2-3.嵐戦
辺りの瘴気が濃くなった。キャリバンがなにかするつもりだ。降りしきる雨の中、雨に霞むような視界において尚、それとわかるキャリバンの面差し。目は炯々として笑みがない。に対し、獰猛に吊り上がった口角。
キャリバンが錨を、力任せにぶん投げた。雨の幕を穿ちながら、ミランダに向かって錨が迫る。ミランダの緊張は如何許りか。
正しく悪魔じみた反射神経と運動能力で、豪速の錨をミランダは横に跳ねて避けた。瞬間、錨の雨を蹴散らす音が途絶えた。ミランダは咄嗟に振り向くも、なにが起こったのか分からない様子だ。俺にもよくわからない。トラックみたいに動いていた錨が、空中で消失したのだ。
雨音が耳に響く。誰も動かなかった。そして突如、雨の音に占められた世界に雑音が混じる。
「上だ!」
気付いた俺は叫んだ。ミランダの頭上に、錨が出現していた。投げられた加速度をそのままに。
ミランダは跳ねて前転した。ミランダの立っていた位置に、錨が落ちる。そして水に沈むみたいに姿を消した。
「これは……」
ミランダの真横に、錨が現れた。距離が数センチしかなかった。ミランダは錨に撥ねられた。そして錨はまたも消え、宙へ撥ね飛ばされたミランダは地面に雨を散らした。「ミランダ!」倒れたミランダに駆け寄る。乱れた髪が雨に濡れて顔に張り付いていた。抱き起すと、呻いて目を開いた。
「離れてください、隆志さま。戦いは終わっていません」
「無理するな」
ミランダが目を見開いた。俺を突き飛ばす。錨が頭上から降りてきた。錨はまた消える。押し潰されたミランダを想像して、肝が冷える。ミランダは俺を突き飛ばした反作用を利用したらしく、素早く後転していた。安堵も束の間、錨が真下からミランダを突き上げた。
ミランダは歯を食い縛りながら、空中で回転すると羽を現した。空中に留まる。錨を探しているようだが、錨は既に消えている。次の瞬間には案の定、忽然と姿を現した錨が、ミランダに当たった。錐揉みしながら落下する。着地に失敗して、うつ伏せに倒れ込んでしまった。
「よっと」
キャリバンの手に、錨が戻った。気の抜けた表情でミランダを見ている。いや、見ているというより、見下している。
俺は再度ミランダに駆け寄った。ミランダは起き上がろうと、腕で体を支えようとしている。しかしダメージが深いのだろう。白い腕は真っ直ぐに立っているが、腰から下は碌に動いていない。首も垂れている。
「ミランダ、交代だ」
ミランダに顔を近付けて言う。ミランダは横目で俺を見た。呼吸は整っていない。
「危険です。下がっていてください」
「周囲の瘴気の濃度が増した。これなら俺も戦える」
「キャリバンは第三魔界の中でも、五本の指には入るであろう悪魔です。普通の人間より戦えると言っても、所詮は人間の肉体です。エーリアルちゃんがいなくては、餌にしかなりません」
「だからと言ってお前はもう無理だろう!」
「なあー、もういいか?」
俺とミランダの前に、錨を担ぎ上げたキャリバンが立っていた。見開かれた目。ぞろりと生え揃った牙。灰色の髪が鬱陶しく濡れそぼっている。日焼けしたような肌と、それを覆う鱗に、雨が滑っていた。
キャリバンが俺の胸倉を掴んだ。キャリバンの喉が上下に動く。文字通り生唾を飲み込んだのだろう。
「有り難く食わしてもらうぜ」
かぱっと開かれた口から、涎が溢れた。柔らかそうな唇に対照的な鋭い牙。ピラニアのようだ。
キャリバンの口が俺の肩口に近付く。真紅のビームが、下からキャリバンの顎を打ち上げた。キャリバンは俺を離して後退った。
「いって……!」
キャリバンの目付きが険しくなる。明らかに怒りが籠もっていた。俺の盾になるように、ミランダがゆっくりと起き上がった。
「おいミランダ、ふらついてるぞ」
「隆志さまに、手は出させません」
「まだ邪魔するならぶち殺すぞ」
三者三様の台詞を吐く。俺はぷにっとしたミランダの二の腕を掴んで支え、ミランダとキャリバンは睨み合った。
「隆志さま、心配は無用です」
ミランダは俺を見てそう言うと、俺の手を退けた。そしてキャリバンに向く。
「あの錨の絡繰りは分かりました。時空操作の応用です。おそらくは時空に虫食いのような穴を開けて、そこを錨が通り抜けているのでしょう。異空間では空気抵抗や重力はないはず。ゆえに加速度を減じることなく、錨を四方八方から繰り出すことができるのでしょう」
「だがそれが分かったからと言って、対処できるのか」
「あの技の弱点は、瞬間移動ではないことです。瞬間移動だと、力の向きを変えることができない所為でしょう。錨の進行方向を時空の虫食い穴に通すことで変えているのです。虫食い穴に入ってから出てくるまでに、数瞬の間があります。そこを突きます」
ミランダは瞬発力の全てを注いだように前へ動いた。キャリバンが錨を振る。そのときにはミランダがキャリバンの懐に潜り込んでいた。ミランダがキャリバンの腹に手を当てる。真紅に発火して、キャリバンが吹っ飛んだ。零距離でビームを発射したのだろう。
