人と悪魔
夢を見ていた。仲の良い友人たちと食事をする夢。それ以外になにもない、そんな夢だった。
今朝は早起きだった。カーテンを開けると、朝日が目映い。窓を開けると、涼風が吹き込んだ。さあ、顔を洗おうか、それとも歯を磨こうか?
部屋を出て、一階に下りた。カーチャンはいなかった。テーブルには昨夜手を付けなかったトンカツとキャベツの千切り、トマトの盛り付けられた皿がある。洗面所に行って、顔を洗い、そうしてリビングに戻る。
俺は台所に行って、味噌汁に火をかけた。炊飯器にはしっかりと保温の設定がされている。ご飯を茶碗に盛り、味噌汁を椀に注ぐ。二つをテーブルに並べた。
さて、カーチャンのトンカツは冷めていても旨い。表層の衣はカリッとして、歯を突き入れた瞬間、ザクっとした食感が響き渡るようだ。肉に到達すれば、肉汁が溢れてきそうになる。旨みが口の中いっぱいに広がって……。
俺は食品用ラップを皿から剥がし、トンカツを一切れつまんだ。口に放り込んで咀嚼する。よく噛んで、飲み込んだ。
思わず笑みが零れてしまった。
「不味い」
「いらっしゃいませ」
その日は嵐だった。昼下がり。俺は此方田の店にいた。嵐のために客はない。寂然として時間が過ぎる。不意に戸が開く。店に入ってきたのは女だ。濡れそぼつ姿が見るに堪えない。女はなにか言いたげに俺を見ている。俺は奥からタオルを取って、女に渡した。女は黙ってタオルを受け取る。体を拭きつつ、
「あんた、なにしてんの?」
と宣う。
「見りゃわかんだろ」
言い返した。
「……板前?」
「正確じゃないな。ここはしがない居酒屋だから……いや、口が滑った」
「なんであんたが?」
「一年位前から雇ってもらってる。というか体を拭いたらとっとと座れ。落ち着かないだろう」
「え、うん。まあね」
女はタオルを俺に返した。そろそろとカウンター席に女は座る。女の名前は御東咲花。俺の幼馴染で、人柄を言えば無欲な奴だ。俺が保証できる。
「で、なんにするんだ」
「あんたが作るの?」
「悪いか」
「いや悪かないけど。なんでかなって」
「なんでって?」
「だって、料理するような柄でもなかったじゃん。そりゃあ昔からなんでもできる奴だったけど」
「……うん、まあな。ちょっと思うところがあってな」
「意外ね」
「なにが」
「あんたがそんな風に話をするのが」
俺はこいつの前では、上手く行動を起こせない性質だった。俺は他人の願いを行動の軸にしていたからだ。特に願いのないこいつ相手に、上手く立ち回れなかった。今は違う。俺は、俺のするべきことをするだけだ。
「炒飯をお願い」
「承った」
炒飯を作る間は、咲花に背を向ける。だから会話もない。炒飯が出来ると、特に何事もなく差し出した。
咲花は一口米を含む。噛んで飲み込む。
「おいしい」
「どうも」
「ねえ、なんで料理なの?」
「なんで訊くんだ?」
「意外だったから気になって」
「……料理をな」
「うん?」
「一緒に美味いものを食べたい奴がいるんだ。これはその時のための練習だ」
「へええ、誰と?」
「そうだな、お前みたいな黒髪で、服のセンスがある意味壊滅的で、美人で、それと体が、ぁ……なんでもない。それと、ええと、な。健気で、食い意地張ってて、笑うと元気が貰えるような、素敵なやつだよ」
「なに顔赤くしてんの? 恋人なの?」
「こ、恋人っていうよりかは……いいから食えよ」
俺は適当に会話を誤魔化す。近くで乾いた雷の音。
「ひゃいっ!」
咲花が肩を跳ねらせた。こちらが驚くほどに雷の苦手な女だ。
「もう少しで嵐は止むから安心しろよ」
「なんでわかんの」
「さあ、風の報せかな。なんでか勘が冴えるんだ」
「ああ、そう。そういえば此方田は?」
「奥で寝ている。こういう天気じゃ客もないしな」
咲花は笑った。
そんな風にして、日常は過ぎていく。瘴気の魔王アリゲーリの物語は、いつの間にやら完全に終わっていた。今あるのは、間央隆志の物語。なんていうことのない、ただの人間の物語。俺の物語だから、きっと、物語っても楽しいのは俺だけだろう。だからここで終わる。いつかまた、彼女に会うのを夢見て。
終わり




