぐいと自分の方へ向けた。
それはまるで、壊れ物を扱うような優しい動作だったが、力は一切緩んでいなかった。
少女は怯えた目でサクヤを見上げ、涙をこぼしている。
彼女は、あの混乱の中でアイカが手を伸ばすことができなかった子だ。
「目の前に希望があったのに、届かなかったんだね。……かわいそうに」
サクヤは、心の底から楽しんでいるように微笑む。
その笑みには、同情のかけらもなかった。
「でも大丈夫、安心して。……君、その顔なら、きっといい金持ちに買い取ってもらえるよ。」
少女は涙を浮かべたまま、小さく顔を横に振った。
サクヤはその動きを確認すると、まるで満足したかのように、やんわりと手を離した。
先ほど、手下の男の髪を乱暴に掴み、枝で足を貫いたあの冷酷さとは、まるで別人だった。
サクヤは船の手下たちの方を向いた。
「ホノカが見当たらないけど、知らない?」
その問いに、手下の一人がハッとしたように顔を上げた。
「ホノカさんなら……まだ戻ってきてません」
記憶の底から引っ張り出したような返答だった。
「そっかぁ……」
サクヤは村の方に視線をやり、わずかに目を細めた。
「時間的にもう出発したいんだけどなぁ。でも、まあ……小舟もあるし。ホノカなら一人でも平気だよね。あの子強いし」
それは他の手下たちに向けるものとは違う、柔らかい声音だった。
確かな信頼と、どこか家族にも似た温もりが滲んでいた。
ーー冷たい波風がサクヤの頬を撫でていた。
静まり返った甲板の上、彼の瞳には未だ、アイカの顔が焼きついていた。
蒼白な頬。
震える瞳。
後悔と絶望に喉を詰まらせ、声ひとつ出せずに
まるで心の中を裂かれた人形のように立ち尽くす彼女。
あれほど可愛かった顔が、壊れていく瞬間。
眉が歪み、瞳の光が消え、震える唇が何かを訴えようとして……諦めた。
希望が砕け、心がぽきりと折れる“その顔”。
――ああ、なんて綺麗な壊れ方だったろう。
思い返すたび、サクヤの唇には自然と笑みが浮かぶ。
胸の奥をくすぐる、あの表情。次は、どんな顔を見せてくれるのだろう。
「次が楽しみだな……」
誰に聞かせるでもなく、サクヤはぽつりと呟いた。
そして、サクヤと村人たちを乗せた船は、夜の海を静かに進む。
その存在を誰にも気づかれることなく。
遠く、村を焼く炎の影が、夜の海にもじんわりと映っていた。
神血の英雄伝 第五話
読んでいただきありがとうございました。
私はもうすぐテストがあるんですが、勉強ばっかりで疲れました૮₍ ඉ́ ̫ ඉ̀ ₎ა
次回も読んでいただけると嬉しいです(՞ . .՞)︎