飛ばされたキャリバンは態勢を持ち直すと、すぐさま錨を投げつけた。錨は姿を消す。それを予期していたミランダは、ねずみ花火のように、不規則かつ素早くキャリバンの周囲を駆け巡った。
キャリバンが苦虫を噛み潰したような顔になる。何度か錨が現出してミランダを襲ったが、そのどれもが余裕を持って躱されていた。ミランダの動きを捕捉できないのだろう。
「それで、俺を倒せると思うのか!?」
「倒せるとは思いません。ですが、諦めさせるくらいなら可能なはずです」
「そうかよ、なら――」
俺の真下に影が出来た。
「隆志さま!」
ミランダが絶叫に近い声を上げる。俺は溜め息を吐いた。
「やっと来た」
「とーうっ!」
俺の頭めがけて降ってきた錨を、黄色いポンチョに身を包んだエーリアルが蹴り飛ばした。錨は風を斬るような速さでキャリバンにぶつかった。
「呼っばれってとっび出ってぱっぱらぱあ! エーリアルです!」
「てめえ、この、エーリアルっ!?」
喚いたのはキャリバンだ。のしかかる錨を退けた。そして掴み直し、構える。
「これを見てくださいアリゲーリ。雨も滴る佳い剣っ」
キャリバンなどお構いなしに、エーリアルがくるりと回転する。黄色いポンチョがふわりと舞い、雨の滴が舞った。
「今までなにをしていたんだ」
「アリゲーリの許へ急いでいました」
「ならどうしてこんなに遅い。一瞬で来れただろう」
「次元を通ると、この姿をアリゲーリに見せられないでしょう」
「おま……」
「どうですっアリゲーリ! 可愛いげがありますか?」
「いっそ憎たらしいよ」
エーリアルが跳び上がった。俺の真上まで跳んで、落ちてきた錨を蹴り上げた。着地すると、俺の手を掴んだ。
「エーリアル、積年の恨み、ここで晴らしてやるよ。魔王ごとぶっ潰してやる!」
キャリバンが叫んだ。もはやミランダは眼中にない。憤怒の眼光は、一点エーリアルに注がれていた。
「知り合いなのか」
エーリアルに訊くと、「へっ」と小馬鹿にしたような笑いを見せた。
「一時期ちょっかいをかけられたので、ぶちのめしてやりました。その後でパシりです」
「いつまでもパシりと思ってんじゃねえぞ!」
「ハッ、身の程知らずとはこのことですね。また七日七晩磔にされてえのか!?」
「ひぃ」
エーリアルが凄むと、キャリバンが情けない声を漏らした。凄むと言っても、少女の姿だから怖くはないのだが。
「エーリアル、終わらせるぞ」
エーリアルは剣の姿になった。俺はキャリバンに向かって歩いた。真下から、錨が現れた。脚のばねのお陰で、ダメージこそ少ないが空中に放り出される。体を捻り、エーリアルを円状に振った。斬ったのは時空だ。時空の虫食い穴を斬ってずらせば、錨は見当違いの方向から出てくる。再度あらわれた錨が、まったく出鱈目な方向へ飛んだのを見て、キャリバンは俺に迫った。俺は着地した。
キャリバンは錨を手に戻し、殴り掛かってきた。エーリアルと錨を切り結ぶ。錨を切断しないのは、エーリアルが遊んでいるからだ。打ち下ろされる錨を、エーリアルで弾く。右から、上から、下から、左から。延々と打ち返す。
「確かにエーリアルは強いがな、それを振るうお前さんはどうなんだろうなあ!」
キャリバンの腕に力が入る。錨を振るう速度が上がった。切り結ぶ金属音のピッチが上がる。
「あまり舐めない方が良い」
何合目かで、エーリアルの刃がキャリバンの首筋を捉えた。皮一枚で静止させている。キャリバンは錨を振り上げた態勢だ。
「舐めるな!」
キャリバンが錨を振り下ろした。俺は片手を上げて、錨を受け止める。ずしん、と、体に堪えそうな重量感だ。キャリバンの表情が驚きに染まり、次いで悔しげになった。
「人間じゃねえのか」
「ミランダから聞いてなかったのか? ……ああそうか。報告を聞かずに飛んできたって言ってたもんな。これだけ瘴気が濃いなら、身体能力もかなり上げられる」
「さあさ、ヤッちゃいましょうアリゲーリ」
「これで終わりだ」
錨を地面に避けて、エーリアルを手放す。人型に戻ったエーリアルはキャリバンを見ていた。キャリバンは呆けたような面で俺を見ていた。
「じゃ、エーリアルが始末をつけます」
「ひぃ」
怯えがキャリバンに走る。身を縮こませて、本当に情けない。ミランダ相手にぶいぶい言わしてたのが嘘のようだ。
「おい」
「殺しはしません。殺しは」
殺し以外で、エーリアルが笑うのも珍しい。非常にいやらしい感じの笑いなのが心配だ。
「こ、来ないで……」
キャリバンが後退る。堪えかねたように、背中を見せて逃げ出した。が、跳び付いたエーリアルに脚を掴まれた。
「いや、やあっ! やああ!」
「うへへへへへへへへ」
ずぶずぶと時空の穴に沈んでいくエーリアルとキャリバン。中々ひどい絵面だ。キャリバンの抵抗も虚しく、時空の穴に沈み切り、そして穴は閉じた。
雨の音が急に強くなった気がする。ミランダが少しふらつきながら、そばに寄ってきた。
「終わったんでしょうか」
「まあ、終わりだろうな」
俺は隅に置いておいた合羽を拾い、ミランダに被せた。
「帰るぞ」